いもたつLife
立川談春独演会 『百年目の会』(水戸)
まだまだ上手くなっていくことを感じる、談春師匠の独演会でした。
ウォーミングアップのような枕から入り、
最初のネタは「替り目」、夫婦のやりとりにより重点が置かれていて、
夫の内弁慶ぶりとシャイに妻を想う心が見事い演じられていました。
そのまま高座で、今回の“30周年記念『百年目』の会”開催の主旨を絡めながら、話を始めます。プログラムでは「談春半生記」となっていましたが、
笑いもそこそこに、師匠の人生観を感じる内容で、
この落語会全体も、談春のこれまでと、これからを、言葉の間で感じる落語会でした。
仲入り後は、大ネタの『百年目』です。
これも師匠独自の解釈を入れての熱演です。
最後の挨拶で、「自分でここまで頑張ってきたと思う時もあるけれど、そんなことはない、自分は育ててもらったんだ。と、50歳前になって実感している」
とおっしゃっていましたが、その想いが込められている『百年目』でした。
素晴らしかったですし、師匠の今後に益々期待したくなりました。
2時間40分の落語会でしたが、あっという間でした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】ハムレット 宮城聰 演出
ハムレットは誠実だったのでしょう。それ故に悩んだ。
宮城聰さん演出の「ハムレット」は、ラストに大胆な解釈を入れています。
自国を異国の王に託すくだりで、敗戦国日本を重ねます。
今の日本も悩んでいます。その原因は、あの時から始まっているのは確かです。
ハムレットも、父の亡霊により復讐を命じられてから悩みました。
国を憂いながら悩んだのでしょう。
私は単にどうやって復讐をするべきか、でハムレットが人生の時間を費やしたのではなく、
国を治めるという大事と、復讐することにより自分がなすべきことができなくなる狭間で悩んだのだと思います。
現国王クローディアスのダメな政治は、父を無き者にしたのと同じ位の罪だとしたハムレット。
また、母のガートルートに対しても、安易な再婚の決断を許せないとしました。
狂人のふりをしてまで、愛するオフィーリアを寄せ付けず、自ら成すべき事をやりぬくハムレットは、どうみても、真剣に生きる人物です。
そして武石守正さん演じるハムレットは、愛情深く、聡明で、力強いハムレットです。
そんなハムレットでしたが、クローディアスの画策とはいえ、全てを失う結果となってしまいます。
無念極まりない最後です。
その中で、国のことを想い、異国の王に国を託す決断をします。
それが、宮城演出では、敗戦直後の日本になるのですが、
日本の決断は正解だったのでしょうか?
答えは「どちらでもない」です。
ハムレットが悲劇で人生の幕を閉じたように、悲劇として終わっても終わらなくても、
生きる苦しみは常に誰にでも訪れます。
確かに戦後日本は繁栄しましたが、それが続かないことは今誰もが感じています。
人生の喜も悲も、生きてきたある部分を切り取っての結論であって
どちらかなんて、決めるものではありません。
それよりも実感として残るのは、自分に対して誠実だったか、
ダメダメな自分にしては良くやった方か、そんな感触だと思います。
武石さんのハムレットはとても立派ですが、それでも もがいていました。
私のような凡人はもがいて当たり前です。
もがき苦しみ、悩み、でも一歩進む。それで良いではないか。と思える観劇でした。
【いもたつLife】
古典ムーヴ・春爛漫【S-5】
柳屋三三師匠、柳屋花緑師匠、立川志らく師匠、の贅沢な落語会でした。
三人のおしゃべりから始まり、一気に会場は盛り上がります。
演目は、三三師匠が、タイムリーな長屋の花見。
三三師匠は初めてでしたが、実力がありました。
花緑師匠は、何度も見ていますが、益々バワフルになっていました。
枕も絶好調。
演目は、井戸の茶碗。時間内に本当に上手くまとめました。
この落語会は、2日間にわたり5回開催されたのですが、その大トリが志らく師匠で、大ネタの文七元結。
志らく師匠も何度も見て、大ファンです。もちろん大満足。
実力派師匠三人の充実落語会でした。
追伸
3/6に、3月の「毎月お届け干し芋」出荷しました。
今月のお宝ほしいもは、“ほしキラリ丸ほしいも”です。
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今月のお宝ほしいも
【いもたつLife】
今年の蔵見学
菊姫会総会の後、これも毎年蔵見学していきます。
並行複発酵という日本酒の仕込みは、大変複雑かつ繊細で、
菊姫酒造では、細かいことにまで神経を配っています。
蔵見学もゆうに10回以上ですが、毎年新しい発見があります。
【いもたつLife】
第12回菊姫会総会
昨日と今日、菊姫会総会が山代温泉で開催です。
毎年参加しています。
昨日は日本酒の勉強、唎き酒、懇親会と盛りだくさん。
今日は総会と蔵見学です。
【いもたつLife】
再見 【SPAC演劇】グスコーブドリの伝記 宮城聰 演出
「心が洗われる」なんて言葉を安易に使いたくありません。
けれどこの演劇は、その言葉を言いたい心境にさせてくれます。
けれど同時に、崇高な心でいたいなんて想いは、
すぐに日常に紛れてしまうことを深く感じることにもなります。
素晴らしいSPACの演劇「グスコーブドリの伝記」を再見することができ、
観劇が終わるとそんなことを考えました。
初見では、演者、舞台セット、音楽、照明を含めた演劇自体の完成度と、
どんな演出かということに夢中になり、また、グスコーブドリの生き様、すなわち宮沢賢治がどんな心境だったのか、そして宮城聰さんの解釈はどうか、またどうやって具現化するのか、それらを私がどれだけ受け止められるかに心を砕きました。
でも今回は、この演劇から何を受け取ることができるのかと、自分の心の動きを意識することになりました。
自分は残りの命を何に使うのだろうか?
グスコーブドリのように、イーハトーブの人々のために、平然と人知れず尽くす。
誰もができないことをやっても偉ぶることもなく、限られた命に対して嘆くこともなく、
生を全うすることは到底無理です。
なんてたって、このような素晴らしい演劇を観て、人に対しての思いやりの心が目覚めても、すぐに常の自分に戻るからです。
でも、グスコーブドリは大きな世界を対象にそれができる人物だったけれど、もっと小さな世界の中であれば、私でも彼と同じ心境で同じようなことができるかもしれない、または、少しだけならやっているのではないかと、立ち止まって自分を観てみることができました。
最初にこの演劇で強く感じたことは、グスコーブドリはいつも等身大だったことです。
再見して、そうか、等身大な自分でいることができれば、自らの心も安らかだし、今よりも少しはましな生き様になることが、自然にできるかもしれないと痛感しました。
ラストのメッセージでは、人は人へ繋ぐことができるでした。
なりたい自分になれず、結果を残すことも出来ずに人生が終わっても良いのです。
その過程で身近な人が何かを得て、良きことを繋ごうとするからです。
「グスコーブドリの伝記」を観て、やっぱり人は最終的には善な存在だと思います。
だから今の世も本当はもっと生きやすいのかもしれません。問題なのは、今の己を飾ってしまう心なのでしょう。
追伸
2/6に、2月の「毎月お届け干し芋」出荷しました。
今月のお宝ほしいもは、“いずみ薄切りほしいも”です。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
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【いもたつLife】
【SPAC演劇】グスコーブドリの伝記 宮城聰 演出
宮城聰さんの解釈ですが私には目の前に広がる世界は宮沢賢治の世界そのものに見えました。
グスコーブドリはイーハトーブに一生尽くしました。けれどそれはやれることをやるという等身大で、いつも心安らかでした。
自然は人のことなどおかまいなしです。何の意志もなくバランスをとっているだけです。人は知恵を絞りその恩恵を得ようとしますが、時になすすべなく絶望を強いられます。
グスコーブドリはそんな厳しい自然といつも対峙していました。
その中で、我は何のために、誰のために、何をしたいのか、それを貫きました。
闇に浮かぶ白を基調としたセットと幻想的な音楽で冒頭からイーハトーブの世界に引き込まれます。
グスコーブドリの一生という長い時の流れを、シーンとシーンの間に闇を入れてテンポよく進めます。そして闇から現れた瞬間に、何が起きているかをすぐに感じさせる演出で、私はグスコーブドリの心情に注意を注ぐことができました。
彼の一生は悲劇に見えます。努力に対してあまりにも報われなかったからです。でも本人はそんなことどうでも良かったように見えます。その強さは自分に対しての嘘偽りのなさがもたらしています。
人は自分が何をしたかを自分が一番知っています。だからどれだけ真摯でいたかは解っています。ただ顔を背けているだけです。
そんな、自分に面と向った姿が宮沢賢治だったのでしょう。
幻想的な舞台上ですが、イーハトーブは生きていくのに辛い現実と同じ世界です。その場でグスコーブドリは等身大でできることを、またそれに呼応するように他の演者もできることをひたむきに演じます。
架空の世界からの問いかけですが、だからこそ、自分の現在の生き様を見つめてみようという気になります。
耐え忍ぶ生き方よりも、結果がすぐに出ないことに我慢できない今、自分の感覚以外は受け入れない風潮を強く感じる昨今で、宮沢賢治の世界に浸れることは貴重です。
そしいていつも宮城さんの演劇で思うことは、観客を信じ応援してくれることです。
宮沢賢治はイーハトーブを理想郷としました。理想郷とは安楽でいられるところではなく、自分を研鑽できるところではないかと感じます。でもその奥底には暖かい思いやりがある世界です。そんな宮沢賢治の世界が表現された希望があふれる演劇でした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】変身 小野寺修二 演出
原作が原作ですから、辛い物語ですし、割り切れない、やりきれない気持ちになります。
ある朝毒虫になってしまったグレゴール、しかし彼は虫の姿の人間です。
家族は当初グレゴールは虫の姿になったグレゴールとして捉えていたのが、
虫として扱うようになります。
そこには、愛や良心や善だけでは生きていけない社会の仕組みが隠れていますし、
人の心も、世の中も無常ではないという非情な真実でもあります。
グレゴールも家族も、いっそのこと、彼が心まで毒虫になってしまった方が良いと思ったでしょう。
また、最後のグレゴールの悲劇を考えると、人の心が鬼であった方が、良いのではとも思えてしまう怖ろしさがあります。
そしてグレゴールを失った家族は、まだ生きていかなければならない、グレゴールを失ったことを後悔しながらも、虫になってしまったのだから仕方がないことを自分達に言い聞かせるでしょう。
遺された人の宿命で、これも真実です。
そんな理不尽な内容を、この演劇では、人が重なり合うような動きで表現していました。
明暗がくっきりとした照明の中で、登場人物を強調する際、何人もの役者が重なりながらの演技になります。
SPACの俳優達はその身体能力を活かし、整然・毅然とした動きで観客に迫ります。
その動きを見ていると、虫になってしまったグレゴールよりも、グレゴールとどう向き合うかを迫られた家族の苦悩の方がはるかに揺れるものなのだろうと思えてきました。
もちろん、絶望となったのはグレゴールですが、家族であるグレゴールを厄介者としてしまう心の葛藤が描かれていた舞台だと感じました。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】ドン・キホーテ 原田一樹 演出
夢かなわず、ドン・キホーテは病に伏せ、終幕になるこの演劇を観て、
世の中は人一人が生きる時間では、その人が望む形には変わらないのだとも、
でも確実に変化は起きているとも思いました。
そしてこの演劇では、そもそも現実とは何か?と問いかけてきます。
風車を怪物と決めつけ突進するドン・キホーテ、彼は世のため人のために真剣に行動します。ただ、的外れな独りよがりです。それを諌める回りは良い迷惑です。
ではドン・キホーテだけが独りよがりなのか?とは言えないと、映りました。
実は、現実を見ているドン・キホーテの従者のサンチョも、キホーテを心から心配する姪のアントニアも、アントニアに頼まれてキホーテを連れ戻そうとする司祭と床屋も、意識してはいないでしょうけれど、その行動は、自分自身のやりたいこと(都合)でしかありません。
キホーテの目には想い姫として映るアルドンサなどは、その最たるもので、彼女はキホーテから讃えられる存在ですが、悪しき生き方を一向に変えようとはしません。
頑固で独りよがりはキホーテだけではないのです。
そして誰もが望む生き方や、望む環境があり、それとの違いで悩んだり苦しんだりします。
でも世の中はなかなか変わることはないのが現実です。
(だから巷では自分が変わればと言います)
何年も前の自分の写真を見ると、今ととても違うという体験は誰もあるはずです。
日々目に見えない変化でもそれが重なると大きく変わっていて、振り返ると時代が流れていることを確認できます。
だから変化しているけれど、問題はそれが、自分や社会が望む形なのかということです。
世の中そんなに上手くはいきません。
ドン・キホーテが玉砕していく姿が重なります。
また、この演劇では最後に操り人形のお芝居がど真ん中で映りました。(舞台上の真ん中ではなく、空間上の真ん中)
なにか、キホーテをはじめ、皆が、結局は大いなる力で操られていることを表現しているようです。
それを思うと、現実を見りことができないキホーテも、現実を捉えている他の人物も、
本当の現実なんて見ていないし、捉えてはいない、どちらも五十歩百歩といわんばかりです。
人が生きる辛さを感じるシーンでした。
でも人間はキホーテのように、風車に向っていく存在なのです。
だからやっぱり人間賛歌であることをこの演劇は訴えているのだと私は受け止めました。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】Jerk 演出 ジゼル・ヴィエンヌ
1970年代のアメリカ テキサス州で、10代の若者が27名殺害されるという事件の犯罪者達の行動を非常にリアルに再現した心が大きく揺れる演劇です。またその手法に驚嘆もします。
役者ジョナタン・カプドゥヴィエルの一人芝居ですが一人で6役を賄います。ジョナタン本人は共犯者デイヴィッド役を演じますが、主犯のディーンともう一人の共犯者のウェインと、被害者3名を、人形を使ってジョナタンが演じます。ですからデイヴィッドがこの演劇の進行役兼主役で、デイヴィッドと両腕の人形、それに加えて腕の人形が掴む人形が登場人物になります。それぞれの役は声色を替えて腹話術を使い、ジョナタンが演じ分けます。
一人の演劇、人形での演技では細かい設定の説明はできないことから、観客は配られた冊子で事件現場の背景を把握してから芝居がはじまります。
まず第一幕は、ディーンの殺害の再現からはじまり、ウェインがディーンを殺害してしまうまでです。
その後舞台が変わることから、もう一度冊子を読み次に進みます。
第二幕は、ウェインが次の被害者のブラッドを殺害し、最終的にデイヴィッドが決着を付けるためにウェインを殺害してしまうまでです。
そしてデイヴィッドの告白で事件の全容が明らかになり、この演劇でも再現されたことを説明して終わります。
ディーンは被害者を滅茶苦茶にし、犯しながら人を殺めます。そして被害者を自分の見立てた人物に変えて嬲る。言葉ではしっかりと説明ができないですが、言葉にまとめるとこうなります。
そしてその傍らでは、デイヴィッドとウェインの同性愛のセックスが行われています。これらだけでも衝撃なのに、カメラまで回っています。
これらの一連の出来事を、デイヴィッド本人としてと、人形と数種類の声色での台詞でリアルにジョナタンが再現します。リアルというのは、観客が思い描いてしまう心の中の情景がリアルということです。
この演劇が周到なところは人形劇だから大筋を表現しているだけなので、現場の状況の様子は観客の頭が描くところです。もし映像であれば目を背けたくなるような動きや台詞でも、観たことで納得しようとする、納得して体に纏わりついてくる恐怖や違和感を過去にしようとするのですが、この手法だと、殺人現場は自分で作った像なので映像よりも心に残るのです。
園子温監督の映画「冷たい熱帯魚」でもかなりおぞましい描写がありましたが、私はJerkの方がはるかに気分が重くなりました。こちらは殺人と死体損壊に加えて、ディーンの、殺人が快楽になり常習していくことも描かれているからもあるからですが。
人を憎んだり恨んだりは誰もが持っている感情です。だからと言って通常それが殺人に繋がることはまずありえません。しかし殺人者が、それらが動機だったと説明したら想像ができないことはありません。
けれどこの惨劇は彼等3人が楽しみながら犯しています。その気持ちは全く想像できません。
ただ、27人もの被害者が出たことは、ディーンは人を嬲りながら犯しながら殺人をすること、被害者を違う人物に見立てて葬ること、それをすることで彼の中に強烈な快楽が起こっていたのではないかと推測しました。そうでなければ理解できません。
いくつもの禁忌を破ってしまうことに加えて、他人のアイデンティティーを破壊する行為にこの上ない享楽があったのではないかという推測です。
ウェインがディーンを殺害した時も、ブラッドを殺害した時もそれを匂わす表現がありました。そして恐ろしいことに、ウェインはディーンの代わりの怪物になってしまったことも見逃せません。
この事件が起きたことに深く悲しみ、それを心の中で再現したことの動揺もありましたが、鑑賞後に、私が我を重ねてみてという観点から振り返ってみたら、とてもショックを受けたことがありました。
“人間には他人のアイデンティティーを破壊することを好む性癖があるのではないか”ということと、殺人の快楽がディーンからウェインに伝播したように、その行為はある者が行うと別の者に伝播していくのではないか?と私の中で仮説になったことです。
自分勝手に他人を見立てる行為は軽い気持ちで行ってしまいます。しかもそれを面白おかしく人前で披露することも取り立てて珍しいことではありません。個人的な話になりますが、自分の思い込みで他人にあだ名を付ける、という行為は何度となく行ってきました。
考えてみるとそれも、他人のアイデンティティーを侵食することに他なりません。
そして下手に誰もがそれを認めることになるとそれが伝播します。
この演劇の主犯ディーンも共犯のデイヴィッドもウェインも全く共感できないし理解しがたい人物だということは変わりませんし、許せない犯罪です。
けれど自分とは全く違う人物であるということに捕らわれていたのではないかとも思いました。罪もないことではあっても人を傷つけることで快楽を得ようとしている自分がいることに気づいたからです。またひとつ嫌な自分を見つけました。
けれど見つけた価値はとても高く、気づいてよかったとも痛感しています。
【いもたつLife】