いもたつLife
舞台は夢 コルネイユ作 井村純一訳

SPACの「舞台は夢」の観劇があるので、原作を抑えようと読みました。
面白い戯曲でした。演劇が楽しみになった反面、読んでない方がドンデン返しを楽しめたかもという効果も少し。
色々な演出で上演されている訳がわかる痛快な話です。
落語に出てくるような人物がいたりしますが、私は落語の登場人物は、ちょっと強調された普通の人だと思っていますので、この話の人物も、決して誉められない輩が多いですが、自分と重ねてしまいます。
それよりも、入れ子構造になっている点と、魔術師を登場させて主人公の父親が息子のことを心配し、魔術師に息子の動向を見せてもらうという構造が、戯曲全体の俯瞰になっていて、登場人物一人ひとりを注視できるところが優れています。
そして最後がまた痛快です。
SPACの「舞台は夢」はどんな仕上がりか、観劇が待ち遠しくなりました。
【いもたつLife】
ビジネスパーソンのための易経入門 岡本史郎 著

易経をかじっています。
この本は易の入門書でもあり、易を説くためのヒントが散りばめられているので、
易の世界観が変わるごとに読むと、易との新しい付き合い方を見つけられそうです。
それだけ、易に対しての多面的な捉え方を著者がしているからでしょう。
そして、易の出自や本質を説明し、それと共に実践例と絡めて、
易を実務で役立たせることを目的にしています。
また何より素晴らしいのは、哲学である易経を、
身近な指南書たる存在であることを知らしめてくれていることです。
易をかじっている私の今の時点での易との付き合いで、
その効用を得る嗜みを教授していただきました。
【いもたつLife】
立川志らく シネマ落語 vol.9

今回も堪能しました。志らく師匠の大胆さを感じる高座でした。
前座噺の後に、「寝床」です。もちろん最後のシネマ落語の伏線です。
仲入り後に「宮戸川 上」ここまでで登場人物がそろいます。
そして「宮戸川 下」がシネマ落語で「ゴースト~江戸の幻」の副題が付きます。
今回感じたのは、枕から時事ネタを入れていることです。
今揺れている安保問題を、枕から本編、もちろん「寝床」「宮戸川 上」「宮戸川 下」と通してそれが中心になっている程です。もちろん笑いを誘うのですが。
これも独演会ならではですし、シネマ落語自体が師匠しかできないことで、これからも見届けたい落語家の大事な一人です。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】マハーバーラタ ナラ王の冒険(駿府城公演)宮城聰 演出

昨年、アヴィニョン演劇祭に招聘されて絶賛されたマハーバーラタの凱旋公演です。
私は3度目の観劇になりますが、過去二回と一番違うのは、客席を取り囲む環が舞台であることでした。
もちろんこの環を味方にした、広い空間が駆使されていました。
神々達も求婚するという、聡明な美女のダマヤンティーが夫に選んだのは、ナラ王でした。
その婚礼から始まります。打楽器を基調とした演奏と、能を想わせる重厚な動きで登場する演者たち、そして4人の神は厳かないでたちですが、皆宴を祝います。
ナラ王とダマヤンティー姫には二人の子が授かり、国も栄えますが、
ある時ナラ王は博打に溺れ、弟に国をはじめ全てが奪われてしまいます。
国を追い出され、危険が待ち受ける森を彷徨うナラ王、ダヤマンティーは二人の子を実家(南の国の王家)に預け、愛するナラ王を追います。
苦難の末会えた二人ですが、ナラ王はダマヤンティーの衣の一部を姫への愛の証として持ち、姫の下から離れます。
姫は他の国に落ち延びた据え、実家に戻ります。
王も新たな苦難を受けながら、特に姿形は醜くなってしまいながらも、北の国に落ち延びることができました。
その北の国で、南の国のダマヤンティーが新たな夫を選ぶ儀式を執り行うことを知ります。
姫を射止めたい北の国の王の御者となって姫の元に急ぐナラ王。
途中、博打に溺れたのも、森で姫を捨てたのも、悪魔のカリの横恋慕の嫌がらせだったことが解り、また北の王からは博打の奥義を授かるナラ王です。
ここからクライマックスの大団円に向かいます。
ナラ王は、ダマヤンティー姫も国も取り戻し、弟のことも許し、また益々国が栄えるのです。
この演劇は、説明しすぎないで、さりげなく、観客に見所を示してくれます。
アイボリーを主にした衣装は、緩急がある照明で表情が変わります。また、影となる照明もありました。登場人物の心の機微が窺えます。
そして時折アイボリー以外の色を効果的に使います。例えばカリの衣装は違和感をこちらに訴えますし、色がついた小道具、例えば呪いを説く物や、醜くなったナラ王がナラ王に間違いないことを証明する肉等の赤はキーになる場面に出てきます。
この演出は、ムーバーとスピーカーの形で演じられます。
普段は、演者はムーバーとして動きだけ、スピーカーが台詞をほぼ全て発するのですが、時折、ムーバーが口を開きます。
ここも登場人物の感情の高ぶりを、ここぞで示していました。
また、楽しい演出が多いのも特徴です。
語呂合わせのような洒落たギャグが入ったり、重厚な動きだけでなく、軽妙な仕草も多くあります。
また、森で旅する一族は、小さな模型で細かい動きで笑いを誘うかと思えば、森に潜む巨大な象は、大きな鼻だけでその巨大さを現します。
その森の中の時間軸も、距離感も、環を使った長い舞台が上手く活かされていました。
野外の駿府城での舞台は、最初は薄暮での婚礼の儀式で始まり、最後は照明で浮かび上がる祭礼の儀式で終わります。
環の半分を駆使して、観客から見れば180度の視界に演者は広がるのは同じながら、最初は単に婚礼の祝いの言葉だったのが、最後は、この世で生きる幸せを願う力強い声明に昇華されて、私たちの心に響くメッセージになります。
ナラ王が打ちひしがれても望みを失わなかったように、ダマヤンティーが、王のことを片時も忘れず、いつかよりを戻せることができることを信じる自分を信じることをやめなかったように、二人とも自らを鼓舞していた結果、もう一度幸せを手に入れることができたこと、それを今度は観客に、もっと言えば、劇場の外の世界に示す大団円でした。
この最後の、秘めた強い心を持っていたいという伝言が、今まで以上に伝わってきたのが、マハーバーラタ凱旋公演でした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】例えば朝9時には誰がルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする 大東翼・鈴木一郎太・西尾佳織 演出

街(路上)を舞台としてしまった演劇です。
観客は十数人のグループに分かれて、演者を追います。
エキストラを含め、街の中に俳優がいて、要所で劇の核が演じられます。
それ以外は、主人公を追っていくことになります。
面白いのは物語が二つある点です。
物語はある家族の数時間で、当然同じ家族設定ですが、
あるグループの主人公は姉になり、姉を追いながら繰り広げられる物語を見ます。
もう一つのグループは、弟を追いながら、弟を中心とした物語を見るのです。
途中、誰が俳優で、エキストラであるか、本当の街の人かの区別が付かなくなり、
当然、演技をしている人なのか、現実社会で今生活している人(出来事)なのか、
が解らなくなる体験です。
実験的な演劇でした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】聖★腹話術学園 ジャン=ミシェル・ドープ演出 アレハンドロ・ホドロスキー作

アレハンドロ・ホドロスキーの戯曲ですが、彼の映画ほどは過激ではありませんでした。もちろんそのエッセンスはあり、強烈な内容ですが。
役者は皆等身大の人形を抱えています。彼らは人形を操る何かの役(学園の生徒)でもあり、その人形の役でもあります。
主人公のセレクトはこの奇妙な学園に紛れ込んでしまいます。
そしてやはり生徒であり、人形使いにもなります。
彼は学園に束縛されてしまいます。そこから彼の自由を獲得する物語になっていきます。
人形を操り戦うセレクト、キリストを操り自由を望みますが適いません。次には兵士を操りますが、死神に返り討ちに合います。
そしてついにかれは、人形を棄てて戦うのです。
当たり前に、自分の意志で生活しているように見えて、駆り立てられている何かの力で、
自分の意志は支配されている、自分の行動を見つめてみるとそんな、自分の行動は自らから湧き出てきた動機からだろうか?それを人形に操られてしまうというやり方で表現しています。
とても怖い内容なのですが、とにかく劇はユーモラス。
そして、支配されているのが本当のことのように人形を操る俳優達です。
そして、前から2列目で観劇していると、
人間の役を演じる彼らの息遣いも表情も、快楽や苦悩や欲望の強さを物語って伝わると同時に、それが人形にも乗り移っているのです。
彼らの分身のようでした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】盲点たち ダニエル・ジャンヌトー演出 モーリス・メーテルリンク作(「群盲」より)

目が不自由な12人の男女が、森の中に取り残されたという設定です。
ある島の施設からハイキングで森にやってきました。もちろん施設の先生の先導でですが、何故か先生はいなくなり、戻ってきません。
段々と不安になる12人、そして先生は死んでいたことがわかります。
この演劇は、野外をそのままセットそして使うようですが、当日は雨天なので、室内バージョンでした。
室内にはアットランダムに椅子が並べられていて、客席も舞台です。
スモークが炊かれて薄暗く視界は1mくらいです。
その中で多分12人の役者が散り散りになっていて、遠くからまたは近くから、声が聞こえてきます。
森の中で散り散りになっているからです。
不安を抑えきれず喚く男、冷静に先生を待とうという女、こうなったのはあなた(一人の特定して人物)の責任と責める女、恐怖で動けなくなる男、念仏を唱える女。
皆の不安は高まるばかりです。
突然に死の恐怖に晒された人間の嘆きの感情が伝わってきます。
私達は目が不自由ではないし、今では誰も携帯電話を持っているから大丈夫というのは気休めでしかありません。
生身の人間なんて脆いものです。
都市を作りその中でしか生きられないのが人間です。
自然に身をさらせば、ものの2日もあれば死が待っています。
もちろんそんな状況に追い込まれるのは、事故や災害時ですが、
都市の中でしか生きられないということは事実なのです。
あの叫び声は他人事ではありません。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】小町風伝 イ・ユンテク演出 太田省吾作

SPACの劇場の中でも、贅沢な空間の楕円堂での公演、しかも当日は、亡き太田省吾さんの奥様と、1977年にこの演劇を初演した際の役者さんたち数名も観劇という、緊張感溢れる中で開催された「小町風伝」は、個人的にはとても感動した演劇となりました。
小町は既に老婆になっています。失禁までしてしまう程、かつての美しさはありません。もう余命もいくばくもない様子、そんな彼女はかつての絶世の美しさの姿のままの自分を妄想しながら生きています。
ですから舞台上は、老婆の小町と絶世の美女である小町の二人が、対になっています。
老婆の妄想は、愛し愛された少尉との逢瀬。でもその少尉が戦地に去っていく場までも現れてしまいます。
当然ですが、老婆は妄想の中だけで生きていくわけにはいきません。
現実には大家が様子を見にきますし、隣家の生活も目に入ります。嫌でも現実に引き戻されてしまうのですが、その現実を交えて妄想の世界にまた入り込みます。
隣家の息子の若い青年がかつての恋人に重なり、若い自分との逢瀬がはじまります。でもこの時は、かつての恋人が老いて、今の老婆の自分に体を重ねてきます。
今の自分の姿を完全に切り離して妄想することもできません。
それは食べなければならないシーンにも現れます。老婆はインスタントラーメンを煮炊きして食べます。妄想の中ではレストランで、少尉とロシアンスープを飲みワインを呷りますが、それで空腹を抑えることはできないからです。
また、このシーンはとても楽しいシーンですが、町内で運動会が開催されます。
どちらというと、老婆を煙たがる大家も、老婆を看取らなければならない医者と看護婦も運動会に参加します。皆、老婆とともに嬉々としています。
これも半分は現実で半分は妄想です。老婆の耳に聞こえてくる現実社会を、老婆にとって不都合がない世界へと美化しています。
人は死で終えます。それは辛いことです。しかも年老いていった末、体が不自由になり、醜くもなり、場合によっては頭も働かなくなるという、老婆でなくても顔を背けたくなる現実の末路で死に至ります。
それは確かに死の直前の己ですが、その己の姿だけが人生の全てではありません。過去も確かに己だったのです。記憶というのは自分勝手な都合が良い空想である場合もありますが、その源は確固たる過去の自分です。
死を迎える今に当たって、こんな妄想をする老婆(役目は駒子です)は愛らしい存在です。そしてこれはあの世へ渡る彼女なりの儀式でしょう。
最後に老婆は襤褸から身支度を整えて、表札をはずして舞台とは違う世界(この時は、日本平の森に出て行くという演出でした)に旅立ちます。
私が死を迎えるその時に直面した時、果たして私は、どんな自分なりの儀式をするのでしょうか?それを深く考える劇でした。
“沈黙劇”として上演される「小町風伝」を、大胆に解釈し、敢えて言葉を繋いだのが、「イ・ユンテク演出の小町風伝」でした。
老婆、絶世の美女の小町ともう一人の女性の語り手の3人が、ト書きも含めたこの戯曲の沈黙部分を語ります。
老婆は今と妄想時の心情を、美女の小町は若き日に愛するものに伝えた言葉を、語り手は現実の老婆の想いを、役割分担して沈黙部分の全てを露にします。
3人共に実は彼女自身で、今の目の前の老婆の姿だけが彼女ではないということを強く感じました。
この演出はとても大胆ですし、役者達も躍動感ありながら繊細でかつ大胆な演技でした。
解釈に賛否はあるでしょうけれど、私には絶賛したい演劇でした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】ベイルートでゴドーを待ちながら

作・演出 イサーム・ブーハーレド ファーディー・アビーサムラー
二人芝居で、漫才のようで、落語「粗忽長屋」を思い起こすネタがあり、
上質な喜劇ですが、奥には演出家二人の死生観があります。
それは日本人には理解できない、レバノンでできた芝居ならではのものです。
天井からのスポットライトで、一人の役者が暗闇から浮かび上がります。
丸く明るくなった中で、右手で高々とVサインをしています。
そこにもう一人の役者が、その場所を奪おうとします。もう一人も、浮かび上がった円の中でVサインをしたいからです。
最初は明らかにスポットライトの円と、それ以外は暗闇という境界線があるのですが、
演劇が進んでいくと、境界線がなくなっていきます。
次に展開されるのは、<あいだ>です。
二人は二人だけで、二人との間に自分がいると言い出します。
最低3人いなければ、<あいだ>に入ることは出来ないというのが常識なのに。
そこからも二人は、いがみ合っているのか、仲が良いのか、わからない喜劇を演じます。
そして終には、一人の男は、死と生のどちらにいるのかが解らなくなります。
私達が引いている境界線はこの演劇には通じません。
日本での生と死と、ベイルート(レバノン)での、生と死は全く異なり、
常に足を一歩踏み入れているようなのです。
そんな状況を高々と笑いにしてしまうという、心が痛む演劇でした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】観~すべてのものに捧げるおどり~ 芸術総監督・振付 林麗珍

自然と人との係わりが、自然の中での人の営が印象になる演劇です。
客席は暗く、舞台は蝋燭の炎だけの明るさから、時に幻想的なライトも交えた中、
演者達は、無言のスローモーな動作から、銅鑼の重厚なベース音と打楽器の激しい音色の中での時に俊敏、時に力強い踊りを披露します。
自然の畏敬に対しての人間が抱く感情の表現や、単に大いなる存在への感謝の儀式にも映り、厳しい自然そのものにも映り、人との別れのようにも映ります。
訓練された身体が無ければできない、タフな2時間ですが、そんなことへは思考は行かない舞台です。
地球は何十億もかけて時間が流れ、そこには人の存在など、ただあるだけ。でも人は一人一人地球の上で確かに生きて、そして死んでいく、それを地球上で連綿と繰り返している。そんな生命の根源が表現されているようにも感じます。
そして、演劇が進むに連れて段々と、母性に抱かれている感覚になりました。
幽玄な世界が繰り広げられた演劇でした。
追伸
5/6は「立夏」でした。二十四節気更新しました。
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