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いもたつLife

ギュスターヴ・モロー展

良かったです。
目玉の「出現」「デリラ」「セイレーン」「パルクと死の天使」「一角獣」等々ももちろんですが、習作が多く展示されていて立体的に感じます。
また、ギュスターヴ・モローの人となりに触れることができるプログラムでした。
パリのギュスターヴ・モロー美術館に行きたくなりました。

追伸
6/6は「芒種」です。二十四節気更新しました。
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芒種

【いもたつLife】

日時:2019年06月06日 09:09

【SPAC演劇】マダム・ボルジア 演出:宮城聰

spacの新作「マダム・ボルジア」は稀代の悪女ルクレツィア・ボルジアが自分が犯してきた数々の大罪から、実の息子ジェンアロに母親を名乗れず、しかもジェンナロを傷つけてしまっていることに苦悩する物語です。
多くの暗殺に絡み、政略結婚で闇の政治にも関わり、ボルジア家の一員らしく残虐でもあったらしいのですが、この「マダム・ボルジア」のルクレツィアを演じている女優の美加理は、絶世の美女で高貴であったルクレツィアらしさは十二分ですが、残酷な悪女のイメージはありません。
駿府城公園に特設された野外会場に響く透き通る声やその優雅な立ち居振る舞いで、ジェンナロを愛する姿はただ一人の息子を想う母であり、恋人を慕う一人の女です。
多分そういった面は、歴史を踏まえた上でのこの戯曲のルクレツィアらしいのは間違いないですが、それでも美加理はあまりにも一途で到底稀代の悪女には重なりません。
この「マダム・ボルジア」は当然それを踏まえて造られています。
それは何故か?

「マダム・ボルジア」は3回観劇しました。その3回目はそれを考えました。
ひとつ思いついたことがあります。それは人は不可解ということです。

こんな高貴な方が、ボルジア家のためとはいえ、いとも簡単に多くの人を毒殺するわけがない、ということはない。ということです。
そして、多くの者たちから憎まれる女であっても、愛する者を自分の命よりも大事に想うのは当然であるということです。

当たり前の結論になってしまいますが、今の自分は自分が決めた自分である部分はとても少なく、でもそれを踏まえて生きていることを自覚しなければならない(大変ですが)ということです。
環境で造られた要素は大きく、立場と役割があります。今の造られた自分は理不尽であったと嘆くこともあるでしょう。でもそれをひっくるめて自分であり、ではどう生きるかでしょ。と、説いているのが「マダム・ボルジア」で、だからルクレツィアを美加里が演じたのではないかと推測しました。

【いもたつLife】

日時:2019年05月29日 10:26

【SPAC演劇】歓喜の詩 演出:ピッボ・デルボーノ

演出家で出演者のピッボ・デルボーノさんと20年以上一緒に舞台を造ってきたボボーさんに捧げる演劇ということです。
そして冒頭、歓喜に至るまでの劇とナレーションが入りはじまりました。

抽象的なイメージで進みます。
劇全体を通して華が重要な小道具であり大道具です。
真っ暗闇の中、一輪の花が増えていくことから始まり、劇の終盤では誕生した赤ん坊は花に囲まれ、そして舞台は花一色にもなります。

また舞台は、ピエロのような衣装を纏った俳優たちが狂うように踊ったり、舞台で進行役と努めるピッボ・デルボーノさんが、檻に囚われたり、叫び声をあげます。
精霊流しのような無数の紙の船が並ぶ場面もあります。
そして、散漫に登場していた俳優達が最後に向かい近づきます。

この劇はやはり喜びを表現して終わっていることが感じられます。

アフタートークを聞くと、大事な仲間と造った演劇だったと解ります。
ピッボ・デルボーノさんと俳優達がこの世で出合った仲間と、喜びを、とても過激に、でも真摯に表現していた劇であると解りました。

【いもたつLife】

日時:2019年05月28日 10:12

【SPAC演劇】マダム・ボルジア 演出:宮城聰


spacの新作「マダム・ボルジア」の原作はヴィクトル・ユゴー「ルクレツィア・ボルジア」で、ボルジア家が隆盛だった頃、スペインが世界の覇者として馳せてた時代の話で、時間軸はそのままに、日本の戦国時代に空間を移しています。
ルクレツィアの父は関白、兄チェーザレも4番目の夫アルフォンゾの将軍という設定です。
ルクレツィアが愛してやまないジェンナロは傭兵の勇敢な隊長という設定は原作と同じ、そして、彼と共に戦場を駆け抜けてきた、一緒に死を共にすることを誓い合った無二の親友達は、日本各地の領主の若頭という設定です。
その日本各地から集まってきたという設定を活かしています。
この劇は二部構成で、ルクレツィアにとってビハインドの水の都(ここでルクレツィアは辱められ、後半の復讐に繋がります)から、ルクレツィアのホーム(夫アルフォンゾの領地)の高峰の都に、舞台自体も観客も移動するのですが、観客は五つの国の若頭に先導されて移動します。
その若頭の領地は、それぞれの俳優の出身地で、俳優達は方言を使います。また、宴の場面が一部でも二部でもあるのですが、そこでもそれを匂わせます。特に一人の若頭は地元静岡の遠江出身で、静岡弁が飛び交います。
この「マダム・ボルジア」はボルジア家のダークないわれが下敷きになっているので、圧制、残虐、毒殺、近親相姦等がボルジア家にはあり、とてもきな臭い上で話は進むのですが祭りの場面では明るく、でも人が集まらない場面では本音が出る演出をしています。
明るい宴とは裏腹に、ルクレツィアが部下のグベッタと二人の時、アルフォンゾと部下の捨助と二人の時の、彼らのダークな企てをする場面の暗黒との対比が強調されます。
また、ルクレツィアとアルフォンゾの二人の腹の探り合いは二人の愛は程遠く、政略結婚であることが案じられます。
それとは全く違う雰囲気がルクレツィアとジェンナロの二入の場面で、ルクレツィアの彼に対してだけ注ぐ純粋の愛は、政治や経済や面子を抜きにしたもの、でも、ジェンナロはその勇ましさもあり、ボルジア家の暗黒に抵抗することから、ルクレツィアの想いは届かないというルクレツィアのとても個人的ないき詰まりが描かれます。

人は役割をいくつも担いますが、ルクレツィアもそれに翻弄されてしまうのがこの劇です。

ジェンナロに母であることを名乗れないルクレツィア、名乗ることはジェンナロを精神的にも肉体的にも奈落に落すことになるからですが、その名乗れない歩をしてしまったルクレツィアで、彼女の生涯はとても儚いです。
自業自得でもありますが、一人の子を想う母としては侘しい最期でした。

【いもたつLife】

日時:2019年05月27日 09:07

【SPAC演劇】マダム・ボルジア 演出:宮城聰

spacの新作「マダム・ボルジア」のテーマは「恋情の復権」です。
宮城さんの演出ノートに「恋情」は“相手を美化することを伴う愛”で、そして、“相手を美化し、それに照らして自分も相手にふさわしい者になりたい”と解説されています。

マダム・ボルジア(=ルクレツィア)は残酷極まりない人物として描かれていますが、唯一息子のジェンナロだけは命掛けで愛しました。
他の人物に対してはあまりにも冷たく、命までをも軽んじても、ジェンナロだけは別です。実はこれは私はとても共感できます。
流石に他人を殺めることはしないでしょうけれど、唯一ではないけれど、ほんの一握りの人だけを大切に想ってしまう気持ちが解るのです。
個人的に、私自身があまり人付き合いをしないということもその理由の一つではあるかもしれないですが、誰にも彼にも気持ちを注ぐなんてことは不器用で出来ないという感覚です。
ルクレツィアもとても不器用な人(女)であったのではないでしょうか?

ジェンナロが死に向かってしまうと、取り乱し、何でもありでそれに抗います。
その姿からは残酷なイメージは欠片もありませんが、でも劇中でも自分を虐げた男5人を平気で毒殺します。
人は多重人格で、多分私もそうなのでしょう。
そしてルクレツィアはジェンナロなしでは生きていけない人で、幼い頃ジェンナロを手離し、いつか再会できることをただただ願い生き甲斐とし、目の前に現れるともう合わずにはいられません。
そして母と名乗れない境遇が仇になり悲劇になります。
ルクレツィアは、ジェンナロを母殺しにさせてしまったことが無念で仕方なかったけれど、それは宿命でもありました。

ジェンナロを気にかけているルクレツィアとそうでないルクレツィアは明らかに違う人物です。恋情(愛)とはかくも激しい感情であり、それを持つことだけでも幸せなのかもしれません。

【いもたつLife】

日時:2019年05月26日 11:03

【SPAC演劇】メディアともう一人のわたし 演出:イム・ヒョンテク

ギリシャ悲劇「王女メディア」のメディアは元夫イアソンへの復讐のために我が子二人を自ら手がけてしまいます。
それだけ夫憎し、そして、メディアは残忍だったということは誰でも解るけれど、解ると納得は雲泥の差です。どんなにかイアソンへのあてつけかの想像ができないのに言い張ることではないけれど、およそ私にはどんなことがあっても我が子を手がけることはできません。
でもこの悲劇も多くの芸術家がその芸術家の解釈で演出しています。そして、この作品もその一つですが、少なくとも演出家のイム・ヒョンテクさんは、私と同様に我が子を手がけるメディアの心を読めなかったのでしょう。それを逆手にとっての“イム・ヒョンテク版メディア”でした。

メディアを二人登場させるのがこの作品です。
原作通りの残忍で我が子をも手がけるメディアと、どうしてそんなことができるのか、当然ながらメディアにも葛藤があるはずという、我々に近いメディアです。
二人の女優が折り重なる用にメディアの心情を観客に伝えます。
その伝え方は、メディア二人だけでなく、イアソンも、他の登場人物も、その身体と、舞台袖両側に配置されている楽曲と歌で主に表現されます。
それは、観客の心に訴えるという言葉通りで、数多の台詞では表現できない表現方法です。
素晴らしい楽曲と歌声、そして登場人物に合わせた声色、時にはオーバーアクトの演技もありますが、それも殺し合いの運命にある人々のしかも限られた時間で生きる人の生き様として観ると、その異世界を覗いている感覚になります。

そしてなんといっても二人のメディアは、とても精力的であり、母性の塊であり、ですが、実は私には窺いしれない残虐性があるということで、そんな二面性(多重人格)があるようには見えないけれど、しかし、物語の展開は悲劇を正当化するがごとくに進みます。
我が子を手がけるというあっては行けない行為に悩む姿がもちろんありますし、オーバーアクトはそれを可能にするかのようにも見えました。

韓国の古典芸能の楽曲と歌の要素と、現代の音楽の要素を合わせた音響を受けての身体表現=踊りは狂おしくも見えます。
この劇自体がメディアの人格を訴えているのでしょう。

頭にではなく、どこまでも感情に突き刺さるようなそんな劇でした。

【いもたつLife】

日時:2019年05月25日 09:10

世界はもっと美しくなる 奈良少年刑務所詩集 (著)受刑者 (編集)寮美千子

想像すらしなかった深い闇で虐げられていたことが、犯罪者を産んだ。
これは単に知っていただけのことで、それほどまでのことだったと受刑者たちの詩で痛感します。
ではどうすれば良いか?

この、詩を読むプログラムで受刑者たちは癒され、再犯の確率が低くなることも期待していますし、その効果はあるでしょう。少しでも人らしく変わるきっかけにもなるでしょう。
でも受刑者たちは重い罪を犯してしまっています。
もちろん彼らも苦しいし、被害者の身内は一生癒されないかもしれません。
しかし受刑者は人であるのですから、素晴らしいプログラムです。

でもやはりひっかかるのは、一線を超えてしまったことです。
前述しましたが、受刑者たちのそれまでの環境は、想像すらできない劣悪です。そんな体験が微塵もないのだから口を挟むことはできません。
ただ、負の連鎖はどんなことをしても断ち切らなければならないという、これも当たり前のことを思い、それが本当に難しいということを改めて感じたのも事実です。
自分にできることがあるのかと虚しくもなりました。

「人間」
人間という 生き物が 一番悲しい 生き物です。

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5/21は「小満」です。二十四節気更新しました。
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【いもたつLife】

日時:2019年05月21日 09:08

【SPAC演劇】マイ・レフト・ライト・フット 演出:ロバート・ソフトリー・ゲイル

映画「マイ・レフト・フット」を舞台上映するというアマチュア劇団の上演稽古の顛末の、ミュージカルです。
原作者・演出家のロバート・ソフトリー・ゲイルさんが脳性麻痺ということで、身体障害者と社会の繋がりを問うのですが、その表現がハチャメチャで明るくて、ブラック・ユーマアありで、そして身障者の自虐ネタありです。
ちょっと引いてしまう表現もありますが、滅茶苦茶の明るさで押し通してきます。
そして、皆、歌が上手くて迫力ありです。もうこの歌を浴びることだけでも満足です。

一人、手話ディレクターの女優さんがいて、ずっと(英語の)手話をしながらの出演で、ここからもこの演劇の意図を知る事が出来ました。

【いもたつLife】

日時:2019年05月16日 09:07

【SPAC演劇(映画)】 コンゴ裁判 監督:ミロ・ラウ

これも国際関係の構図で、力のあるものが富を享受している現実です。そして、見たくないと見せたくないが重なっている現実でもあり、それは先進国と、恩恵を受けている一握りの当事者の都合の上で成り立っています。
そこに風穴を開けようとしたのが、この映画(演劇)で、なんと、コンゴ戦争を裁判にかけるということを、擬似裁判ではありますが、やってのけた作品です。

紛争に係わった当事者の証言や、戦争の背景になるコンゴのレアメタルを採掘(搾取)している企業も証言台に立ちます。企業のやりたい放題と、そのやりたい放題で犠牲になる人々を押さえつける同じコンゴの武装集団の証言もあれがば、それらを黙認している政府関係者も立たせます。
犠牲者の生々しい証言もあります。住んでいた土地が汚染で不毛になってしまった現地の人たち、虐待により殺害や強姦された生の声です。
実際にそれを追求する人と弁護する人があり、裁判官が調停します。
よく実現できたというのが率直の印象です。

そして500万人とも言われる犠牲者が出た戦争の間接の原因は、私達が手放せないスマートフォンをはじめとする電子機器の急速的な普及です。
私も恩恵を受けていて、知らないところでは悲惨な事が当たり前のように起きているのも問題ですが、もっと深刻なのは、知らされない構造ができていることです。

コンゴは肥沃な土地と、豊富な地下資源に溢れています。その恵みはほんの一部の人が享受していて、大多数は豊かな(金になる)素材が眠っているがために不幸を運命付けられてしまっているといます。
胸が傷みます。
この現実を世に問うことを使命とした造り手を賞賛します。

【いもたつLife】

日時:2019年05月13日 08:45

【SPAC演劇】ふたりの女 演出:宮城聰

舞台は伊豆の精神病棟。登場人物は皆、危ない人達、頭の中はあっちの世界にあってやることは支離滅裂。でも中でもある程度まともなのが、六条という美女で、六条は医者の光一を愛します。でも光一には子供を身篭っている許婚のアオイがいます。

登場人物を観ていると私達との境界線を行ったり来たりしているように見えます。私自身は正常だという認識はありますが、それは危ういことで、流石に精神病棟の患者までとはいかないまでも、でも、彼等が一瞬まともになる時、でもあっちの思考になる時、同じようなことを自分自身もやっているのではないかと実感したりします。
結局は程度問題で、私はいつも完全に正常であるわけはありません。

そんな自分にもある危うさが舞台で喜劇として表現されながら、光一とアオイと六条の三角関係の顛末です。

六条は退院します。アオイは精神を病んでいるわけではありませんが、六条とアオイは同じ境界線をいったり来たりしているように見えます。それに振り回されるのが光一です。
六条の横恋慕でアオイが嫉妬に狂い、光一はそれに悩むという展開です。

私は、アオイと六条は二人で一人ではないかと感じました。
最初は、光一が有能で格好良いものですから、アオイは光一が他の女から言い寄られてその気になることが心配で心配でならなくて、光一が浮気しているという妄想に駆られてしまい、自殺した。六条はアオイが造りだした幻影かと解釈しました。
でももうひとつ解釈しました。
六条は光一が造りだした幻影で、光一はアオイが亡くなったことに責任を感じていて、六条を存在させなければ、光一は自分を救う術がなかったということです。

また自分自身への説得力は薄いですが、六条は存在していて、アオイは光一が造りだした幻影とも取れます。
六条は確かに光一を愛していて、彼の心を得ようとするのですが、そのやり口がかなりエスカレートしています、光一はそんな自分を愛する六条を気にかけながらも、理想のアオイを造り、添い遂げたかったとも思えます。
また、やはり二人とも存在していたとも解釈できます。

要は、光一はじめ皆、不足を埋めようとしているというのがこの劇ではないかと強く感じました。

精神病棟内は不条理がまかり通っていますが、これは現実社会を映していて、その不条理が故に、不足が常にあるのが世の中で、それをどう補おうかと足掻くのがこの「ふたりの女」で繰り広げられていることです。
時に狂ったようにもなりながら、幻影を求めるのは光一だけではありません。
一見喜劇の装いでハチャメチャな冒頭はそれをプロローグでもう示していたように思えます。
そして、光一とアオイと六条の物語を進めながら、要所でのサブストーリーで、失ったモノを得ようとする件があります。でも適わない。
ここが味噌で、結局ここに出てきた人達は全員、喪失を埋められないのです。
真実を語っています。
これがアングラの一つのテーマなのかとも思いました。
そしてその表現方法はあくまで造り手が突っ走っているとう感じ。そして昭和の香りが強くしました。

【いもたつLife】

日時:2019年05月10日 09:06