いもたつLife
映画「ドライブ・マイ・カー」原作
村上春樹著の6篇の短編小説「女のいない男たち」からの三篇「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」が映画の下になっていました。
どの話も寓話的で現実離れしているのですが、人が持つ心理を的確に表現されています。
いつのまにか自分のことを自分で納得してしまうという所です。
これで良いんだ、これは仕方がないんだ、これを選んだんだ、自分が決めたこと、とってた行動、そしてそれを踏まえてこれからやろうとすることに自分自身に言い聞かせているのが私自身ても身に覚えがあります。そんな話でした。
その骨子が映画で十二分に表現されていたことを思い出します。
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【4月 大歌舞伎】荒川の佐吉/義経千本桜
荒川の佐吉は、大工の佐吉が任侠道に入り、三下から親分へ、そして、人間としても完成していく半生記です。その若き頃から段々と成長していく様を幸四郎が表現しています。物語の鍵は、佐吉の親分の盲目の赤子の卯之助の育ての親となり、実の親子以上になりながら、卯之助の将来を考え、泣く泣く別れる様ですが、この親の情をこれまた見事に、佐吉になり切った幸四郎です。
話自体も面白いし、人は子により育てられること、そして同じく別れがこれまた人を強くすることを表現されていました。
そして佐吉の友人の辰五郎(尾上右近)が良いんです。佐吉にとって優しい時、物入りの時は叱咤激励してくれるし、卯之助の保護者だし、辰五郎抜きでは佐吉の今は無かったでしょう。これも人生のキーポイント、ほんの一人か二人で良いんです。誰と生きてきたかです。
ますます歌舞伎に嵌りそうです。
義経千本桜は舞踊でした。
歴史を垣間見ます。様式美を感じました。また、歌舞伎観劇の嗜みもです。
これも歌舞伎役者の立ち居振る舞いに酔います。
どちらも今の時期の演目です。荒川の佐吉も桜が綺麗で、義経千本桜は女形もセットも華やいでいました。
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【3月 大歌舞伎】信州川中島合戦/石川五右衛門
信州川中島合戦もワンシチュエーションで、じっくりと見せてくれます。
近江源氏先陣館~盛網陣屋~同様に当時の武士の生き様、価値観、美意識が堪能できます。
現代人とはかくも違うモノか、個は大きなるもの(家)のための者ということを疑わずに生きていました。
だから死生観が全く異なります。
命を懸けること、この命をどのように使うかが物語を紐解く鍵でもあります。
また死を覚悟した者は劣勢に立つ者なのですが、それに敵対する大いなる者はその覚悟を受け入れます。受け入れるとは鮮やかな死にはそれに報いなければならないのですが、その立場で苦悩するのです。
今よりも“~~であらねばならぬ”“~~すべきである”という縛りが強く大きかったことが窺えますが、だからこそそれを背負うことで自分の生を活かそうとしていた。そんな古き時代の美を感じました。
石川五右衛門はまさにエンターテインメントでした。
これでもかと、観客を喜ばせます。
定番の台詞、衣装や舞台装置、そして脚本も。
初めてでも決めポーズとその台詞は日本人なら染みついています。
今も昔(江戸時代頃)も、なかなか歌舞伎観劇は出来なかったでしょうけれど、皆がその決めを知っているということで、それも歌舞伎の凄さです。
今も昔もと言いましたが、今の方がもちろん歌舞伎観劇ができます。良い時代に生きています。
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【3月国立劇場 歌舞伎】近江源氏先陣館~盛網陣屋~
歌舞伎は、完成度が高いことを痛感です。
そしてこの話、家族を信じ、個を消して強かに目的をやり遂げる、その執念というか、やるべきことを成すことに妥協はしない、もちろん戦時であるがゆえにその選択なのですが、鮮やかな策略で、そしてそれを遂行しています。
まず、佐々木二人は兄弟でお互いの敵方の軍師、鎌倉方(徳川方)と京方(豊臣方)に別れます。これはお家存続のためで、よくあったことらしいですが、ここからして、忠誠を尽くす武士道を通すのと、お家の存続の大命題を適えます。
そのためには、もちろんどちらかの兄弟とその家族の死が必然になるわけですが、それを仕方なくではなく、それをどちらかが犠牲になることは厭うことではないとしいます。
物語は弟軍師の幼子が、兄軍師の元で人質になったところから始まります。
幼子が人質になると、それを助けることが当たり前だし人情です。それを逆手に取る弟。でもこの戦略は、それをすることにより、佐々木家に何をもたらすかの意義が兄に通じなければ元の木阿弥ですが、幼子を死に至らす弟の計略は兄を動かすことが絶対というのが前提で、兄はもちろんその意を汲みます。
武士の務めも絶対です、でも隙はあります。でもその隙とは13歳の子の切腹でしかこじ開けられません。けれど、それを父は要求し、子もそれに応えるのです。なんという意志の疎通でしょう。
それをやり遂げます。
物語自体も壮絶で見どころ満点ですが、それに応えるのが歌舞伎役者です。
そして衣装やセットもです。
娯楽作品が見事に昇華されていました。
【いもたつLife】
ドライブ・マイ・カー 2021日 濱口竜介
主人公 家福(西島秀俊)の再生物語という物語の王道ですが、とても凝った、そして気が利いた演出です。
19年前に幼い娘を喪った家福夫婦、それを乗り越えて妻の音(霧島れいか)とは理想的な、愛し合う二人のように一見は見えます。いや一見ではなく本当に二人は各々を必要としていて、また、最愛で、不可欠なのは確かですが、ひとつだけ、何故か音は複数の男性と関係を持つことをします。そしてそれを知っている家福は、音を失うことが怖いのと、それでも愛している自分を確認するために、このことは自分の中で封印しています。
物語は音の急死から動き出します。
喪失感を持ちながらも演出家としての活動を続ける家福に広島での演劇祭の演目「ワーニャ伯父さん」の創作で出会ったスタッフと役者たちとのやりとりで変化が起こります。
劇中劇がキーになっています。序盤は「ゴドーを待ちながら」、そして「ワーニャ伯父さん」、もうひとつは脚本家の音が創作した物語です。
その台詞や稽古の動き、そしてラストの上演で、家福の心情とこの作品の主旨が語られます。それとは対照的に家福の他人とのやり取りには彼の本音はありません。
人は社会で生きていくことの前提として、本音ではないやりとりをするのは当たり前ですが、それに乗っ取られてしまっている象徴が家福で、音の浮気を赦す自分は本音であると言い効かせていたことに気付きます。
それは演劇祭で雇わなければならなかった、家福夫婦の早逝した今生きていれば同い年の23歳のドライバーみさき(三浦透子)に心を開いたからです。
このみさきとの関係、お互いに相手の心を知ろうとすることが終盤に怒涛となって家福を変えていきます。
音のふき込んだカセットテープ(ワーニャ伯父さんの台詞)を毎日愛車のサーブで聞いて、稽古して、自分を確認する家福はそのサーブの中の世界に他人のみさきを入れたことが転機となるという演出を筆頭に、前述した劇中劇と家福の日常で語らせるという方法が、何気ない物語の進行とどんどんリンクしていきます。
また、「ワーニャ伯父さん」の演劇は多言語プラス手話を使うという上演方法を取るという形にして、この世界の複雑さや不条理、人が持つ多面性を語ります。
またサーブを東京(首都圏)、広島市内と瀬戸内海、また北海道(みさきの実家)にまで走らせるのも日常と非日常を上手く語っています。
事程左様に他にも含めて、とても凝った演出で、しかもストレスがないので、長尺の映画ですが、引き込まれっぱなしです。
人の複雑さと多様な社会で生きざる得ない今、そして愛する人を必要とする普遍さの重要さ、それらが適うことの難しさを問題提起として、ある解決を示している、そんな映画のように感じました。
それを非常に巧くみせています。
【いもたつLife】
【歌舞伎座】二月大歌舞伎 第三部
まずは、「鬼次拍子舞」です。
平家の武将が白拍子と出会い、舞を踊りながら二人の思惑が表現されます。
立ち居振る舞いが良く、リズムも良く、舞の芸が進みます。目は口ほどにものをいうごとく、舞での表現を観る者は探ります。
こういう舞台はこちらの嗜みが試されていることを感じます。
短い演目でしたが内容は詰まっていました。
幕間をはさみ後半は「鼠小僧次郎吉」です。
打って変わって舞台も大がかりで、幕により情景と状況の変化に富み、また話も込み入っています。
演目の幕間の舞台設定だけでなく、幕あいでもトンカントンカンと素早い変化はお手の物とばかりに市井、番屋、次郎吉の屋敷、お裁き、クライマックスの立ち合いの場、そしてラスト、と、雪の情景も上手く使って展開されます。
悪役人が出てきて、新吉と芸者お元の中を引き裂こうと画策し、嵌められ、それを助けるのが義賊の次郎吉、しかし盗んだ金に刻印があったことから、新吉、お元が盗人扱いされ、かつ、番屋の主人もしょっぴかれます。
次郎吉は名乗り出なければならなくなり、という話ですが、次から次へ登場人物が現れそれが皆次郎吉と関係がありと、風呂敷が広がり、どうやって収めるかと思いきや、クライマックスからラストにかけて、それまでの静から一気に動になりまとめていきます。
面白かったです。
歌舞伎良いです。
落語の「蜆売り」はこの一部を切り取って独自にしていることを知りました。
【いもたつLife】
【spac演劇】夜叉ヶ池 宮城總 演出
晃と百合のちょっと暗く、でも仲睦まじい舞台から始まり、学円が加わりプロローグとなります。このパートでは問題提起や登場人物の人となりの紹介で、そして大事なこととして雰囲気はあくまで理性的です。この後、妖怪たちのパート、村人が出てきてのパートが感情的なのと対照的です。
その妖怪パートと村人パートは同じ感情的な括りではあれど、陽と醜という造りです。
人は良い悪いではなく、明確な理由はないけれど人として、これをやっていた方が良いたとえ面倒でも、ということが、生きている中であります。それが直接生活を豊かなモノにするわけではないけれどということです。
晃が日に三度の鐘撞を欠かさないというのもそれです。
それに対して、人としてやってはいけないことは人には解っています。けれどそれを覆すことは人には良くあります。村の日照りを収めるための雨ごいの生贄として百合を差し出すことを決めた村人たちは、それは仕方がないことということを正当化の御旗にして、自分の物理的な欲望と、建前として出せない自分の嫌らしい欲望と、他人を貶めることによって相対的に自分で自分を優位にさせたい、ここぞとばかりにそれらの心の奥底から発散させたい醜さを正義だと主張して百合に強要します。
その醜に対して妖怪たちのパートは、白雪姫の欲望=「千蛇ヶ池の若君」の下に行きたいは村人たちの欲とは違い、素直であからさまです。でもそれをしてしまうと大洪水になることから他の妖怪たちに思いとどまるように諭されます。しぶしぶながら受け入れる白雪姫です。
その対比は人と妖怪のどちらが人らしいかと皮肉られています。
そして演出もそれそのものです。
妖怪パートの明るい音楽と衣裳、台詞、どれをとっても陽気です。
村人パートはモノクロが基調の衣装、暴力的で排他的な音楽と台詞、繰り返しますが自らを正義と叫び正当化する姿勢は、これだけはやってはいけない、美しさがない姿です。
追い込められる晃と百合がとった行動は、心中です。
今回の観劇で、曽根崎心中や心中天網島の当人の気持ちと晃と百合の気持ちが重なりました。
あの世があるかどうかは解りません。
例えなくてもあるとして、あの世で添い遂げようとするしか、それ以外はないという八方塞がりに置きこまれたのが晃と百合です。
社会とは時としてそういう個人攻撃をしてしまうのです。それが人間社会の一面です。
ごくごく普通の人が加害者になりうる危うさがあります。怖いです。
学円は一観客としてこの演劇に参加しています。
学円は祈りを捧げて退場します。私も人が人でなくなることがない時代でいて欲しいと祈りました。
人は追い込まれたら、妖怪よりも怖いモノに変化してしまうからです。
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【spac演劇】綾の鼓 伊藤郁女、笈田ヨシ 演出
三島由紀夫の原作を、伊藤郁女さん、笈田ヨシさんの演出家兼主演二人が解釈し、それをダンスを中心とした舞台に仕上げています。
劇としての体裁を取りながらもやはり見どころは伊藤郁女さんの舞台でのダンスを含めた立ち居振る舞いです。所作がとても綺麗です。
そして、笈田ヨシさんの存在感が、この物語に合っていて深みを醸します。
老いた男の恋への憧れと、若い女性の気ままな振る舞いが表現されていますが、私はどうしても老いた男の揺れる心と、それを行動に表そうかと逡巡する様に心が動かされます。
いつまでも心も体も若くいたい気持ち、綺麗な女性に虜にされていまう心、そして自分に取り込むことは不可能だけれどそれを夢見てしまう男の性、それらを笈田ヨシさんが代弁してくれています。それはけっして邪な心ではなく、生の終わりが近づいていても生きることであると言っているのです。
観劇出来て本当に良かったです。
【いもたつLife】
【spac演劇】夢と錯乱 宮城聰 演出
フランスの演出家クロード・レジ氏の最後の作品として2018年に上演された「夢と錯乱」を、亡くなったレジ氏に捧げて宮城さんが焼き直したのが、この「夢と錯乱」です。
舞台は前回同様の楕円堂。この演目はここ以外では考えられません。
このオマージュ作品、一番の違いはやはりフランス語字幕と、主演で独り舞台の美加里の日本語です。台詞は詩の朗読ですから日本語の方が分があります。
それを最大限に活かすのが美加里で、朗読の緩急と感情移入、そして優れた身体能力での表現は闇の中でも凄みが解ります。
レジ作品は、静でしたが、この作品は動が取り入れられています。
美加里の動きもそうですが、レジ作品ではかなり控えめだった照明と音響で攻めてくるところです。これはやはり美加里の演技があるからでしょう。
内容は暗いです。「夢と錯乱」の原作者のトラークルの分身が舞台でのたうちまわります。
美加里演じる分身は絶望をこれでもか、これでもかと訴えてきます。
そしてトラークルが絶望の中で息苦しく生きる様が演出されます。それは日常、生い立ち、大人になってからの人間関係、そしてラストは第一次大戦での苦悩です。
トラークルののたうち回る様で、レジ氏も宮城さんも何を訴えたかのかを考えます。
それは多分、人間の本質だからでしょう。
私たちは私たちの本質をオブラートに包んで日常を過ごすことが習い性になっています。トラークルはそれをしなかった。できなかったのかもしれません。でもその生き方は凡人とはかけ離れた凄みがあったはずです。
レジ氏と宮城さんの狙いはそれが正解ではないでしょうけれど、いくらかかすっているのではないでしょうか。
【いもたつLife】
はじまりの記憶 著者:柳田邦男・伊勢英子
著者お二人の幼少期から子供の頃の、今の自分を作った記憶をたどるエッセイです。素敵な挿画付きです。
自分が生きてきた元になる、同じような体験が数多く収められていて、こんなに懐かしい気分に浸れるものかという読書でした。
そして、自分の幼い頃が可愛くなり、両親をはじめ、生長を見守ってくれた人に暖かい気持ちになりました。
【いもたつLife】