いもたつLife
【spac演劇】繻子の靴 演出:渡邊守章
実質8時間、午前11時から夜の8時30分、途中3回の30分前後の休憩を挟み演じられた「繻子の靴」。ここに居合わすことができたことに素直に有難い、得がたい体験だったというのが、観劇後の実感です。
剣幸演じるドニャ・プルエーズと石井英明演じるドン・ロドリッグの悲恋の話なのですが、そこに吉見一豊演じるドン・カミーユの横恋慕、はたまた安部一徳演じるドン・ペラージュが正式な夫という四角関係で、それぞれの人物造形が対話劇で現されます。
また、その四角関係の本筋と同時並行で、彼らの召使たちの恋物語も挟まれます。
原作の抽象的な会話や難解な議論を役者たちは忠実に力強く具現化していて、原作ではイメージできない世界を見事に表現していました。けれどやはりその台詞は難しいというのが正直なところでもありました。
舞台は三層というべきか三階建てというべきか、場面に応じて縦に役者を配置します。またこの舞台は同時にスクリーンにもなっています。この演劇は動きが少ない、会話が中心ですので、人物の配置とスクリーンに映し出される背景(景色や、世界をまたぐ話なので船、また世界地図)により立体感と動きを想像させるという舞台になっていました。
主題は前述した通り、ドニャ・プルエーズとドン・ロドリッグの実らぬ恋なのですが、それは現世でのことであり、あの世というか天国では成就するということで、その証として、ドニャ・プルエーズの忘れ形見の七剣姫の恋は適うという、これが四日目、この演劇のラストに用意されています。
一日目、ニ日目、三日目の時間を追うごとに悲しくなる話とは変っての四日目でした。
また一~三日目には劇の舞台、16世紀のスペインと世界の関係が盛り込まれていて、それもこの劇の見所でもあります。
作者が親日だったこともあり、四日目には日本にも触れられます。
とても長い劇なのですが、ドニャ・プルエーズとドン・ロドリッグが直接語りあるのは三日目の最後だけ、また、ドン・ロドリッグとドン・カミーユの恋敵が直接対決するのも三日目の一度だけです。
登場人物が多く、それらが語る状況で主題を浮き立たせている構成で、そこに当時の(または原作者や演出家)の世界観が盛られています。
当時を現すのは舞台だけ、でもその当時の本当の世界を覗いているような感覚になる。そこには市井の人達もいれば、自己の生き方を主張する力強くも頑固な人々もいます。
500年前に浸っていた8時間でした。
【いもたつLife】
【spac演劇】マハーバーラタ ナラ王の冒険 演出:宮城聰
せかい演劇祭ではもう定番という「マハーバーラタ」で、やっぱり楽しい、素晴らしい劇です。
3年ぶりの観劇、3年前も駿府城公園で、ここでは大きな環、360度が舞台です。
物語はナラ王とダヤマンティー王女の冒険で、国をしっかりと治めていたナラ王が悪魔に取り憑かれてしまい、全てを失い、でももう一度元の偉大な王に返り咲くということですが、ナラ王とダヤマンティーの何が起きてもお互いを信じ合う、どんな状況になってももう一度二人は結ばれることを諦めない、愛と勇気の物語でもあります。
いつも通り、宮城演出が冴えます。
ムーバーとスピーカーに別れ、打楽器に乗ってムーバーは舞、スピーカーは緩急をつけて時に力強い主張を、時にユーモアを、また話のナレーションをします。
どれもspacお得意の職人技です。
ナラ王は聖人君主で、ダヤマンティーは神々も妻に娶りたいほどの気品ある姫です。
そんな二人が奈落の底の落ち、そこから立ち上がる、そんな二人だから必ず大丈夫として観る劇で、大団円に確実に向かうそれが見所です。
演劇祭の華でそして、ありきたりな言い方になりますが、愛と希望と勇気を与えてくれる、そしてspacらしさが詰め込まれているのがマハーバーラタです。
【いもたつLife】
【spac演劇】大女優になるのに必要なのは偉大な台本と成功する意志だけ 演出:ダミアン・セルバンデス
演劇というのは役者と演出家だけでは成り立たないことを、この演劇では招聘するに当たってどうプロディースするか、どうすれば日本でこのパフォーマンスを伝えきることができるか、プロディーサーとスタッフという裏方さんのご苦労が成功を産んています。
選ばれた舞台はかなり古い、昭和30年代にもてはやされた、当時はモダンなレストランで、今は空き家です。
その雰囲気は、その古さになんとも言えない寂れた観があり、メキシコの豊かではない住人が住んでいる一室が重なります。
でもそこはきっとわいわいがやがやで、それを伝えるために入場前に観客にメキシコのラム酒が振舞われます。
狭苦しい待合室で飲むラム酒、場末に来てしまったと感じた後に会場へ。そこはもっと狭苦しい、暑苦しい空間で、観客を詰め込むだけ詰め込んで、二人の女優が演じる舞台は、観客の手が届く近さで、八畳ほどのこれまた狭くて暗い中で、突然始まります。
一人は言い方は悪いですがかなりのデブ。もう一人は対象的なやせっぽちの女性。
奥様と女中で、大声の早口で二人はその立場で言いたい放題、それがひとしきり続くと、実は二人は女優で、役の練習をしていたことが解ります。
終わると今度は、二人はお互いを褒め合います。
でも和気合い合いはすぐに終わり、今度は本気で罵り合いの喧嘩になります。
その激しさは、最初もかなりでしたが、それを超えるもので、よくもこんなに大きな声が、よくもこんなに相手を貶めることができるものだという激しさです。
そんなことは長くは続きません。あまりにもエネルギーが要りますから。
疲れた二人は大人しくなるのと同時に、お互いをまたもや労わり合います。そして添い寝となり終了です。
子供の頃、兄弟喧嘩をよくしたのですが、それが重なります。
すぐに喧嘩、でもそれはひとしきりで、疲れて、仲良くなっても、またいつの間にか喧嘩、その繰り返しだったことが想い出されました。
子供のその頃はその頃で真剣に生きていた結果、それがこの二人、大人になっても純粋で真剣に生きているのかもしれません。
場末の貧しい中で生き抜く力強さと自分の中にある子供の頃の懐かしさが洗い出されて触れた、そして心がなんとなく温まった劇でした。
【いもたつLife】
【spac演劇】シミュレイクラム/私の幻影 演出:アラン・ルシアン・オイエン
小島章司の白熱のフラメンコ、その後準備を整えて、ダニエル・プロイエットが振袖姿になり、しなやかな日本舞踊を披露してくれます。
日本人の小島章司がスペインのお家芸を、アルゼンチン出身のダニエル・プロイエットが歌舞伎舞踊を、しかもどちらも超一流の舞です。
そしてその両方を観劇できる私などは、所謂大衆で、日本は豊かになったということをとても感じます。
演劇や伝統芸能、または音楽ライブに、そして映画や絵画などの芸術に、今の日本では安価に様々に触れることができます。
また情報社会と言われて久しいですが、世界のあらゆる出来事と深い浅いは置いておいて、繋がることができます。
戦後の高度成長前までは、庶民が、こんなに芸術と身近にあることはなかったでしょうから、贅沢なことです。
そしてこの劇ですが、小島章司の子供の頃からを、母との別れを追います。最後の舞踊は彼の母の舞でした。そして彼はその前に、母を想ってのフラメンコを踊りました。
小島章司のこれまでの集大成なのでしょう。
【いもたつLife】
【spac演劇】寿歌 演出:宮城聰
核戦争後の絶望世界、相棒と二人だけでそこにポンと置かれたら自分はどうしているか?
そこにあまり頼りにならない神のような存在が現れたら何をして貰おうとするか?
「寿歌」はそんな境遇ではこんなことが起こっているんだという話で、それはそれは暖かく、人を好きになる、人は強いことを感じる劇です。
ゲサクとキョウコは旅芸人で、リヤカーを引きながらまだミサイルが飛び交う中を彷徨っています。正確には彷徨うのではなく、「ちょっとそこまで」行こうとしています。
何をしながらか、もちろん芸をしながらです。
二人はやたらと明るい、なぜこの世界で明るくいられるかという位に軽い。深く考えること、悩む事、悲しむこと、落ち込むことを通り越してしまったのかとも思えるのですが、それとも違います。
そこにヤスオが登場、彼は二人よりもかなりまともな神経ですが、ヤスオもめげていません。
3人旅が始まります。
その道中、舞台はずっと笑いに包まれます。
くだらない漫才、でたらめな歌と踊り、街にたどり着くとそれを披露するゲサクとキョウコ、そして今はヤスオも入って。
観客はいません。もしかしたらもう二人とヤスオしか世の中には存在していない世界ですから。
でも旅芸人ですから、芸を披露するのです。
とっても悲しいけれど、人はとても崇高だと思える劇です。
頼りにならないけれど、神はきっといて、というか、自分を観ていてくれる存在はきっといて、頼りにならないことも十分承知、といいますか、頼りにならないからちゃんと生きていくことができるのが人です。
もう40年近く前に作られた戯曲で、当時よりも世の中がこの「寿歌」の世界に追いついてきていると多くの人が感じるでしょう。
でも世の中がどんどん悪くなっているかはわからないし、それと自分の生き方は別ですし、どう生きていくかこそがいつの時代もそれが全てで、それを考え決めることが大事で、この「寿歌」もそんなことを提示してくれる劇でした。
【いもたつLife】
【spac演劇】民衆の敵 演出:トーマス・オスターマイアー
温泉がある事で栄えている街のトマス博士は、その温泉が実は汚染されていることを突き止めます。これは世に知らせなければ、で始まりますが、温泉を正常にするのにはべらぼうなお金と、カネのなる木である温泉街を2年間も休みにしなければならないということから、トマスには圧力が徐々にかかります。
トマスの兄は市議で彼の猛烈な反論がトマスにかかります。それはトマスの証拠だけでは信じられないと言う屁理屈を発端とするもので、市議のその意見はトマスに協力的だったマスコミをも隠蔽に向かわせます。
という現代でも、日本でも、堂々とまかり通る内容です。
この話を、市議たちの今を取るという乱暴な主張、対、トマスの正常な主張、という対立から、それを一歩進めた、近代の先進国が歩んできた経済優先ゆえに精神の荒廃が起こり、それが悪であるとトマスの主張は過激になり、原理主義を貫くようになっていき、それと市議たちを対峙させるという構図にこの劇は持っていきます。
その対立シーンが佳境になると、なんと舞台俳優がこれについて、その場に集っている観客相手に議論を促し、実際に論議を交わします。
この実際にありがちな事件を表面だけでなく、その奥底にある、人が人との間で起こる問題はなんだ、という普遍な問題として提起しています。
またここからも出色です。あくまでも世の中は悪意にまみれているといまで迫るトマス、市議たちは確かに自分たちの利益で動いていますし、改めなければならない行為をしていますが、果たしてそれは市議たちだけかと、トマスはどうなんだという所へとトマスを追い込みます。
トマスの義父は地に落ちた温泉施設の株を買い占めます。もう二束三文ですが、大逆転の可能性があるからです。それはトマスが主張を翻すことで、トマスの目の前にはトマス名義の株が置かれます。トマスは妻と共にそれに見入る、それが最後のシーンです。
正義は絶対ではありません。同じ事象が正義と悪とになるから諍いが絶えません。だから温泉が汚染されているのは事実でも、それへの対処は立場と役割でまるで変わります。トマスにとって汚染は許せない事実であったのが、許したくなる立場と役割になる皮肉で終わらせています。なんと意地悪な劇でしょう。
またトマスの原理主義的な主張もあまりにも決めつけすぎです。そこには民衆に対しての操作が裏に隠れています。正義を主張することで支配する立場になっていくという怖ろしさを見せつけています。
私達が生きている社会は、確かに上手く機能しているとは言い難いでしょう。でもそれを解決するのは一通りの正義があれば進むのかと言えばそんなことはあり得ません。そうであれば何もしないできないで良いかと言っている訳でもないでしょう。
ただ少なくとも踊らされることでは解決はないことを示唆しているように感じました。
最初の家庭のトマス家族の平穏シーンから段々不穏になって行くのですが、日和見な他の登場人物を映し、ではトマスの家族は潔癖かというとそうではないことも匂わせるなど、演出は細かく気が配られ、また緩急を付けてもしてとても味があります。また、俳優の演技も鍛え上げられています。そしてテーマも深く素晴らしい劇でした。
追伸
とても個人的な意見ですが、私はなるべく繋がらないことはこれからますます大切になっていくと思っています。自分の等身大で守れる範囲で守りたいモノを守る、利己な生き方でOK、ただし節度が十分にあればです。
【いもたつLife】
【spac演劇】リチャード三世~道化たちの醒めない悪夢~ 演出:ジャン・ランベール・ヴィルド ロレンゾ・マラゲラ
道化師に扮したリチャード三世の人となりを、もう一人の登場人物との二人芝居で、舞台セットは見世物小屋でその中で演じます。懐かしさがありながら、斬新な切り口で、そして巧妙に計算された見応えある劇です。
道化のリチャードに対して、もう一人がエドワード四世、クラレンス、アン、エリザベス、ヨーク公爵夫人、皇太子エドワード、ヨーク公リチャード、バッキンガム公、ヘイスティングス卿、ケイツビー、グレイ卿、リヴァーズ伯、ドーセット候、ロンドン市長、暗殺者(暗殺者だけは二人登場し、リチャードを演じた役者も演じます)という多数の役割はもう一人が担う二人劇ですが、脚本や台詞、衣装で明確に混乱することなく劇は進みます。
交通整理されているようです。
次から次へと自己のために王になるために成り上がるために人を殺めるリチャードですが、市民を味方につけ、その演出が面白い、観客を市民に見立てて、煽る煽るです。
本音と建前が交錯しながら進むのですが、三つの箱の見世物小屋とその屋上を、場面ごとに話に合わせてユーモラスを基本にセットし、まず視覚でリチャードの思考と劇の進み具愛を訴えるやり方はズバリろいう感じで、本当に良くできています。
見世物小屋は、おもちゃ箱のようであり、でも衣装はじめ美術は凝っていて品質が高く練り上げられていることが解ります。
お見事な美術です。
話は別にして、カラクリのような楽しさを味わうだけでも観劇の価値ありです。
でも訴えていることはシリアスで、道化のリチャードはその姿とは正反対の顔が覗き見れます。
そして頂点に立った王になったリチャードは当然のごとく破滅を迎えます。
でもリチャードは常に一生懸命だったのです。もちろん祖国を憂いてもいましたから、なんとかしようとして足掻いていた、もう真剣そのものだった、でもその姿は道化でしかなかったということで、とても寂しくなります。
そしてそれは一般でも起こり勝ちなことで身近に感じます。そんな姿を自分も晒していないか、それも強く感じました。
【いもたつLife】
【spac演劇】夢と錯乱 演出:クロード・レジ
1914年に27歳で亡くなったオーストリアの天才詩人ゲオルク・トラークルの詩の世界に誘います。観客にトラークルの心情を、何を問うていたかを、また現実社会の不条理を、受け手の心の深い所に楔を入れて、そこからはその人自身が想うがままに任せます。
漆黒の闇にほんのりと浮かび上がるトラークルの分身が訴えるのは、トラークルに観えていた世界で、破壊、暴力、支配、残虐、絶望で、まるで分身はトラークルの亡霊のようです。
劇場としては小さい箱、闇、ほぼ音響無し、その中での分身の叫びと嘔吐、観客は逃げることができない中で受け入れざるを得ません。造り手は漏らさずにトラークルの想いを伝えたいのです。
以前クロード・レジの「室内」を観劇しました。その時と同じ感覚は、レジは受け手を信頼していることです。今回もそれを強く感じました。
劇の解説のほんの一説に「この演劇は希望がある」と書かれていましたが、濃密な60分にそれを感じることはできませんでしたが、今、もしかしたらレジが受け手を信頼していること、レジのこの強烈な言伝は観客に少なからぬ変化をもたらすこと、それが希望であるように思えてきています。
【いもたつLife】
【spac演劇】ミヤギ能 オセロー 夢幻の愛 宮城聰 演出
宮城さんが描く感動的な夢幻能で、人を愛することの貴さ、信じあうことの難しさ、心の想いは裏腹な行動を起こしてしまう人の厄介さが詰め込まれています。
デズデモーナが彷徨える幽霊となって巡礼の前に現れる前場、
オセローがデズデモーナを手にかける経緯を描いた間狂言、
そしてデスデモーナの幽霊が優麗に成仏していく後場で構成されています。
オセローはデズデモーナを絞め殺し、その後すぐにその原因となった理由のオセローの嫉妬は、実はイアーゴに嵌められたことだと解り、後追い自殺をするのですが、それがデズデモーナが死んでも死に切れない状態にしてしまいます。
愛する者に手をかけられたことに悔いは全くないことをオセローに伝わらなかったからではないか?ということがこの夢幻能の始まりではないかと、今回すごく感じました。
オセローはデズデモーナを絞め殺したことを悔いて自死しました。哀しみもあったでしょう。イアーゴに嵌められた悔しさもあったでしょう。でもデズデモーナはオセローが彼女に手をかけたとはいえ、純粋にデズデモーナを喪ってしまった哀しみで後追いして欲しかったのではないかと観ていて思えてきました。
二人ともお互いをどれだけ愛していたかは解っていたはずなのに、一緒に死ぬ事なんて全く厭わないことはお互いの気持ちであったから、デズデモーナはオセローに殺されることに何も不満も不安もなく、望むところでもあったのに、オセローは手をかけたことを後悔してしまった。
デズデモーナの心底の愛が伝わらないでオセローは死んでしまった。
これではデズデモーナはあの世にいけません。
この愛をオセローが汲み取るのがこの夢幻能で、それが伝わりデズデモーナは成仏できた。オセローももしかしたら彷徨っていたのかもしれないけれど、オセローも成仏できて、一緒に三途の川を渡っていった。それが描かれていた後場に感動しました。
二度目の観劇ですが、やはりこの後場のデズデモーナの美加里さんの仕草がハイライトで、右手の厳つい手でオセローを現し、清き白いデズデモーナの衣装と対比され、デズデモーナとオセローが一体になっていく様がとても美しいです。
これに照準を合わせて前場も間狂言もしたためられています。
そしてこれもいつものことですが、美術が素晴らしいし、打楽器・和楽器が心を打つし、俳優の、今回は特に美加里さんの動きが本当に鍛えられていました。
そして、声が重なる地謡の台詞とナレーションの効果は絶大で、感動を呼びます。
日本の言葉の美しさも感じます。
二度鑑賞できて良かったと本当に実感しました。
【いもたつLife】
【spac演劇】ミヤギ能 オセロー 夢幻の夢 宮城聡 演出
13年ぶりの公演とは知りませんでした。
そして、当然ですが進化していることもアフタートークで知りました。
それはさておき、凄く素晴らしい演劇でした。
シェークスピアのオセローを夢幻能に仕立てた劇です。
ミヤギ能ですから、ムーバーとスピーカーに別れます。そして打楽器に和楽器が、衣装が、舞台が、能らしさを下拵えし、そこにオセローが乗ります。(しかし随所でムーバーの台詞があります、これが憎い演出です)
しかし、もっと能というか和らしいのは、台詞の伝え方です。
多人数の台詞という音を重ねて重ねて、幽玄さはもちろん、力強く、美しく、織りなすようにオセローの筋を伝えてきます。
夢幻能であることから三幕構成で、第一幕でしたためて、それを第三幕で決着をつけ、第二幕は、前後の真剣勝負に観客を巻き込む雰囲気から解き放たれた、軽快な舞台です。それが段々と重たくまるのが味噌ですが。
三幕は圧倒です。
主演のデスデモーナの美加里の魅力が十二分に発揮されます。
一幕とは打って変った衣装に象徴されるように、デスデモーナは何故今黄泉の国から現れた、それはどうしても成仏できないからということで、今ここで関わる者達にそれを語ることが病むに病まれぬことということ、それは、オセローと一体になるのが今ここであるからということ、それを観客に同意させる演技です。
相変わらずの完成度の高さのspac演劇(宮城さんの演出)です。
随所の暗喩はまだまだ堪能できていませんが、それは置いておいて、素晴らしさはひしひしと伝わってきます。
今回も、もっと観劇の嗜みがあればもっと堪能できたことを想う観劇でした。
追伸
2/19は「雨水」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「雨水」の直接ページはこちら
雨水
【いもたつLife】