いもたつLife
【SPAC演劇】タカセの夢 演出 メルラン・ニヤカム
世界を代表する一人の少年と九人の少女が、
大人になり老いていくのですが、私達は彼と彼女らにどんな社会を提供しているのでしょうか、と問うてくる演劇です。
スクリーンには、平和に尽くした人々から、犠牲になった人達や、
現在の都市(東京)の状況、そして少年少女にとって当たり前にあるはずの牧歌的なイメージまでが映されます。
それに合わせて彼等は、ミュージカルのように歌い踊ります。
それが全編全力なのが印象的です。
まるで、
僕等はこれ程までに一生懸命に生きていると伝わって来る程の熱気を帯びた姿です。
劇中のダンスは世界各国の基本的なものでしょう。
子供の頃の遊びも挟まれますが、彼等の成長の比喩であるとともに、「かごめかごめ」や「ずいずいずっころばし」等の日本のものが中心で、これらは観客に共感を呼びかけやすい配慮です。
また最初の衣装から10人が十人十色で、世界を象徴していることを示唆していて、彼等の成長期も老いてからもそこに繋げていることからも、観客である私は世界中の子供達とどう関わっているかを考えます。
大袈裟にそういうことを考えるというよりも、どんな気持ちでいるかを優しくでも、真剣に考えるように促される、そんな舞台でした。
タカセというのは、紅一点の反対の唯一の少年の役名です。
彼が夢見ているものは、もちろん世界が仲良くなることですが、
この演劇では、最初に観客と触れる場面があります。
その時からちょっと大きめのトランクバッグがキーになっていて、終盤には、そのトランクバッグには、彼の人生の全てが詰まっていることがわかります。
その中身は、みんなが仲良くなるための道具でした。
そして、それを介して少年少女時代に仲良かった10人が、大人になり離れ離れになっていたけれど、また仲良くなります。
そこでこのお芝居は本来なら終了ですが、カーテンコールで、観客も巻き込んで劇場が一体となる憎い演出があります。
これこそが、タカセの夢です。
夢とは実現していない状況です。
この演劇に“夢”という題名が付いていることを受け止めなければなりません。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】マネキンに恋して”ショールーム・ダミーズ” 演出 ジゼル・ヴィエンヌ
一人の男と、マネキンに扮した女優が器械的な踊りだけで表現する演劇です。
本当に踊りだけで台詞は一切なし。唯一劇中に歌が挟まれるだけです。
舞台には十五体以上のマネキンがいて男とともに七体のマネキンが、
一人で踊ったり、男と戯れたりします。
マネキンは皆極端な身なりや踊りです。
濃い化粧、高いヒール、体のラインを強調した衣装、
意志はないけれど、与えられた役目をキッチリとこなす踊りを見せるマネキン達、しかも個々に個性的です。
観客、特に男の観客の気をひこうとする仕草の踊りで演劇は始まり、
そこから男との戯れやマネキン同士がぶつかるようになっていきます。
一見は成長しているようですが、機械的です。
だから意志があるようには思えませんでした。
でも知性は育っているようです。でも感情はどこまでも封印されています。
だから意志とは、知性だけでは全く機能しないと改めて痛感します。
題名は「マネキンに恋して」ですから、男とマネキンの愛を描いているのですが、不毛に見えます。
演劇後のアフタートークで、
原作は男が月の光を受けた彫刻を見て恋したことをモチーフにしていると知りました。
すると、やはり男が女に対しての憧れと期待をマネキン達に求めていたことになります。
すると、この演劇は私個人として腑に落ちてきます。男が理想の女像を求めた世界です。だから複数の違う個性のマネキンが男と戯れます。
男は時に親密に、時に乱暴な振る舞いです。また、マネキンを動けなくしたりもしますし、操ろうともします。
隠していたい欲望が垣間見れたり、優しく振る舞う姿も見せます。
でも男はやっぱり操作した支配では、マネキンに息は吹き込めなかった。そう映りました。
「マネキンに恋して」は、ロマンチックな男が味わう現実を表現した演劇ではないでしょうか。
追伸
5/21は「小満」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「小満」の直接ページはこちら
小満
【いもたつLife】
【SPAC演劇】隊長退屈男 演出 ジャン・ランベール=ヴィルド 翻訳・翻案 平野暁人
人は期待されるとそれに応えようとします。それは素晴らしいことですが、それによって悲惨な想いをしてしまうこともあります。
太平洋戦争では自国でも他国でも理不尽で非人道的に多くの犠牲者が出て、今もって苦悩する人もいますし、様々な切り口で反戦が唱えられています。この作品も優れたその一つとして数えられるほど、大胆で綿密に作られています。
この演劇では、人が壊れていく様があまりにもリアルでした。
今の日本に居られることが幸せであることはわかりきっていたことで、
当たり前になっていく認識もありました。
でもそれは時が経つのだから仕方ないことだという気持ちでしたが、今回それが吹き飛びました。
以前、知覧の特攻平和会館で当時の若き特攻隊員の遺書を読んだ時に、死を覚悟した後に自分の心を清く昇華させる若者に畏敬の念を抱きましたが、その域に到達するにはどんな葛藤があるかは想像し難いものでした。
特攻に志願するまでのいきさつは、戦前の教育が仕向けたからだとか、集団であることが特攻への合意を拒めなかったとか、自国、ひいては親兄弟のためであったからだとか、要因はたくさんあったでしょう。また特攻以前の問題で、召集されたところから、死は拒めないという状況もあったでしょう。
そして、本でも演劇でも映画でも、当時の事実や人々の生き様も多く語られてきました。
もちろんそれを知ることは大事だという気持ちも持っていましたし、汲み取ることもしてきたつもりです。
「隊長退屈男」では、死しか待っていない緊迫化の中で、いつ死を迎えるかもわからない状況下で心を清く保とうとすることやそこへ行き着こうとする葛藤の凄まじさを目の前に見せられました。そこにあるのは、私が知覧以来感じた想像し難いものの描写でした。
演劇は狭い櫓の上での一人芝居です。櫓はたった一人生き残った日本軍兵、磐谷和泉隊長の砦で、武器はもちろん水や食料や酒も備わっています。外界と唯一通信できる電話がひとつ置かれています。
磐谷隊長が軍歌と共に参戦するところから、徐々に戦況が悪化していって、通信も途絶え孤独になり、恐怖に耐えながら戦い抜きますが、死を迎えてしまいます。
台詞は詩が基本になっています。詩に例えた台詞で磐谷隊長が気持ちを吐露します。時に激しく言葉を発し勇ましい態度を取ったり、時に悲しく、また嘆いたり、怒ったり、怯えたり、また己を鼓舞させるために勇壮な自分を演じたりもします。
国や家族の期待を背負って今、ここで戦っていることを誇りに思うことで、切れかけた精神の線を繋いでいるかのようです。
悲劇なのは、日本の軍人としての威厳を保とうとする方向にしか思考も態度も向かないことです。
「人生は素晴らしい」という言葉を何度も発します。嘘偽りではありませんが、いつでもどこでもどんな時でも「人生は素晴らしくなければならない」と決めています。
この演劇で当初、磐谷隊長は一糸乱れずに纏った、本人も送り出す側も誇りとしていた軍服姿だったのですが、一枚一枚剥ぎ取るように脱いでいきます。
軍人の磐谷隊長は彼自身の一面であり、恐怖に怯えたり、家族を思ったり、欲望を持っている素の磐谷が当然します。そこには人としての弱さがあることを、軍服を脱いだ磐谷も磐谷だと観客に伝えているようです。けれど軍人以外の自分を認めることを頭が拒むのです。最後は褌一丁になるのですが、そこまできても拒みます。
もうひとつ「俺を揺さぶるのはやめろ」という言葉も何度も出てきました。たった一人なのに、誰かに、何かに磐谷は心をかき乱されています。とても悲しいことです。
軍人として果てることができない自分自身を許せない、またそれを望まれて戦地に来ているという周りの期待に応えることができない自分自身に心を揺さぶられています。
今まで信じてきた生き様に抗うことはなんと難しいことなのでしょう。
戦争の原因は行き過ぎたナショナリズムだと言ってしまうのは簡単です。でも個々人にとっては大事なものを守り抜くことに通じていたり、家族の期待を一身に背負い、それに応えた必死な生き方だったこともしっかりと認識しなければなりません。
良い悪いという一般論は抜きにして、戦時中、国のために戦った方達はやはり、親兄弟、妻、息子、娘のためだから死を覚悟できたのではないでしょうか。
だからボロボロになっても生きている限り人間は、自分のためだけでは生きられない、人との繋がりが生命線なのです。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】真夜中の弥次さん喜多さん 演出 天野天街
こんなに笑ったのはいつだったか思い出せませんが、次に同じくらい笑ったら、その時は「真夜中の弥次さん喜多さん」を観て以来だと思い出すことができるほどの演劇でした。
上映時間100分余り、次に何が起こるかワクワクしながら舞台に釘付けになりました。
まず設定が奇抜です。
時は江戸時代、弥次さんと喜多さんはホモセクシャルで愛し合っています。そして喜多さんは重度の薬物中毒(弥次さんは軽度の薬物中毒のようです)、だから二人とも自分が何者か見失っていて、また何が本当かがわからなくなって幻覚も見てしまいます。
そして、二人にとって江戸は「薄っぺらな街」でしかなく、どうやって生計を立てているかは解りませんが、それは置いておいて、誰もが持つ自分がおかれている今の閉塞感を打破したいと漠然と感じているところに、「お伊勢参り」の広告が出てきます。
薬物中毒から立ち直ることも含めて、全てを解決するのにはこれしかない!ということで旅に出ることを決めます。
一部屋の中だけの二人芝居です。
舞台は「お伊勢参り」に出る前の喜多さんの部屋なのか、旅の途中の宿屋なのか、時間も空間も意図的に明らかにされません。そして、観客にも時間と空間の区別がつかない感覚へと誘う演劇です。それを極上の笑いで巻き込むところがこの演劇の味噌です。
とにかく掛け合いもアクションもリズムが良いから乗ってしまいます。手品のように色々なところから小道具が出てきますし、照明と映像を駆使してもいます。
そして内容ですが、時間が戻ってしまう繰り返しのパートがいくつかあります。
短いパートは、部屋の畳にスイッチがあり、それを踏むと数分前に戻る現象が起きることを二人は発見します。そこで喜多さんは死の世界を見に行くことを思いつき、何度も自殺をします。シュールでブラックユーモアな題材ですが、あまりに辻褄が合わないことを合わせようとする姿とテンポ良く進む台詞で明るい笑いになります。この短いギャグをこれでもかと繰り返すのですが、ギリギリ面白さを外さない回数です。
また、大掛かりな繰り返しもあります。
弥次さんには見えて、喜多さんには見えないものがあるという設定で、アイフォンでうどんの出前を注文する所から始まるのですが、これが長いパートで、時間が戻る時点では見ている方はどこがこのパートの最初のシーンだったかがわからない位です。それで最初のパートで、本当の出来事なのか、喜多さんの幻覚か、または弥次さんの夢か、と注目していると、繰り返しが起きて、再度演じているパートは、ではそっちが本当なのか、それとも二人の幻覚なのか、と複雑な入れ子構造になっています。
でもそれがまた面白いから、次はどんな展開になるのかと身を乗り出します。
終始笑いが絶えないのですが、終わってみると二人が、馬鹿げた繰り返しをしてしまうことも、自分が何者がわからなくなっていたことも、薬物中毒だから二人がこんな男達なんだではなく、二人は何も特別ではないということにふっと気づきます。
空から下界を見ることができたら、多分我々の日常は弥次さん喜多さんとなんら変わりないでしょう。
そもそも自分が何者なんてわかっているつもりになっているのが私達です。そして自動反応のように毎日ほぼ同じような暮らしをしています。朝起きたら着替えて歯を磨き朝食を取る。たまの休みは演劇を観るかもしれませんが、日常はだいたい起きる時間も寝る時間も含めてやっている事は大体同じ繰り返しです。
弥次さんも喜多さんもちょっと前のことは覚えていないコミカルな人物ですが、これだって自分を振り返れば同じようなもので、昨日何を食べたかなんて思い出せるか疑問です。
そしてお互いに見えるものと見えないものが違うということだって、私達の物の見方と同じです。自分の主観で物事を見たり聞いたりします。認知的不協和もその好例です。
考えて見れば時間軸もあった方が便利だから人が作った観念で、生物は子孫を残すことが目的で死ぬまで日々繰り返しな生き方が当たり前です。
この演劇では、人間て面白可笑しく、そして愚かな存在だと鑑賞中感じていましたが、それが自分自身だということにちょっとショックではありましたが、でも人は日々の繰り返しに疑問を呈することができる進化できる存在であることに誇らしくも成りました。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】マハーバーラタ~ナラ王の冒険~ 演出 宮城聰
この演劇の大団円は、力強いリズムに乗せて、演者全員が揃っての観客を心強くさせてくれる圧巻の声明があり、体中の血が騒ぎました。ありきたりな言葉になってしまいますが、この大団円で感動しました。自然に瞼にも涙が浮かびました。
世界中の人が仲良くなることなんてできない現実がありますが、せめてこの演劇を観た人達は家族や友人にもっと優しくできるでしょうし、少なくとも私個人は「もっと仲良くしよう」と心の中で叫んでいました。
物語は東西南北の4つの国のひとつ、西の国のナラ王と、ダマヤンティー姫の婚礼から始まります。ダマヤンティーは人間界だけでなく、神様達も后に迎えたいほどの身も心も美しい女性です。けれど姫の心を射止めたのはナラ王で、失恋した神々までもが、この婚礼を祝福しています。
けれど嫉妬する者はいるもので、悪魔のカリはナラ王を許せません。
二人は二人の子宝に恵まれます。また、ナラ王の手腕で国も栄えている幸せの絶頂でした。カリはこの時点でナラ王を地獄に落とします。
ここからナラ王の冒険が始まるのですが、冒険はダマヤンティーも同じです。ナラ王は賭け事に狂って堕ちた自らを責め姫を実家に戻すために身を引きます。ナラ王はいつか姫を迎え入れることができるようにと泣く泣く姫と別れます。
森に残された姫も、体一つのナラ王も苦難の旅が始まります。
演劇はスピーカーという台詞を語る演者がいて、それに合わせてムーバーという演者が動きます。サイレント映画を立体にしたような感じを受けます。
そこにリズミカルな演奏が加わり野外劇場に木霊します。
衣装は全員がアイボリー一色の衣装を纏っています。劇場の背景は山ですから、自然の木々が目に入ります。薄暮になるに連れて衣装は照明に照らされて浮き出てくるように見えます。
この演劇は、ムーバーとスピーカーもしかり、衣装も本物とは遠くしています。また、衣装以外に白いトラや白い蛇、そして象徴としての鼻だけですが白い象が登場し、活躍します。それらを含めて自然の中に白い衣装が映えている様を見ていると異空間にいるような感覚になります。だから見えていない情景が見えてきて心を撃ちます。
ナラ王が森で姫と別れる時、姫の片袖だけを持ち去ります。姫といつも一緒にいられるようにです。目覚めた姫は王がいないことを悲しみます。
二人の演者はムーバーですから動きだけで表現します。スピーカーからの補助はありますが、あくまで観客は動きに注視します。
また、姫は森で蛇に食べられるという危機に合いますが、旅人に助けられます。けれどその旅人に今度は付け狙われます。王も裸一貫で流浪の旅です。
それらを簡単に見せるのですが異空間にいることで、二人の心中を探るのです。
またかなりユーモアを含めた展開なのも特徴です。日本語での言葉遊びもありますし、観客を巻き込むサービスもありますし、時事ネタも巧妙に入れています。
そんな楽しい演出とリズムに乗ってクライマックスへと進みます。
ナラ王は自分の一番の得意技の馬術を駆使して姫を迎えるチャンスを得ます。それは同時に国を失った賭け事はカリの策略であり、カリに憑かれていたことが原因であり、カリに憑かれることを拒むことにもなります。
この物語は、あきらめないこと、準備しておくことのメッセージが込められています。そして最も発信したいことは、信じることです。
王はいつか姫を迎えようと心に決めていました。それと同じく姫も王が迎えに来ることを信じていました。王は醜い姿に変えられていましたが、姫はその姿でも王を見極めることができます。王の迎えを信じて疑わなかったからです。不安な日々を過ごしていたはずですが、不安と信じないは別です。
不安だけれど信じていられるということは、王を想う気持ちの強さです。当然同じほどに王も姫を愛していました。
だからこの演劇は、純愛物語でもありますし、大団円で感じた印象は、二人の純愛物語を下敷きにした世の中を愛する気持ちを持ちたいという愛の演劇であったと私は想っています。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】ファウスト第一部 演出 ニコラス・シュテーマン
すごい演劇を観た。というのが鑑賞後に浮かんだ言葉です。
主要登場人物は、ファウスト博士、悪魔のメフィスト、ファウストが一目ぼれするグレートヒェンですが、役者3名がこの3名の人物を固定しているわけではなく、3名が時にファウストを、時にメフィストを、時にグレートヒェンを演じます。主な受け持ちがありますが、固定されていません。
ファウストという人物は、またグレートヒェンの苦悩の内は、ということを、縦横無尽に役が入れ替わることで観客は固定された人物からの受け入れを拒まれます。
人は置かれた立場や状況や、誰と対峙しているか、またその時の本能を含めた欲求で、様々な気持ちになり態度を変えます。それを現しているようです。
多くの方々がファウストを世に出しています。その数だけの解釈があります。この演劇ではファウスト博士が直情な人物として描かれます。学問を修めた達観な人とは少し趣が違います。嫌らしいメフィストに近いとも言えます。
だからファウストは欲望ゆえに堕ちていくのではなく、自分と戦っている人物像に映ります。これは投げ掛けで、個人的には自己の内を見せられている気分です。
それは理屈を優先させている前半の台詞にも大きく現れています。
また冒頭にドイツの演劇は何でもありと宣言して始まり、徐々にそれが露になりますが、ここも私が心の内を観るということを感じたことに繋がってきます。
だから、鑑賞は心を抉られるような体感になります。
しかしそれとは間逆な美しいソプラノが奏でられます。
この演劇は人間性の否定ではないとも感じる瞬間でした。
またメフィストはグレートヒェンに絡まるように体を接します。悪魔ですからメフィストはグレートヒェンの目に見えることもあり、姿を見せないこともあると解釈しました。体を絡める時は見えないときでしょう。でもそれでもグレートヒェンはメフィストを嫌悪します。
ファウストを愛しながら友人のメフィストを嫌うのは、姿を現さない時の嫌らしさを感じ取っているからですが、ここも人への言及で、人が人を観るのはその人の存在そのものであり、言葉や行動ではないことを強調しているかのようです。
3者が3役に別れる演出と素晴らしいソプラノだけでなく、補完のための映像が時折挟まれるのも特徴的でした。
役者の演技も含めてかなり高度なことが盛り込まれていることを強く感じます。一度では捉えきれないことが多くあったことが残念なほどです。
だから鑑賞後に浮かんだ言葉が“すごい演劇”だったのだと思います。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン エンリケ・バルガス
死生観は歳により変わります。
子供の頃「死」を考えるだけで震えるほど怖い感覚に襲われたことを覚えています。
では今は?
この演劇は体験型という今までに経験したことがない演劇でした。
短い時間ですが、生から死までを疑似体験かなと私は感じました。
だから今現在、自分が持っている死生観を自分でみる体験でした。
「死」は怖いことは今も変わりません。
でも昔ほどではなく、歳を重ねて仕方のないものという感覚になってきていて、
そして、「死」は“嫌”という意識があることをこの演劇で感じました。
“嫌”というのは怖いや存在がなくなるからくる嫌ではなく、
大切な人との繋がりが切れてしまうことからくる感覚です。
「よく死ぬために」の課題はそれを踏まえて生きることだと、
あの空間で思索していたことでした。
追伸
5/5は「立夏」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「立夏」の直接ページはこちら
立夏
【いもたつLife】
2014年4月の治作
先付
ミルガイ、ウルイ、ワカメ、ネギ、アスパラの辛子酢味噌和え
さっぱりしていて、味わいふかく、辛子がアクセントで
美味しいです。
どれも歯ごたえがシャキシャキしていて、辛子酢味噌と合っています。
桜葉とジャコの飯蒸し
揚げたジャコの歯ざわりと、蒸したご飯のコントラストも
楽しめます。
桜葉の香りが名残の春を感じます。
もったいないからちょっとずつ食べました。
もっと食べたくなるご飯です。
お造り
ヒラメ、アカイカ、トリガイ、マグロ、ウニ
アカイカ
やわらかいけど、食べ応えある食感、イカの甘みがたっぷりです。
ヒラメ
これも食感が良いヒラメです。
そして旨味も十分で酒がすすみます。
ウニ
治作のうは本当に美味しいです。
くさみは全くなしで、これぞ海の旨さという感じです。
トリガイ
こんな美味しいトリガイは初めてです。
磯の香りとこれも程よい硬さと肉厚の噛みしめる食感です。
噛みしめて海の味が出てくるトリガイです。
赤身
マグロは偉大な魚だと思えてきます。
キメの細かい赤身で、噛むと美味しい肉汁が溢れます。
中トロ
こちらはうまさを主張してきます。
堂々たるあじわいです。
蓬のくず豆腐と蕗のお椀
山椒とクチコが香りのアクセントです。
もちろんクチコで酒がすすみます。
蓬豆腐は絶妙の歯ざわりと胡麻豆腐の胡麻が効いた蓬の甘さがあじわえます。
治作胡麻豆腐の蓬バージョンのお椀と言うー贅沢な一品でした。
八寸
アボガド、明太の筍
4月の治作の定番。
筍とアボガドの旨さと明太の辛さ、どれも引き立ちます。
筍の風味がしっかりあるからこそです。
鯛の白子
これはストレートに肝を味わえます。
酒好きにはたまりません。
これも雑味が全くない素直で力強い味です。
食べるほおづき
酸味がほのかで、甘い口直しです。
新レンコンと新ショウガの白和え
レンコンもキヌサヤもシャキシャキです。
ショウガが控えめに効いてるのがまた良いですね。
白和えが基本的な味で山椒の実のアクセントがあり
全体がまとまっています。
海老が入っていて、これも白和えと合っていました。
蛸のやわらか煮
これも治作の絶品です。
やわらかいのだけれど、歯ごたえがあり、
蛸の美味しさはしっかり引き出されています。
大根が蛸の美味しさをしっかり受け止めているので、
二度美味しいです。
わさびの茎の酢漬け
これも流石です。
わさびの風味を活かした酢漬けです。
箸休めではない立派な料理です。
焼き物と煮物と揚げ物
甘鯛の唐揚げ
甘鯛は毎回注文しますが、今回は唐揚げです。
頬肉の火の通りが丁度です。眼肉も。
鱗が食べやすくなっています。
赤ムツの煮物
付け合わせのゴボウが絶品です。もちろん赤ムツも。
上品な肉を活かす甘しょっぱい上品な味付けです。
牛の焼き物
やっぱり肉も美味しいと思わせてくれる牛肉です。
一切れ食べて、これで満足を得られる凝縮した肉です。
やわらかさが食べやすさを演出して、
旨味を程よい焼き加減で演出しているとう料理です。
筍焼き
治作名物の筍のオイスター焼きです。
筍を満喫する方法はたくさんありますが、
これはさいゆよくの一品です。
筍の野趣がそのままに旨みを味わえる名物料理です。
筍の根に近い部分が潜在力があるから、それを引き出す素晴らしい料理です。
そーめん
今日の料理は、素材の旨さの要素一つの歯ごたえ感を色々な形で満喫させてくれました。
ベースにはもちろん治作の基本的に高品質があるわけですが。
そしてそーめんです。
今日の料理にはこれしかないです、
一気に食べてしまいました。
デザート
葛切りも歯ざわりが楽しめます。
自家製の黒蜜が優しい甘さです。
濃いタイプとあっさりタイプの二種類を出してくれました。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】真夏の夜の夢
演出 宮城聰 作 ウィリアム・シェイクスピア 潤色 野田秀樹
人はとかく物事を曖昧なままにしてしておきたいものです。
人は基本的に怠惰ですから、決めないことで責任が生じないことを選び勝ちです。それに曖昧にしておくと夢見がちでいられます。
「真夏の夜の夢」は、主人公の“そぼろ”が自分の心の奥、自分では気が付いていない自分の本音の部分を知る旅の物語ですが、自分の心の奥にある本心が何かなんて、曖昧にしておきたい最たるものです。
老舗割烹料理屋のハナキンの娘“ときたまご”は四日後に結婚式を控えています。相手は父親が決めた板前のデミですが、別の板前のライと相思相愛です。どうしてもライと一緒になりたいそぼろは、ライと「知られざる森」へ駆け落ちをします。幼馴染のそぼろにだけそれを告げました。そぼろはデミを慕っていたことから、駆け落ちのことをデミに伝えます。ときたまごを追うデミ、そのデミを追うそぼろ、4人は知られざる森で不思議な体験をします。
知られざる森は、妖精たちが棲む森でした。ちょうどその頃、オーベロン王とタイテーニア女王は、拾った赤ん坊が原因で夫婦喧嘩の最中でした。オーベロンはタイテーニアを意のままにするために妖精パックに惚れ薬を取ってくるように命じます。早速パックは出かけますが、途中で悪魔メフィストに捕まります。パックに化けたメフィストはオーベロンやタイテーニア王を騙した上に、二人からの依頼を受けて契約を取り付けます。この契約が破棄される時には人間の憎悪が増幅するというものでした。
ときたまごは、ライからもデミからも愛されています。それに対してそぼろはデミを愛していてもデミには嫌われています。森でデミを追うことすらデミに嫌がられるそぼろですが、ひょんなことから惚れ薬の効果でデミにもライにも突然愛されることになります。それを戸惑うそぼろです。
知られざる森とは、人間がそこに迷いこんで不思議な体験をしても森からでる時には人間は何も覚えていないことから名付けられました。そしてここには人が置き忘れたものがたくさんあります。
この森に棲む妖精は逆隠れ蓑を着ない限り人には見えません。だからここで起きたことは人は気のせいだと思っています。この演劇では気のせいは「木の精」という定義です。そして、「人は見えないものは信じない」ということもキーワードです。
私は、知られざる森はそぼろの深層心理で、表層から深層へとそぼろが辿っていく物語だと思いました。
迷い込んだ4人の若者達は表層の意識の中で、惚れ薬によって愛する人を代えてしまいます。そこは表層に近い願望です。
メフィストはそこから一歩踏み込んだ自分が知りたくない自分を知る案内人であり、そぼろが持つ悪の感情そのものでもあります。
そして、オーベロンとタイテーニアをはじめとした妖精は悪の感情のもっと奥の善意であったり生きる知恵で、森自体が奥深く広いそぼろの深層意識を現していると捉えました。
ライとデミは最初の惚れ薬でそぼろを愛し、ときたまごを憎みます。でもそぼろは、二人は自分を愛しているそぶりをして茶化していると思い込みます。
「人は見えないものは信じない」逆に言えば見えるものを信じるということです。愛を叫ぶ二人の男は見えるものですが、そぼろはその見えるものを信じませんでした。
だから、実は人には見えないものを信じる能力があるのです。しかし注意深くその能力を封じています。何故なら自分の本音に近づくからです。これはまだ序章で、この物語はこの程度の旅で終わりません。
ライとデミの二度目の惚れ薬ではなんと、二人が愛しあうことになります。それを解消するためにはメフィストの契約を破棄しなくてはなりません。契約破棄をすると、二人は憎み合い争いを始めます。これもそぼろの心です。デミを愛しているし愛されたい裏にデミを破滅させたい、また、ときたまごと上手くいっているライやときたまごに対してのルサンチマンです。
まだ続きます。メフィストはそぼろに言います。「言葉にしなかった言葉(飲みこんだ言葉)がこの森にはたくさんある」と。飲みこんだ言葉はその人の本音です。そして人に知られたくない自分だけが知っていると思っている感情です。一見、言わなかったことは他人には伝わっていないようですが、実は他人も気づいています。「人は見えないものを信じる力」がありますから。
これに関しての問題は、自分の悪の感情は他人には気づかれていないだろうということを自分に言い聞かせていることです。
メフィストが全部知っていたのと同じように他人も意識しないだけで知っています。ただお互いにそれを曖昧にしていたいので、言う側も言われた側も意識しないようにしがちなのです。
物語は、そんなそぼろの飲みこんだ言葉が森で具現化していきます。まさにそぼろの悪の感情が森に火をつけて森は焼き尽くされていきます。そぼろは自分の奥にある心がどんなものだったかを目の当たりにするのです。
そしてメフィストはオーベロンとタイテーニアの夫婦喧嘩の原因になった拾われた赤ん坊だったことも明らかになります。メフィストはそぼろ自身でもありますから、森に火を放ったのはメフィストであっても、焼き尽くすのはそぼろの奥の奥にあった本心であり、そぼろの心の叫びです。
でもこれは誰しもが生きてきた中で抱える、悲鳴をあげたい鬱屈した感情です。
この演劇は壮大な森を想わせるセットですし、衣装も楽しませる凝りようだし、音楽も照明も心を浮き立たせます。軽妙な言葉が飛び交い、また洒落の効いた言葉も飛び交う喜劇として楽しめますが、「あたしの精」「目が悪い精」「耳が悪い精」「年の精」等の登場人物の役名といい、これらの言葉を含めて少々毒がある言葉が台詞にも使われているので、一筋縄ではいかない喜劇だという感覚になります。
案の定で、そぼろを自分に置き換えて劇を観ると、逃げ出したくなります。自己の心にある嫌な部分が見えるからです。そして普段は、常にそれを見ないようにしていることも明らかにされるからです。
でも最後は、メフィストの涙で森の火が収まります。森を鎮めるメフィストの涙ももちろんそぼろの心の現われです。心の奥には悪意や悲しみだけではないし、人は悔いることも出来て純真な気持ちをいつでも持つことができることの表現です。
だから、嫌な部分を含めてもあなた自身には価値があると言ってくれているようでした。
自分の心の奥にある本心は、綺麗ごとだけではありませんから、日常で意識していることとは往々にして異なるものです。だからそれを観にいくのはあまり気が進みません。
けれどそれを観てそれを受け入れるのは大事なことです。普段意識していない自分の心を含めて自分自身なのですから、それを踏まえないと成りたい自分になんてなれるわけがありません。また、それを認めると自分にも他人にも今よりも優しくなれることも間違いありません。
演劇「真夏の夜の夢」は、本当の自分を観る勇気を与えてくれます。
【いもたつLife】
2014年3月の治作
若狭のワカメ
今晩は春がテーマでしょう。
香りがとても良いです。
生湯葉とウニのべっこうあんかけ
生湯葉もウニも、どちらも余韻が続く上品な甘さで、
相性抜群です。
噛みしめるように美味しさを感じます。
稚鮎ご飯
春を先取りです。
ほろ苦いのがこれほど美味しいと感じるのは、
この料理ならではです。
身のほろ甘さとごはんの旨味、そして絶妙の塩加減です。
お造り さより、 ミルガイ、アカイカ、ヒラメ、マグロ
ミルガイ
歯ざわりと瑞々しさ、そして磯の香りと貝の甘みです。
ここで青海苔、これだけでもご馳走です。
アカイカ
イカの美味しさはもちろん、とろけるのです。
食感がそんじょそこらのイカとは大違いです。
ヒラメ
浦島太郎もこういうヒラメを食べてたから、
竜宮城に居残ったのでしょう。
さより
これも今晩のテーマの春です。
瑞々しい美味しさです。
マグロ
トロける中トロです。
赤身のうまさにトロを足した味です。
お椀『 蛤しんじょと筍のお椀』
はしりの筍を食べることができるだけでも幸せです。
まず香りの心地良さに惹かれます。
春ならではの木の芽の香り。
そして最小限の味付けだからこそ筍と山椒とこごみの風味が活きています。
そして蛤しんじょの力強く上品な味と汁を飲む。
至高ですね。
八寸
ホタルイカとアサリと九条ネギと浅葱のぬた
味付けが素材の良さを引き出しています。
単品でも惹かれる味付けで、
一緒に食べるとこれがまた美味い。
春菊とカシューナッツの胡麻和え
これも春です。ほろ苦さと香ばしさが前面、奥にコクがあります。
ここで、
大根とカラスミ
大根も瑞々しい!
カラスミはヤバイです。
アオリイカのワタ和え
これもヤバイです。
全部食べたら菊姫が無くなります。
イカの身がイカのワタと最高にマッチしています。
鯖のたまごの煮こごり
珍味です。
生姜を効かせているので、鯖のたまごの食感と魚らしい味が
すんなり味わえます。
煮こごりの甘みが足されて、これも酒がいくらでも進みます。
イイダコのやわらか煮
今回はタコの頭入り。
臭みは全くなく、ほろ甘さがあります。
大根はたっぷりとタコの味付け、
タコ自体はタコらしい食べ応えです。
上手いのは言うまでもありません。
胡麻豆腐
これだけでは足りないほど、もっと食べたい。
治作の胡麻豆腐は、素材をどう活かすかのお手本です。
焼き物
太刀魚
上品でありながら野性味もあるのが太刀魚で、
それをいかんなく引き出している
焼き加減と塩加減です。
そしてとても食べやすくしてくれています。
この気持も料理の一環です。
煮物
赤むつ
魚好きにはたまりません。
身も肝も眼肉も頬肉も口まわりも、
その味を引き立たせています。
出てきてから食べ終わるまで一気です。
貪りつくように食べました。
野菜炊き 甘鯛の蕗味噌あんかけ
野菜がたっぷりです。
しかもひと仕事有りの野菜で、甘鯛と野菜の旨味が封じ込めれた
お椀のような美味しさの料理でした。
治作の新しい看板料理に発展するかも。
へしこ茶漬け(写真撮り忘れ)
へしこの美味しさを追求した結果です。
へしこを中心に何を加えたら、へしこのうまさを損なわないかです。
梅、浜納豆、三つ葉・・・それらの脇役がちゃんと仕事をしています。
ちゃんと仕事をさせているのです。
水菓子 ブドウとグレープフルーツのゼリー
これも春でした。
味の演出が春なのです。
スッキリと後味がする春の料理の締めくくりにふさわしい
ちょっと苦味が優しいグレープフルーツと、
ほろ甘いブドウのデザートでした。
追伸
3/21「春分」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「春分」の直接ページはこちら
春分
00,h
【いもたつLife】