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いもたつLife

【SPAC演劇】火傷するほど独り 作・演出・出演 ワジディ・ムアワッド

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終盤、壮絶な舞台が待っていました。これを毎回やっているかと疑いたくなるほどのパフォーマンスで、特異な表現方法でもありました。
そして、それは物語のどんでん返しからはじまり、それまでに張られた糸を回収するかのようでした。

人の存在は何なのか?
自分を解ってくれる、愛してくれる存在があって成り立っている、自分が今ここに存在するのは自分だけが決められるものではないのではないか?
それに抗うけれど抗えない、でも足掻く、そんなラストでした。

静かな部屋の一室で、ほぼその空間だけで、最後までたった一人です。
静粛な中、時にユーモラスな、時に上辺だけから琴線に触れる会話が続き、そこから一転してあの大胆で堂々な舞台になります。圧巻でした。

【いもたつLife】

日時:2016年05月12日 06:34

【SPAC演劇】アリス、ナイトメア 作・演出・出演:サウサン・ブーハーレド

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作・演出・出演 サウサン・ブーハーレドさんはレバノン人です。その彼女が作・演出・出演の劇を、あまりにも国内情勢が異なる日本人の私が読み解くことはできないことを前提において鑑賞しました。

内容は、サウサン・ブーハーレドさんが体験したごく普通の日常や恐怖の日常やそこから得た死生観を表現したものです。
舞台はベッドだけ。その上だけで悪夢を再現します。再現は抽象的な彼女の夢の表現です。

ユーモラスなはじまりですが、すぐに訳がわからないことが始まります。
三つ目の足が出てきたり、もちろん幻影です。その後も胎児や化け猫が現れたりというホラー映画のような舞台、その後は彼女自身が妖怪のように、まるでカフカの変身のようにもなります。
それらはすべて暗がりのベットの上でいつの間にか現れては消えです。
でも最後は癒しに映像も流れます。

レバノンで何が起こっているかをこちらに訴えるのでは決してありません。
彼女が体感していることを彼女自身の身近な存在で表現します。(猫も家にいた猫、そして祖母が亡くなったことからこの劇の創作が始まったそうです)

ですから、誰もが作れる劇ですが、私との決定的な違いは、“自分の抱えているものをどうしても訴えたいか”であると感じました。
あまりにも恵まれているのでしょう。

レバノンでというよりも、現在世界の多くの紛争や飢餓の地域で何が起きているかにあまりにも鈍感であることを痛感する観劇になりました。

【いもたつLife】

日時:2016年05月11日 09:29

【SPAC演劇】イナバとナバホの白兎 演出:宮城聰

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SPAC新作の意欲作です。

因幡の白兎とそっくりの神話が、北米・南米大陸に数多く残っている。しかし、米大陸の神話は、主人公が河を渡り神に会いに行き、そこから求婚があるという一連の神話だが、日本は、河を渡るのは因幡の白兎で、求婚は別の神話になっている。何故か?

それは、“アジアでそれらの元になる神話があり、それがまず日本に伝わり、そのあと北米に伝わったのではないか?”“伝わるのに時差があり、日本ではバラバラに、米大陸ではそのままで伝わり残ったのではないか?”というクロード・レヴィ=ストロースの仮説を、SPACの演劇としたのが、「イナバとナバホの白兎」です。

神話を想像し、具現化しています。
まず因幡の白兎が第一幕、次にナバホの伝説が第二幕、そして想像の神話が第三幕です。
いずれもSPACらしい演劇・演出でした。

声明を想わせるオープニングで、台詞づかいは始終それに近く、繰り返しが基本。そして、主要人物はムーバーとスピーカーに分かれるSPACの十八番です。また、音楽も和があり洋があり、和洋折衷になります。それらは打楽器と管楽器が中心でこれもSPACお得意です。

コミカルな演出が随所にあり楽しませてくれて、一方、神話に迫っていくという流れ。こちらの想像力も掻き立てる演劇です。

父との葛藤は普遍のテーマであることを匂わせていました。
もう一回鑑賞を予定しています。とても楽しみです。

【いもたつLife】

日時:2016年05月10日 09:04

【SPAC演劇】ユビュ王、アパルトヘイトの証言台に立つ 演出:ウィリアム・ケントリッジ

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南アフリカにとってアパルトヘイトが遺した負は、私達には想像できません。
この演劇は、不条理の王のユビュ王がどんな差別・支配をしていたか、その妻は黒人で夫に差別・支配される側です。不条理な仕打ちを受けています。
けれど、夫の本当の姿が、少しずつ露になるという展開です。

夫と妻のやりとりの他、犬やワニの人形が登場します。彼らがユビュ王の腹心のように王の悪事を後押しします。
そして、ユビュ王は証言台に立ちます。

人と人形のリアルな舞台の演劇以外に、スクリーンにアニメが映されたり、実際の南アフリカの映像が映されたりします。
それらはユビュ王はじめアパルトヘイトの実態を想像させます。

ユビュ王の姿が露になると何でも有りだったのか、を感じます。それと同時にアパルトヘイト撤廃から20年以上を経てもまだまだ傷があることを想像させる劇でもありました。

【いもたつLife】

日時:2016年05月09日 09:03

【SPAC演劇】三代目、りちゃあど 作:野田秀樹 演出:オン・ケンセン

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シェイクスピアの「リチャード三世」を大胆な戯曲にした野田秀樹作をシンガポールのオン・ケンセンが演出、スケールが大きい国際色豊かな演劇に仕上がっていました。

出演者が凄い、イコールこの演劇の肝にもなっています。
歌舞伎、狂言、宝塚、バリの影絵、それらの要素が野田秀樹の「三代目、りちゃあど」をより多彩に多様にしています。言葉も日本語、英語、インドネシア語が乱れ飛び、音響も物静かから大音響まで、照明もモノクロームから派手で舞台を巡るようなものまで、視覚・聴覚・頭に訴えてきます。
日本の文化からインドネシアの文化までが飛び回っている舞台に圧倒されました。
とにかく役者がみんな力強くダイナミック。
そして原作の言葉遊びでのギャグも入るし、言葉の二重性も印象的でした。

主となるのは法廷で、被告はリチャード三世、戦争と跡目争いで犯した大量殺人を問うというもの。
検事が作者のシェイクスピアというのがこの戯曲の肝です。被告の弁護はシャイロックです。そしてシェイクスピアは彼の描いた人物達の逆襲を受けます。何故リチャード三世をせむしのびっこにしたのか・・・等々、それはシェイクスピアの生い立ちに問題があるという展開に。
これを軸に、劇はリチャード三世の跡目争いの歴史をたどりながら、突然現代の華道界の跡目争いをなぞったりと破天荒な舞台になります。

そして追求していくのは、今生きているのは幻想のひとつなのではないかに収斂していきます。

シェイクスピアの物語が、作者を参加させた裁判になり、そこには他の物語の登場人物も現れるという入れ子構造で、それに加えて、リチャード三世の物語と華道界の“りちゃあど”の物語が表裏になっていて、それらの表現が、歌舞伎や狂言や宝塚そしてバリの影絵と、とても複雑です。繰り返しますが台詞は3か国語とますますこんがらがりそうなところを、面白く纏めてあるという、これまでにない体験の観劇でした。

【いもたつLife】

日時:2016年05月08日 14:51

【SPAC演劇】It’s Dark Outside おうちにかえろう 作・出演 ティム・ワッツ、アリエル・グレイ、クリス・アイザックス

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主人公は認知症のある老人、彼が見知らぬ男に追われて荒野を彷徨う様を様々な手法で(台詞はなく)描写します。

彷徨う老人には、今抱えている問題とも思えることから、過去の想い出や辛かったことまでが幻想的に暗喩として表現されます。
表現方法は、舞台の役者であり、人形であり、影絵でありで、観客の想像力のあちこちが喚起されます。

また、舞台の役者でリアルな映像を、人形は文楽を思わせるほど緻密な表現で老人の気持ちを、影絵は大胆で老人がどんな過去を過ごしたかを、こちらに投げかけるようにしています。

認知症は極めて現実的な社会問題で、個人的にも直面している問題ですので、とても身近です。
本人は現実がわからないことをとても不安に感じているはずです。けれど一方では、これまでの人生を楽しく振り返っているのかもしれません。そんな認知症の人の立場に立って作れられていて、かつ、これからの高齢化社会で高齢者と付き合う私達の嗜みを示唆している作品でした。

追伸
5/5に、5月の「毎月お届け干し芋」出荷しました。
今月のお宝ほしいもは、“紅マサリ四切りほしいも”です。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
毎月お届けの「今月のお宝ほしいも」の直接ページはこちら
今月のお宝ほしいも

【いもたつLife】

日時:2016年05月07日 08:11

神々の山嶺(漫画)

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全5冊で量も質も濃い漫画ですが、一気にいきました。

舞台は1990年頃のエヴェレスト。
約70年前にイギリスの登山隊のジョージ・マロリーのカメラを偶然見つけ、初登頂したのではないかという、仮説を持った深町誠。
カトマンドゥで調査を始めると、ビカール・サンという男と接点ができます。彼は伝説で孤高の山男の羽生丈二で、カメラは羽生(ビカール・サン)が見つけたのではないかと推測、そこで羽生に興味を持ち深町は羽生を追うと、彼はとてつもない、今まで誰も成し得なかった登頂を目論んでいた。
ビカール・サン(羽生)に引き込まれるように深町もエヴェレストへ。

深町の目線で物語は進みます。彼も十分に山屋で、孤独を背負っています。
羽生という人物を調べれば調べるほど、山しかない羽生に共感していく深町。羽生は野望を遂げるか、エヴェレストの神々に嫌われるか、そこがメインです。
羽生は「エヴェレスト最難関ルートの南西壁の冬期単独、無酸素」という不可能に挑戦します。なぜ羽生はその登攀にとりつかれていて、つき動かされていて、自分の生のすべてをそれに捧げます。
その羽生を見届けるのは自分しかないと、深町もすべてを賭けます。

それを軸に、そしてマロリーのカメラの謎は?
羽生が唯一愛した岸涼子との関係は?
また、孤高の羽生が唯一心を許した山男の岸涼子の兄の文太郎は、羽生との二人の登山で命を落とします。文太郎を亡くしたことで背負った十字架、その清算がエヴェレスト制覇であること等の複数のエピソードが羽生という男が持っている、背負っているものを重厚に語ってくれます。

また、絵が見事でした。
人を寄せ付けない険しい山、そこに挑む姿、神々に受け入れられなければ=そこまで自らを山に賭けなければ、神は微笑まない、そんな描写が伝わる絵です。

この漫画と対峙している間中、羽生は矢吹丈と同じ類の人間だと強く感じていました。
決して立派だと褒められる人物ではない。泥臭く生きていくしかできない不器用な男です。
でも生きていることの密度は誰よりも濃い、そういう男です。

素晴らしい作品でした。

追伸
5/5は「立夏」でした。二十四節気更新しました。
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干し芋のタツマ
二十四節気「立夏」の直接ページはこちら
立夏

【いもたつLife】

日時:2016年05月06日 09:06

【SPAC演劇】ロミオとジュリエット 演出オマール・ポラス

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喜劇性が強い、そして、日本的な雰囲気を取り入れた「ロミオとジュリエット」でした。

冒頭、悲劇で終わる物語であることが語られるという構成で、観客は事の顛末を見届けることになります。
ですから悲劇と解っているのですが、前半はそれを忘れさせるような喜劇として進みます。
まあ、モンタギュー家とキャプレット家の対立は、憎しみ合うことが目的となってしまっているわけですから、この対立自体が喜劇であるとも言えます。

そして、冒頭に登場する棺桶をはじめ日本的なものが散りばめられているのも特徴です。
衣装は和洋折衷で、舞台には神社を想わせたり、桜が登場したりします。
役者も日本人とフランス人という、これも日本がメインの多国籍という演劇どおりです。
ロミオの衣装は欧州で、ジュリエットの衣装は和服です。

多分この演劇は、演じられる場所に合わせるのでしょう。

劇はもちろん愛する二人の死で幕になります。その死には台詞がなく、ロミオ、ジュリエットそれぞれの心情を身体表現し、感じ取る事となります。
両家の和解は敢えて語られません。ここも観客が感じ取るところでしょう。

生まれた時から相手を憎む、それが染み付いている。
何故お互いが憎いのか、それ自体はどうでも良い。とても滑稽です。
その滑稽さを喜劇で表現し、それがあるからその代償の大きさが痛感できる、そんな演劇でした。

【いもたつLife】

日時:2016年03月23日 09:15

【SPAC演劇】 黒蜥蜴 宮城聰 演出

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【SPAC演劇】 黒蜥蜴 宮城聰 演出
三島由紀夫の死生観が匂う演劇でした。
死生観とは、どう自分は生きたかの結果が死で、その生き様の元になるのは人はどうやって誰に愛を与えるのかです。

黒蜥蜴は女としては生きていけない、黒蜥蜴としてしか生きられない女でした。
けれど情念の女でもありました。
人生でただ一度、明智の前で女としての喜びの一瞬がありました。
女として生きたのはあの時だけで、それが黒蜥蜴に死を選択させるのですが、彼女には死に値することだったのです。

私にはあの場面がこの演劇の最大の見せ場でした。
黒蜥蜴が明智を死に追いやることを決め、その死の目前に自分の愛の告白を明智にするシーンです。愛を告白することで黒蜥蜴は女になり、それだけでエクスタシーをも感じます。(このシーンはあの黒蜥蜴でさえも女の喜びを望むということを観る素晴らしいシーンでした)
明智を死に追いやることは明智への愛ですが、愛の告白を封印するのが黒蜥蜴としての生き方です。でも黒蜥蜴は女になり愛を告げてしまったのです。黒蜥蜴が女として生きた一瞬でした。

良い演劇を見せてもらいました。あの冷静沈着な明智までもが愛を求め、与える姿を通して、誰もが迎える死を考えさせてくれます。どうやって死を迎えるかの勇気は愛を与えることで得られるのかもしれないと強く感じました。

いい年になると死を身近に考えるようになります。どう死ぬかは、今からの短い人生をどう生きるかです。それはどういう愛し方をするかということをこの演劇で想います。
この演劇では貰う愛ではなく与える愛が描かれています。

明智は黒蜥蜴を捕らえることが彼女への愛情表現です。黒蜥蜴も日本一の探偵の明智の上を行くことが明智への愛情表現です。

黒蜥蜴を愛した雨宮は黒蜥蜴を振り向かせることができない男でした。そのチャンスを貰うために黒蜥蜴の奴隷になりました。でも黒蜥蜴を自分に振り向かせる機会を得ることとそれを実現することを虎視眈々と狙っていて、その機会が訪れると死と引き換えでも黒蜥蜴を振り向かせようとします。それさえあれば死は本望なのです。

もう一人死を覚悟する女がいます。黒蜥蜴に狙われた早苗の替え玉になった女です。彼女は自殺未遂をしました。だからもう死を怖れないとして、また高額な報酬もあり替え玉になります。そして黒蜥蜴に捕らえられ、雨宮と一緒に死までの秒読みに晒されます。
そんな状況で替え玉の女は雨宮のために死を喜んで引き受けます。女も愛を与えることで死を迎える覚悟をするのです。

この4人は死を厭わないのですが、これは特殊でしょうか、それに答えることは出来ませんが、少なくても私には、この世界は現実で身近でした。
当然のごとく、死をいつも考えている訳ではありません。それはこの演劇の登場人物達にもいます。事の発端になった宝石商の岩瀬と、黒蜥蜴に狙われた娘の早苗は死のことなど考えていません。その他の人、出てくる市井の人々も同じです。当たり前です。
私はこの演劇で何かを求めているから死をテーマに鑑賞します。だから死生観を訴えていることに呼応するのです。
そういう観点からも秀逸と感じました。黒蜥蜴はじめ、明智、雨宮、替え玉の女は死を直面して生きているという当たり前ではない姿ですが、凜とした生き様を見せてくれるからです。

この演劇は三幕構成です。一幕は黒蜥蜴が早苗を誘拐未遂に終わるまでです。明智と黒蜥蜴の第一回目の対決があり、大阪に来た岩瀬と早苗が黒蜥蜴の罠にかかり早苗が連れ去られますが、明智が用意周到なために早苗を取り戻し、ここで黒蜥蜴との対決が始まります。
同時に主要人物が登場しその人となりが露になります。そして、今後の物語の仕込みとなり、明智と黒蜥蜴が惹かれあうことを示し、最も注目するのはそれらの表現が三島由紀夫の死生観で、それを明智と黒蜥蜴が吐露していることです。この演劇の仕込みが出来上がります。

ここで休憩が入り、舞台も雰囲気も変わります。舞台は東京の岩瀬邸です。万全な警護の中で見事黒蜥蜴が配した手下が早苗の誘拐に成功します。
悔しがる明智ですが、ふと、どうしても早苗を取り戻したいのか岩瀬氏に尋ねるという場面もあります。どうも黒蜥蜴の思惑だけでは片付けられなくなることが雰囲気で匂うのです。
そのように、原作の面白さを元にしてあくまで明智と黒蜥蜴の内面に迫るのがこの演劇です。

第二幕はそこから黒蜥蜴が、岩瀬が早苗の次に大事にしている宝石「エジプトの星」をまんまと奪い取ることから、早苗が黒蜥蜴の本拠に運ばれる船へと進みます。
ここで黒蜥蜴は思いもよらぬことに遭遇します。誰にも付けられているはずがないのに明智が船に乗り込んでいることを知るのです。そして、その明智を葬る行為に移ります。黒蜥蜴として生きる当然の行為です。そして葬る寸前に前述したように黒蜥蜴は明智を愛する一人の女となるのです。
これは永遠の別れが成せる業がきっかけで女としての本性が表出したのです。

明智を葬ったとした黒蜥蜴は失意を隠し、いつもの黒蜥蜴に戻り演じます、装います。
そして第三幕へ、黒蜥蜴の隠れ家です。早苗を剥製にする、黒蜥蜴のコレクションに加える場面です。
ここで全ての愛の行方と、死への覚悟が決せられます。

まず雨宮が死を掛けて黒蜥蜴の嫉妬を誘います。今まで黒蜥蜴の奴隷でしかなかった雨宮は、一方的に黒蜥蜴を想うばかりで、一度も振り返らせることができませんでした。雨宮が死を掛けても黒蜥蜴に自分を振り返えさせることを実行したのです。
その相棒にされたのは、早苗の替え玉でした。彼女は世を捨てた自殺未遂の女で、明智の誘いで危険でも生きる術を与えられた女です。
その替え玉の女は雨宮を愛したのですが、替え玉でいることが雨宮の希望であると知り、替え玉でいることは死を選ぶことになりながらそれを選びます。

物語は黒蜥蜴の生き様が常に問いかけられますが、このサイドストーリーでもある雨宮と替え玉が死を望むことで深みが加わります。
雨宮は黒蜥蜴を愛していたが一度も黒蜥蜴から愛を受けられません。でも嫉妬させることができるだけで雨宮には満足なのです。黒蜥蜴は明智以外を愛することはない、もっと言えば人を愛することがない女のはずなのに、明智を愛してしまった、だから、奴隷扱いの雨宮に好意を持つなんて黒蜥蜴にはあり得ないことですが、雨宮はその黒蜥蜴を嫉妬させることが出来たのです。
その代償は替え玉の女の死です。この女も喜んで雨宮の喜びのために死を選びます。

しかし、物語は明智の一枚上の頭脳と行動力で解決に向かいます。
死に追いやったはずの明智が生きていたことを驚くと共に喜ぶ黒蜥蜴ですが、表面的には追い詰められます。逮捕という現実ですが、黒蜥蜴にはそんなことはどうでも良い事です。明智が生きていたことは、もう黒蜥蜴として生きていけない選択を迫られたのです。女として明智を愛したことを吐露した以上それを知った明智が生きていたのならば、当然、黒蜥蜴としてもうこの世にいられないということです。黒蜥蜴は「私は誰なのかかがもう曖昧になってしまう」ことになります。彼女は黒蜥蜴で生きることで私だったからです。

明智の前で死を選んだ黒蜥蜴ですが、黒蜥蜴を装っていてでも女となり、それを受け入れてくれた明智の前で死ぬことは本望だったように映ります。これは三島由紀夫の死に様と重なります。

でも最も感動したのは、明智の最後の言葉です。「宝石はもうなくなってしまった」
黒蜥蜴を失ったことで、黒蜥蜴に対する明智の本心が最後の最後の言葉でわかります。

明智は黒蜥蜴を追い込むことが愛の証で、それを黒蜥蜴も受け止めていました。でも黒蜥蜴はそれが本当に明智の愛なのかを悩んでいました。観る者も明智はどこまで黒蜥蜴を想っているのかに注目しています。それが最後にむき出しになったのです。
明智も黒蜥蜴を愛することはどちらかが死を迎えることだと覚悟していました。
そしてその通りに、もっと言えば明智が事件を解決することは黒蜥蜴の死が確実になることでしたが、それでしか報えることができないことを最後に嘆きました。
物語の中で明智の人間らしさをみました。

感動した演劇です。切ない愛がたくさん描かれていたからです。
それらは三島由紀夫の死生観でありそこに共感しました。そしてそれは、私達が死に向うにおいての現実として、見たくないけれど抱いている感覚だからでもあるからです。

原作も、ミステリーとして最後までどんでん返しがありといった設定で面白いから演劇として第一級と楽しめますし、第一幕からはちきれんばかりに満ちている三島由紀夫の生き方・考え方が台詞に込められているので、その大量の言葉を受け止める大変さと心地よさも感じていました。
そして、演劇としてそれを具現化して盛り上げてくれます。黒蜥蜴と明智の主演俳優二人の圧倒の演技はもちろん、息抜きのようなユーモアがあり、でも常に緊迫感がある舞台でした。音楽も、黒蜥蜴パートと明智パートで少しテンポと音階が違うことで、二人の心情を表現していました。

幕の繋ぎも自然だし、本当に完成されている演劇でした。

繰り返しますが、死を迎えるというテーマに対して、どう愛を表現するかは不可欠な一つだと思いました。
この黒蜥蜴と明智の愛の表現は特殊ですが、その根底にあるものは特殊ではありません。悔いなき死を迎えることには覚悟が必要だということ、どうやって私自身が持つことができるかが肝心なのです。それは黒蜥蜴と明智、二人は根底に持っていたことで、それを生き方に反映していました。
人の死というひとつの最大の難問に対する答えを示唆してくれたのだと痛感しています。

【いもたつLife】

日時:2016年02月03日 08:29

【SPAC演劇】青森県のせむし男 寺山修司作 渡辺敬彦演出

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大正家の女中マツが恨みを晴らす、女の情念の話なので、暗くなりがちですが、敢えて部分的にコミカルな演出をしているように思いました。
私は寺山修司氏の「天井桟敷」の演劇はみたことはありませんが、この演劇も寺山氏への敬意が込められていることでしょう。

そして、演劇はそんなにかしこまらなくても、気軽にどうぞという雰囲気がありました。
会場に入るとお囃子のような音楽が聞こえてきます。
そして演出家の渡辺敬彦さんの挨拶や終演後の俳優紹介でも、俳優の皆さんのお見送りでも、それを感じました。

中身はコミカルな部分があるとはいえ、アングラ色満載でした。
女中であるが故に、若旦那に身籠らされてしまうマツ。世間体から入籍はされますが、女中扱いが30年続きます。
そして肝心の生まれてきた息子は、醜いせむし男で、育てることすら許されなかった運命だったのです。
そして、夫は早くに亡くなり、想像ですが、恨みつらみを一度も夫に吐露することが出来なかったのでしょう。そのアンフィニッシュな気持ちがマツの情念、世間に対しての恨みの原動力で、マツの復讐劇です。

おもいっきり日本っぽい演劇です。
太鼓と三味線、浪曲師のような語り部が話を進めます。
神社仏閣を思わせるセット、周りも竹やぶで、全体的に暗い舞台には時に満月が浮かびます。
時代も大正時代からはじまります。

マツの情念の凄さがわかるのは終盤で、外堀を埋めるように劇は始まり進みます。
大正家の二人の侍従が語り部のアプローチを受けて、その詳細を伝えます、時にコミカルに。
もう一人の侍従は大正家と話を締めるかのように、プロットにけじめをつけます。
そして三味線とともに語り部が話を進めるのですが、この語り部も物語の重要人物で、語り部から物語の人物へと移行します。
そして、死んだはずのマツの息子のせむし男が現れます。
だから段々と散乱していた、登場人物と、物語に無関係な人物が、収斂されて核心へと迫り、マツの想いをこちらに想像させる展開になります。

マツが主人公ですが、せむし男も同様です。
マツの心情は露呈されますが、せむし男の心情は匂わせるだけです。
そしてマツの心が明らかになると、せむし男がどうしてここにきたか、どうやって生きてきたかを注視します。
せむし男は、マツが産んだ息子かは明らかにされません。
私はどちらでもマツは同じ生き方をしたと思うからどちらでも良いのだと解釈しました。
どちらでもマツは非情な情念を持つ女になったのだと。

そして明らかに健気なせむし男は何故存在したのか?
これも非情の象徴だと思いました。賽が投げられた後では世界は変えられないと、ということです。

この演劇は、登場人物すべてが戸籍を失うことから始まります。
誰が誰とは特定できないということです。でも実社会では相互の関係で誰が誰かを認め合います。
これは社会の二面性です。
誰が誰とは確定できないけれど、でも“あいつに違いない”という存在は、人の悪意に対してはこれ以上ない存在です。
小さな悪意を産み、満たすのです。
その標的がせむし男だった。
それは劇中のカゴメの歌であきらかです。

そうすると想像以上に非情な物語です。
せむし男は、ただただ地味に生きたい。でも、世間とは違う“みてくれ”から世間に引っ張りだされます。
世間に抗することが出来なかったとともに、世間なしでは生きられないのです。
マツはそんな世間に復讐をする立場になりました。
せむし男はそんな世間から逃れられないで、巻き込まれました。

でも結果どちらも不幸にしかみえませんでした。

spacの若手俳優が中心になって立ち上げたのが本作というのを観劇前に知りました。
その俳優達はやはり芸達者で、細部も丁寧に造られていました。

勢いがある演劇と感じました。

【いもたつLife】

日時:2016年01月19日 08:40