はたらく細胞 2024日 武内英樹
私=脳は、もっともっと体を労わって感謝しないとダメです。
はたらく細胞は自分ではあるけれど脳は体の頑張りなんて当然として、そんなことはおかまいなしに好き勝手やっています。
その細胞が老化してくことを一番に怖れているのは脳です。
脳は自分勝手、体は献身、人の二面性は人そのものの中にも存在しています。
【いもたつLife】
私=脳は、もっともっと体を労わって感謝しないとダメです。
はたらく細胞は自分ではあるけれど脳は体の頑張りなんて当然として、そんなことはおかまいなしに好き勝手やっています。
その細胞が老化してくことを一番に怖れているのは脳です。
脳は自分勝手、体は献身、人の二面性は人そのものの中にも存在しています。
【いもたつLife】
大きな括りはありきたりのタイムスリップものですが、侍が現代へということに絞っていて、それを活かした練られた脚本と、とても丁寧な造りで、楽しいし、感心します。そして最後の殺陣は素晴らしい、文句なしの良い映画です。
高坂(山口馬木也)が140年タイムスリップして現代に来て、それに戸惑う序盤から切られ役として今に馴染むのをコメディタッチで描きます。それが、今の日本の豊かさは先人たちの努力だと、大袈裟に押し付けないで高坂を通して語ります。
全体的に押し付けなく進むのが心地よいです。
そしてタイムスリップ前に敵同士で果し合いをしていた風見(冨家ノリマサ)が現れます。風見は30年前に来ていて切られ役から始まり今や大御所の大物俳優という、この設定が随所に活かされます。
そんな二人は、斜陽になった時代劇を救うための映画作りに尽力し、そのクライマックスは真剣勝負になります。
この、時代劇を再び、も結構強く謳いたいということをつかって、幕末に二人が藩の中で果たした役割や、遺してきた過去の侍仲間への鎮魂を込めて、そして序盤に語られる豊かな日本になった工程を観る者に噛み締めてもらうように仕掛けられた真剣勝負です。
その殺陣は最大の見どころです。
無駄がなくリズミカルなのも良いし、紅一点の助監督役の優子(沙倉ゆうの)のキャラクター設定も絶妙です。
話題になったのが解ります。
【いもたつLife】
余命間もない被爆者の「病人」とそれを見舞う被爆二世の「甥」、同じ被爆者であっても、立場も考えも生き方も、世間に対しての接し方も違います。
初演は1962年、当時の観客は生々しく観劇したことでしょう。
しかしこのプロットは人の生き方として起こる世間からの重力は普遍ですし、人の弱さや譲れないものを持つ性も普遍です。
この二人の話だけではなく、「通行人」二人のやり取りや、「医者」と「看護士」「妻」の立ち居振る舞いも日常に起こる光景です。
この劇は被爆という大きな代償がもたらした大きな社会の悲劇を裏側にして、生き方を説いているように感じました。
私は1962年生まれなので、終戦から17年で産まれました。たった17年でも戦後から遠く感じるのに今は79年経っています。この戯曲の被爆は若い観客にとって遠い存在になっていなければ良いことを祈りながら観劇しました。
【いもたつLife】
一、加賀鳶(かがとび)本郷木戸前勢揃いより赤門鳥居前
二、鷺娘(さぎむすめ)
加賀鳶は世話物として、話が凝っていたかなり練られて面白い演目です。
最後のだんまりを長く使った捕り物は痛快です。
鷺娘は一人で30分を艶やかに身体能力も高く踊り切ります。演奏も見事。
人に恋した鳥獣が変化するというのはよくある話ですが、それほどに敵わぬ恋があったことが窺えます。また、叶わぬからこそ恋に焦がれてしまうのでしょう。
その心が痛いほどに伝ってきました。
【いもたつLife】
3度目の上演です。
2016年が初演、2019年が二度目の公演で、今回3回目です。
この作品は、フランス国立ケ・ブランリー美術館の開館10周年の記念公演のために、SPACに創作依頼されて出来たものです。
創作のきっかけは、レヴィ=ストロースの最後の著作「月の裏側」に出てくる仮説です。
「因幡の白兎」をはじめとした日本の神話が第一部、アメリカ先住民ナバホ族の神話が第二部、この二つには繋がりがあり、もっと言えば世界に広がった関連ある神話の大本がアジアのどこかにあるだろいうというレヴィ=ストロースの仮設を、SPACがその大本を創作するという野望とも無謀ともいえる宮城さんのアイデアがこの演目のきっかけで、これをもって「クロード・レヴィ=ストロース劇場」のこけらおとしの上演に持っていったのが2016年です。
その当時の創作の模様をアフタートークでたっぷりと聞けました。
なにしろ本家本元へもっていく創作演劇の創作ですから、いつもの作り方とは異なり、本当に“無”から、まずは世界中の神話をスタックと俳優で調べあげるところからのスタートとのこと、そして感心したのは、レヴィ=ストロースの構造主義を演劇として具現化するということにも挑戦していたことでした。
種を蒔く、畝を作る、これらの普遍的な行為を演劇に落とし込むときにそれを、構造主義を取り入れたということで、重ねる言葉や重ねる音楽はその成果だったことに感動も湧くアフタートークでした。
そして今回の演劇は、筋肉質になっていたという印象です。力強いパフォーマンスはそのままに、ひとつひとつの演技、ムーバーの立ち居振る舞いが、スピーカーの言葉が、そのシーンを想像させる力が強くなっているのです。
この3回目の上演は初回メンバーと顔ぶれがかなり異なっていましたが、この演劇の成り立ちと概念はしっかりと受け継がれています。それも素晴らしいです。
追伸
11/7は「立冬」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「立冬」の直接ページはこちら
立冬
【いもたつLife】
【昼の部】 「二人三番叟」、「絵本太功記」~夕顔棚の段~尼ヶ崎の段
楽しい舞踊から始まり、明智光秀を主役とした時代ものです。
暴君信長を討つ光秀はやむに已まれず、そして秀吉はその光秀の心情を量るという戦国武将それぞれを称えるこの頃の社会がみてきます。
それを文楽は人形と浄瑠璃で表現するのですが、この劇のクライマックスの壮大さは素晴らしかったです。
【夕の部】 「近頃河原の達引」~四条河原の段~堀川猿廻しの段
こちらは世話物です。まず理不尽な行いが起こるのですが、お決まりではありますが、じっくり見える演出で引き込まれます。
猿回しの団は、題名通りとても楽しい猿回しがあります。その前には人形と三味線が一体となったこちらも楽しい芸があります。これも文楽ならではです。
今回の演目で、義太夫語りと三味線が場面ごとにかなり大胆にかつ繊細に演じ分けていることを今まで以上に感じました。少しは文楽を、浄瑠璃の見事さが解るようになってきたようで嬉しいです。
【いもたつLife】
社会人のための文楽鑑賞教室と銘打っての公演です。
*伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段
まずは口開けという感じの短い演目ですが見どころは満載でした。
義太夫二人と三味線三竿、そして艶やかなお七です。
100年前に考案された人形遣い3人ともに消える梯子登りは素晴らしいの一言です。
*解説 文楽の魅力
一幕を見せてからの解説ですから聞き入ります。今までもこの手の解説を何度か聞いていますが、今回も細かい人形の仕組みに日本の古典の歴史や知恵、継承を感じました。
*夏祭浪花鑑 釣船三婦内の段・長町裏の段
昼の部の歌舞伎と同じ演目で、まず団七の全身入れ墨をどう人形で表すかに注目していましたが、いやはやこの文楽と言う人形浄瑠璃はなんでも表現できることに驚きです。
それは歌舞伎でも団七が義平次を、どうしても殺さなければならない逡巡とそれを執行する時の狂気がクライマックスで、この場面の鬼気迫る人形は人が演技する以上ではないかという人間が切迫した時そのものでした。
文楽の凄さを堪能しました。
【いもたつLife】
*夏祭浪花鑑 二幕三場
序幕 住吉鳥居前の場
二幕目 釣船三婦内の場 長町裏の場
中劇場での歌舞伎と小劇場での文楽を、同じ演目で観られるという企画です。まずは歌舞伎です。
江戸時代に生きる感覚として「男が立つ」「男が立たない」というのがあります。この芝居もそこがポイントで、でもそれは男に限らず女もです。
一見「武士は食わねど高楊枝」のようなきっぱりとした気風であり清々しさのイメージがありますが、実はその男が立つ立たない自体が独り歩きもしてしまいます。
そんな市井の輩と女たちの生き方が活き活きと描かれます。それはドロドロした人の性までです。
団七は義理の親の義平次を殺めるのですが、ギリギリのところまで耐えて、でも臨界点をこえてしまいます。
ここには打算がなかったか。少なくても現代の感覚でのずるがしこさは感じません。
当時嫌な奴もたくさんいたのは今も昔も変わりません。
でも根付いていた「男とは」「女とは」は、かなり違う価値観であったことを実感する歌舞伎で、その演目でした。
【いもたつLife】
人気演目2本立てです。
*妹背山婦女庭訓 太宰館花渡し
*妹背山婦女庭訓 吉野川
今回の見どころの一つは定高を玉三郎が務めることです。その相手役となる清澄の松緑も堂々と渡り合っていました。ちなみに入鹿は吉之亟、久我之介は染五郎、雛鳥は左近です。
“吉野川”は何度観ても辛い名場面です。
一つ一つのシーンを丁寧にじっくりと堪能させてくれました。
*歌舞伎十八番の内 勧進帳
これも名作、本家の歌舞伎で必ず観たい演目でした。そして見どころたっぷりでした。
幸四郎が迫力ある弁慶を演じ、それを後押しする長唄も素晴らしいです。
黒澤明が「虎の尾を踏む男達」での演出は歌舞伎をリスペクトしていたことが解りました。
【いもたつLife】
静岡の清水にゆかりがある平野富山展で、彩色と木彫の素晴らしさ、芸術を堪能しました。
取り壊しのため昨年通った国立劇場の「鏡獅子」は田中と富山が制作したと知りそれに関連する展示を楽しみにしていました。
その制作の様子も見どころでしたが、なんといっても身近に観る彩色された木彫は、その質感といい、木彫ではなく、本物の着物のようにしか見えません。
極めるとはこういうことなのかという想いが常に頭をよぎりました。
【いもたつLife】