いもたつLife
【SPAC演劇】黒蜥蜴 江戸川乱歩原作 三島由紀夫作 宮城聰演出
観劇後、もう一度観る事を決めました。面白かった、素晴らしかったです。
最後まで見ると揺ぎ無い愛の物語とわかりますが、演劇全体を通して感じるのはいかに生きるか、どう死ぬか、でもその死さえも通過儀礼であり、自分と言う存在の終わりではない。そんな死生観が貫かれています。
三幕構成で、一幕は黒蜥蜴と明智小五郎の出会いと、お互いを知る、お互いの心を探る、自分は互いに相手をどう思っているのかを探ります。それは長回しの台詞の応酬で、知的な会話、抽象的な言葉でこちらに訴えてきます。
恋にも発展していきますが、お互いを好敵手として捉えるところが重要です。
正義と悪、敵でありながら、お互いは自分を鍛える存在であり、この戦いこそが生きる術となることが仕込まれます。
ニ幕からは、スリリングな展開となり、トリックを使った化かし合いになっていきます。
そして空間が違えども、二人の掛け合いがあり、ここでも粋な台詞の応酬です。
三幕はよりサスペンスでよりテンポ良くなり場面も変わりますし、解決に向ってはいるのですが、二転三転する面白さです。
対決を楽しむ黒蜥蜴と明智で、三幕で明智を殺したと思い込んだ黒蜥蜴の悲哀から、実は生きていたことで、明智を愛することに対して、自分に問うところは圧巻です。
自分が愛していることを受け入れるのか、受け入れるとしたらどうするのか、その矛先が死であることを覚悟するという、愛情表現の仕方は黒蜥蜴の美学であり、生き方であり死に方でもあります。
これと同時に、黒蜥蜴を愛しながら愛されないことを悩む雨宮が、死を厭わない方法で黒蜥蜴を嫉妬させることに成功したときも、死生観が現れます。
進んで死を選ぶ、その価値観は戯曲の作者三島由紀夫の生き様でもありました。
物語としても面白い上に、三島由紀夫の美学が加えられた戯曲が、宮城演出で引き出されていたというのが、今回の印象で、でも、まだまだ観たりない、もっと観たいというのが、終わった時点の率直な気持ちでした。
セットも凝っているし、照明に映える衣装の黒蜥蜴も美しかったし、何より黒蜥蜴と明智の兵ぶりが良いのです。欲望溢れる中に、冷静で理知的でもある黒蜥蜴は女らしさも秘めています。たきいみきさんの代表作となるのではないでしょうか。
明智小五郎も沈着冷静で自信たっぷり、一見理路整然でしか動かないようでも、熱さも持っている、大高浩一さん流石です。成りきっていました。
もう一度、みることができるのが本当に楽しみです。
【いもたつLife】
立川談笑 独演会
初代立川談笑の追悼の落語会が、浜松町の正伝寺の本堂で開催されました。
もちろん6代目の独演会です。
前座の笑坊さんの「寿限無」の後、仲入りなしで二席でした。
枕から大いに盛り上がり「金明竹」に入りました。
関西弁から津軽弁に変更しての一席で、師匠の得意ネタのようで、本家本元の青森でもとても受けたとのこと。
金明竹は大好きな落語で、私は三代目三遊亭金馬が最高と思っていましたが、それに匹敵でした。
そして「子別れ」です。
昭和30年代後半という設定の、師匠お得意の改作という感じ。
その時代設定を十二分に活かしての一席でした。
年代が同じことから、通じる背景も多く大満足で、オチも最高でした。
来年も談笑師匠は追っかけなければ、というのが感想です。
【いもたつLife】
柳家花緑 独演会
静岡市の駿府公園内にある、
茶室での“柳家花緑の落語会”が定期的に開催されます。
84名の定員、小さい箱での落語会で、なんと肉声で聞けるという贅沢な会。
今回も抽選であたり、席順は入金順ということで、なるべく早く振り込み、
9番目の席、前から二列目です。
高座とは2m位しか離れていません。
まずは、二つ目の花ん謝さんの「真田小僧の序」でした。
枕も上手で、落語も上手で、花緑師匠に繋ぎます。
そして「笠碁」。
生で観るのは初めてでしたが、見事な一席でした。
言葉ではなく、雰囲気で表現する芸で、音声では何度も聞いていますが、
この噺はやっぱり生でないと堪能できませんし、上手くないと満足できないのですが、師匠はお見事でした。
仲入り後は「船徳」。
こちらも仕草が肝の一席です。
演じても多く、音声でも映像でも多くの落語家の「船徳」をみていますが、
その中でも最高の部類に入るこちらも“素晴らしい船徳”でした。
花緑師匠の落語は5回ほど経験していますが、常に上手くなっています。
【いもたつLife】
立川談笑独演会
久しぶりの談笑師匠でしたが、大満足です。
仲入り前に3演目、
「俳句入門」「代書屋」「原発息子」
独演会でなければ、けっして掛けない演目ありです。
最後の「富久」も見事な出来でした。
【いもたつLife】
立川志らく独演会 with ZAZEN BOYS
ZAZEN BOYSの出囃子で志らく師匠が登場。
「片棒」で仲入り。
ZAZEN BOYSの色物のあと、「紺屋高尾」でした。
「片棒」は志らく師匠の得意技を披露、師匠ならではの世界を作り出していました。
ZAZEN BOYSのファンの方々も多くいらっしゃり、雰囲気はいつもの落語会とは違う感じ。
しかし、「紺屋高尾」が始まると空気が落語になります。
アンコール演奏もありました。
志らく師匠30周年ファイナルということで、趣向を凝らした落語会でした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】舞台は夢 フレデリック・フィスバック演出
主人公のクランドールは、誰が見ても己が望んだ生き方でした。愛に忠実といえば聞こえは良いですが、愛の他には何も見えない生き方です。
では、それにつられる他の人物はどうかと言うと、彼を追う3人の女性も、彼の父プリダマンも、彼に振り回されながらも、実は彼と同じく己が望む生き方であって、人は自分のやりたいことは自分ではわからないものということでしょう。
プリダマンに厳しい躾を強いられることから家を飛び出したクランドール、10年経っても消息がつかめないことから、プリダマンは魔術師のアルカンドルにわが子を探して欲しいと訪ねます。
アルカンドルは今のクランドールが生きる実際を洞窟の中でプリダマンに見せる力がありました。するとクランドールは、マタモールというほら吹き隊長に仕える身でした。
マタモールは愛するイザベルに想いを告げるために、クランドールに託しイザベルの下に送り出します。
しかし、クランドールとイザベルは愛し合ってしまいます。イザベルにはアドラスト男爵との結婚が決まっていました。それを反故にするイザベル、当然諍いが起こります。
クランドールは過ってアドラストを殺めてしまい、牢獄へ、死刑判決です。
クランドールの運命は絶望的ですが、その時にイザベルの侍女のリーズの機転で、牢番を味方につけて、クランドールは牢獄から脱出です。イザベルとリーズと牢番の4人で生きる仕切り直しです。
数年後、領主に仕えるクランドールとイザベル夫婦、しかしクランドールは領主の妻のロジーヌと愛し合う関係になってしまいます。
それに勘付いた領主は、クランドールとロジーヌを亡き者にすることにします。それが決行されました。嘆くイザベルとリーズ、そしてそれらの一部始終をアルカンドルの力で俯瞰していたプリダマンも絶望します。
ところが実はクランドール達は生きていた。なぜなら・・・。
アルカンドルとプリダマンが俯瞰しながら、クランドールを中心に演劇が進みます。
基本的には悲劇ですが、狂言回しのマタモールがいることで、喜劇っぽくなります。最期のどんでん返しも悲劇を覆します。
マタモールは筋金入りのほら吹きです。出任せ以外は口から出てこない、しかも大法螺吹きです。誰も相手にされません。仕えているからばかりクランドールは従います。
しかし憎めない。なぜなら、彼は私の中にも居るからです。
彼は心の奥底には自分がほら吹きだという自覚がありますが、今ここに居る時の自分、ほらを吹いている自分は、しゃべっているその強がっている人物そのものになりきっています。また、そうでなければ今を生きられないのです。喜劇を演じる悲劇の人物です。
彼以外もそんな人達の人間模様です。
イザベルはクランドールを愛し続けます。アドラストと結婚した方が裕福で幸せになれますし、愛する父親を棄ててまでクランドールを取りました。最期にはクランドールに裏切られますが、ロジーヌとの仲を引き裂くことも結局はしません。領主の妻を奪うことで仕打ちを受けるクランドールの身を案ずるほどです。そして、クランドールがロジーヌを本当に愛していることを知ると彼を許そうとします。また、クランドールが死ぬと後を追おうともします。
イザベルは彼に献身したのに、裏切られる仕打ちを、その怒りを彼にぶつけますが、彼女もそんなクランドールを愛したことは己が望んだことだと気付きます。
この構図はリーズも同じです。
リーズはクランドールを牢獄から助け出すのですが、それには逡巡がありました。彼女もクランドールを愛していたからです。またクランドールもイザベルを愛しながらもリーズを愛していて、彼に、妻はイザベル、リーズは愛人として愛するとまで言われていました。
けれど、リーズはクランドールを助けます。
しかも、牢番を彼女の虜にしてという方法をとります。その代償は牢番と結婚することになるのですが、それをも受け入れます。それほどクランドールを愛したのです。
リーズもまともではないのではないかと思えますが、彼女も生きたい生き方をしました。
プリダマンも同じです。クランドールのためを思って厳しく躾ましたが、行方知れずになり、心配でしかたがありません。アルカンドルを頼るのは、もちろんクランドールのことが心配だからですが、自分の心が探さずにはいられないのです。
もうクランドールは彼が生きたい人生を歩んでいます。でもプリダマンは息子の心配をする生き方がプリダマンの生き方なのです。
クランドールが死刑になる時も、領主の手に落ちた時も絶望します。親として当然ですが、どこまでも息子を追う姿は自律した姿ではありません。でもそれがプリダマンの生き様です。
クランドールは、お世辞にも褒められたものではありません。同時に何人もの女性を愛するのですから。しかも、その行為に悪びれたところが全くありません。自己に忠実なのです。
あまりにも自分を飾る生き方を身につけてしまっている私達に異を唱えているかのようです。原作ができた17世紀のフランスは、自分の愛に忠実なのが当然だったのか、その時代も社会に取り込まれて自己を隠してしまう風情だったのか、ただ、どちらも人が持つ普遍的なものだということでしょう。
この演劇は、アルカンドルとプリダマンが俯瞰するという構図で繰り広げられます。その時点で観客は俯瞰視点になります。しかも、プリダマンがクランドール達を見ている姿が舞台上の大きなスリーンに映るのです。だから劇中の人物に想いを入れながら少し冷静になります。それが最後のどんでん返しにも活きてくるという構造は見事です。
そして演出もそれを考慮に入れられています。
面白い演出として、先ほどのプリダマン達を撮るカメラが場面によってはクランドール達を捉えながら劇が進むことです。役者の顔のアップが大きなスクリーンに映し出されます。そしてもちろん観客は演じる役者そのものと、大きなスクリーンの姿と両方を観ることになります。
この演出は主に登場人物の内面を吐露するところと、ラストのクライマックスのクランドールとロジーヌの密会のシーン、ここでクランドールとイザベルのこれまでの愛と各々の愛についての語らいと、同じくクランドールとロジーヌの愛の語らいで使われます。
観る者は登場人物の内面の痛みをひしひしと感じる演出です。
演劇後のアフタートークでも話されていましたが、役者さんたちは、かなりカメラを意識するようです。マイクも口元にまできて、普段の舞台上の体一杯、声一杯に使った表現とは別の演技とのことです。
登場人物の内面を静かな声で、でも我々にはマイクを通した大きな音量になることで、その場面の揺れる心理がより伝わり、そして大きな気持ちの揺れであることが伝わってくる演出だと思いました。
また同じくアフタートークで、演出家のフレデリック・フィスバック氏から、自分の心の内面を素直に出す、自分に嘘を付かないでの演技を求められたとのことです。
なるほど、この演劇のテーマの、自己が求めている生き方を見つめるに沿っているし、人との関係で進むこの劇には適切な演出になるのだと納得しました。
喜劇を帯びた悲劇で最後はほっとする、楽しめる劇を、シンプルな舞台ででもスリリングな演出になっていたspacの「舞台は夢」、堪能しました。
追伸
10/2に、10月の「毎月お届け干し芋」出荷しました。
今月のお宝ほしいもは、“有機紅あずま平ほしいも”です。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
毎月お届けの「今月のお宝ほしいも」の直接ページはこちら
今月のお宝ほしいも
【いもたつLife】
舞台は夢 コルネイユ作 井村純一訳
SPACの「舞台は夢」の観劇があるので、原作を抑えようと読みました。
面白い戯曲でした。演劇が楽しみになった反面、読んでない方がドンデン返しを楽しめたかもという効果も少し。
色々な演出で上演されている訳がわかる痛快な話です。
落語に出てくるような人物がいたりしますが、私は落語の登場人物は、ちょっと強調された普通の人だと思っていますので、この話の人物も、決して誉められない輩が多いですが、自分と重ねてしまいます。
それよりも、入れ子構造になっている点と、魔術師を登場させて主人公の父親が息子のことを心配し、魔術師に息子の動向を見せてもらうという構造が、戯曲全体の俯瞰になっていて、登場人物一人ひとりを注視できるところが優れています。
そして最後がまた痛快です。
SPACの「舞台は夢」はどんな仕上がりか、観劇が待ち遠しくなりました。
【いもたつLife】
ビジネスパーソンのための易経入門 岡本史郎 著
易経をかじっています。
この本は易の入門書でもあり、易を説くためのヒントが散りばめられているので、
易の世界観が変わるごとに読むと、易との新しい付き合い方を見つけられそうです。
それだけ、易に対しての多面的な捉え方を著者がしているからでしょう。
そして、易の出自や本質を説明し、それと共に実践例と絡めて、
易を実務で役立たせることを目的にしています。
また何より素晴らしいのは、哲学である易経を、
身近な指南書たる存在であることを知らしめてくれていることです。
易をかじっている私の今の時点での易との付き合いで、
その効用を得る嗜みを教授していただきました。
【いもたつLife】
立川志らく シネマ落語 vol.9
今回も堪能しました。志らく師匠の大胆さを感じる高座でした。
前座噺の後に、「寝床」です。もちろん最後のシネマ落語の伏線です。
仲入り後に「宮戸川 上」ここまでで登場人物がそろいます。
そして「宮戸川 下」がシネマ落語で「ゴースト~江戸の幻」の副題が付きます。
今回感じたのは、枕から時事ネタを入れていることです。
今揺れている安保問題を、枕から本編、もちろん「寝床」「宮戸川 上」「宮戸川 下」と通してそれが中心になっている程です。もちろん笑いを誘うのですが。
これも独演会ならではですし、シネマ落語自体が師匠しかできないことで、これからも見届けたい落語家の大事な一人です。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】マハーバーラタ ナラ王の冒険(駿府城公演)宮城聰 演出
昨年、アヴィニョン演劇祭に招聘されて絶賛されたマハーバーラタの凱旋公演です。
私は3度目の観劇になりますが、過去二回と一番違うのは、客席を取り囲む環が舞台であることでした。
もちろんこの環を味方にした、広い空間が駆使されていました。
神々達も求婚するという、聡明な美女のダマヤンティーが夫に選んだのは、ナラ王でした。
その婚礼から始まります。打楽器を基調とした演奏と、能を想わせる重厚な動きで登場する演者たち、そして4人の神は厳かないでたちですが、皆宴を祝います。
ナラ王とダマヤンティー姫には二人の子が授かり、国も栄えますが、
ある時ナラ王は博打に溺れ、弟に国をはじめ全てが奪われてしまいます。
国を追い出され、危険が待ち受ける森を彷徨うナラ王、ダヤマンティーは二人の子を実家(南の国の王家)に預け、愛するナラ王を追います。
苦難の末会えた二人ですが、ナラ王はダマヤンティーの衣の一部を姫への愛の証として持ち、姫の下から離れます。
姫は他の国に落ち延びた据え、実家に戻ります。
王も新たな苦難を受けながら、特に姿形は醜くなってしまいながらも、北の国に落ち延びることができました。
その北の国で、南の国のダマヤンティーが新たな夫を選ぶ儀式を執り行うことを知ります。
姫を射止めたい北の国の王の御者となって姫の元に急ぐナラ王。
途中、博打に溺れたのも、森で姫を捨てたのも、悪魔のカリの横恋慕の嫌がらせだったことが解り、また北の王からは博打の奥義を授かるナラ王です。
ここからクライマックスの大団円に向かいます。
ナラ王は、ダマヤンティー姫も国も取り戻し、弟のことも許し、また益々国が栄えるのです。
この演劇は、説明しすぎないで、さりげなく、観客に見所を示してくれます。
アイボリーを主にした衣装は、緩急がある照明で表情が変わります。また、影となる照明もありました。登場人物の心の機微が窺えます。
そして時折アイボリー以外の色を効果的に使います。例えばカリの衣装は違和感をこちらに訴えますし、色がついた小道具、例えば呪いを説く物や、醜くなったナラ王がナラ王に間違いないことを証明する肉等の赤はキーになる場面に出てきます。
この演出は、ムーバーとスピーカーの形で演じられます。
普段は、演者はムーバーとして動きだけ、スピーカーが台詞をほぼ全て発するのですが、時折、ムーバーが口を開きます。
ここも登場人物の感情の高ぶりを、ここぞで示していました。
また、楽しい演出が多いのも特徴です。
語呂合わせのような洒落たギャグが入ったり、重厚な動きだけでなく、軽妙な仕草も多くあります。
また、森で旅する一族は、小さな模型で細かい動きで笑いを誘うかと思えば、森に潜む巨大な象は、大きな鼻だけでその巨大さを現します。
その森の中の時間軸も、距離感も、環を使った長い舞台が上手く活かされていました。
野外の駿府城での舞台は、最初は薄暮での婚礼の儀式で始まり、最後は照明で浮かび上がる祭礼の儀式で終わります。
環の半分を駆使して、観客から見れば180度の視界に演者は広がるのは同じながら、最初は単に婚礼の祝いの言葉だったのが、最後は、この世で生きる幸せを願う力強い声明に昇華されて、私たちの心に響くメッセージになります。
ナラ王が打ちひしがれても望みを失わなかったように、ダマヤンティーが、王のことを片時も忘れず、いつかよりを戻せることができることを信じる自分を信じることをやめなかったように、二人とも自らを鼓舞していた結果、もう一度幸せを手に入れることができたこと、それを今度は観客に、もっと言えば、劇場の外の世界に示す大団円でした。
この最後の、秘めた強い心を持っていたいという伝言が、今まで以上に伝わってきたのが、マハーバーラタ凱旋公演でした。
【いもたつLife】