Foodex2014
今年もフーデックスに行きました。
勉強のために焼酎の試飲と唎き酒に挑戦しました。
普段日本酒(菊姫)ばかり飲んでいるので、
焼酎の魅力を堪能しました。
その他には、輸入物が原材料から、半加工品、加工度が高いものというように、
同じ素材でも細分化されて輸入されている傾向が高いと感じました。
それ以外には、商品化において女性主導の商品が一段と増えているのも感じました。
【いもたつLife】
今年もフーデックスに行きました。
勉強のために焼酎の試飲と唎き酒に挑戦しました。
普段日本酒(菊姫)ばかり飲んでいるので、
焼酎の魅力を堪能しました。
その他には、輸入物が原材料から、半加工品、加工度が高いものというように、
同じ素材でも細分化されて輸入されている傾向が高いと感じました。
それ以外には、商品化において女性主導の商品が一段と増えているのも感じました。
【いもたつLife】
著者が映画を語るということで、もちろん野球との絡みもあるだろうということで、
手に取りました。
他の著書でも感じていましたが、著者は野球に対して非常に真摯です。この著書でもそれが窺えるのですが、映画を通しているところが面白いところです。
著者なりの映画観は同じ映画好きとして共感できる部分とそうではない部分がありましたが、著者が「映画は自分が面白いと思えば恩白い」ということは大いにうなづきます。
また映画は成功の娯楽だと、再三再四言うことも同意で、楽しく読ませてもらいました。
出版社の要望もあり、映画と野球を絡めての部分も随所にあります。
それらは、野球と映画が通じるものがあるということをただ書いているのではなく、
どちらの事象でもその奥を探る思考の末、通じるものとそうでないことがあることを示しています。
著者は野球のことを深く深く考える人というのは相変わらずですが、野球だけに留まらない人だとわかります。
しかしそれは当たり前で、常に物事を深くとらえるから野球でもということなのです。
だから、著者が常に考えているのは、自分の生き方なのでしょう。
後悔しない人はいないでしょうけれど、著者はそれを出来る限りしたくないし、しないようにしています。
たまたま生涯の仕事が野球になっただけで、野球以外でも偉大な足跡を残せたでしょうし、それを支える普遍的な著者の考え方を知ることができる本でした。
【いもたつLife】
世の中には凡人には想像もできないほどの、
膨大な量を読破していく人がいます。著者もそのひとりです。
著者の「本」についての向き合い方と、「読み方」そこからの人の生き方、
そしてお勧め本の紹介でした。
本はキョーヨーを養うのに必須で、受身の読書から、攻めの読み方にすることで得られるものが違ってくることと、とにかく訓練、量稽古が肝要です。
また、私が一番印象に残ったのは、「著者の土俵を自分の土俵に変換していきましょう」です。読書は自分を鍛えること、そして真実を観る眼を養うことという著者の想いが詰まっているところです。
また全体を通して、著者の生き方がにじみでているのも好感でした。
【いもたつLife】
春の酢の物
うるい、ハマボウフウ、みる貝、蛸の吸盤の酢の物です。
春の香りのハマボウフウを、控えめな酢が引き立てます。
みる貝の甘みと蛸の食感も楽しめます。
お椀
白味噌仕立てのお雑煮。
とっても綺麗なお雑煮です。
京芋、京にんじん、京大根、めかぶ、
香ばしく焼いた餅、肉厚のエビです。
上品な味わいと、
アクセントの辛子がきいて後引くお雑煮です。
お造り
マグロ、ヒラメの昆布締め、水蛸、アオリイカ
細かく包丁が入ったアオリイカは見栄えも良くなり、
ねっとりした食感もより味わえます。
水蛸は蛸好きにはたまりません。
足の太いところなので食べ応えもあります。
ヒラメの昆布締めは旨味もましますが、
食感も変わります。
舌にまとわりついて美味しさを残します。
きめが細かいマグロです。
これもマグロ好きにはたまりません。
菊姫 特選純米がすすみます。
腐乳ご飯
この料理も芸術です。
腐乳の旨味、蛤の旨味、アクセントに山椒、
それらを受け入れて控えめなな主張の餅米、
至福です。
八寸
かぶら寿司、カラスミと京大根、黒豆、ふきのとうの胡麻和え、
アオリイカのワタ焼き、ナマコの柚子酢、春菊・蓮根・クルミ・三つ葉の胡麻和え、
アオリイカのゲソ・九条ネギ・ヌタヤ貝のヌタ。
ネギと辛味がアオリイカとヌタヤ貝の美味しさ引き出します。
野性味を上品に仕立ててあるナマコ。
春のほろ苦みが堪能できる、ふきのとうの胡麻和え。
胡麻和えは食べていて安心感溢れるあじわい。
ワタ焼きはイカのワタが如何に美味しいか満喫です。
かぶら寿司はブリの食べ方として技ありです。
京大根でひと息ついてカラスミでまた菊姫 特選純米がすすみます。
プロの技の黒豆で舌鼓して、
もう一度八寸で酒を飲みました。
焼き物4種
牛ステーキ
本日の治作おすすめの一品。
優しいけど奥に野性味があります。
滅茶苦茶やわらかくて、うま味も豊富で大満足です。
鰆の西京漬け
鰆は料理しがいがある魚ですが、
この西京漬けはベストに近いです。
余すことなく引き出すという言葉がピッタリです。
太刀魚
こんなに肉厚の太刀魚は初めて見ました。
それをふわふわに焼き上げています。
太刀魚は美味しいとわかっていながらそれを超える美味さでした。
甘鯛
これは欠かせません。
いつも骨までしゃぶります。
この甘鯛に申し訳ないほどに
甘鯛のたくさんの部位の美味しさをしゃぶりました。
かぶら蒸し
熱々のかぶら蒸しです。
かぶらと百合根と甘鯛が相乗効果です。
春の料理と冬に体を温める料理を出してくれる優しさも味わいました。
スッポン雑炊へしこのお茶漬け
スッポン雑炊は冬を乗り切る料理、
へしこのお茶漬けは春を感じさせる味わい、
なんと贅沢なんでしょう。
黒豆のお汁粉
今回は、お正月と春と、王道の冬の味覚を盛り込んだ料理でした。
その締めくくりにふさわしい
なめらかな口当たりが良い上品なお汁粉です。
金箔はあけましてはおめでとう演出してくれていました。
【いもたつLife】
太平の時代に『武士道』を貫いた赤穂浪士、忠義を尽くし主君の仇を討つその舞台裏を、独特の解釈で描いたこの忠臣蔵は、牙を失った武士でも大儀を成していけることを示唆しています。
それは同時に、平和ボケ、飢えも知らず、国に頼ることを恥じない風潮、都合が良い生き方が許される社会、そんな現代人でも大事を成せることへの希望が込められていました。
ただ、劇全体を包む喜劇性は大事にたどり着くことは容易ではないことも感じさせています。
劇は家老の大石内蔵助と6名の宮仕えの侍達による、藩と自分達の今後の身の振り方を決める場面が主です。浅野内匠頭が吉良上野介を江戸城内で切り付けたことで即日切腹、吉良はお咎めなしの報を受けた直後です。
篭城か、開城か、おとなしく他への仕官を求めるか、忠義を尽くして切腹か、はたまた吉良を討ち取るか、喧々諤々です。
喧々諤々の中身が洒落ています。保身と打算に感情論、日和見に、思いつき、そんな卑しくも正直な気持ちの大前提を踏まえての議論は、「幕府の理不尽な裁定と、それに対する抑えがたい武士道精神」という構図は微塵もありません。
そして主君の死さえもひとつの出来事として相対的に捉えて、淡々とクールに自分達の今後を面白おかしく憂う姿は、傍からの印象であって、当事者達は真剣そのものの本音です。
主君の無念を晴らす仇討ちは確かに大事で、もちろんやり遂げたい、でもその大儀で自分はどうなる、家族はどうなる、そもそもそんなことが現実的か。
ならば無慈悲な幕府の言いなりになるのか。篭城で自らの身を守りつつ憂さを晴らすのか。それも嫌だし、それを認める自分を許せない。
そんな本音が無自覚でも確固たる意志として議論されます。それを現代的な演出にして上質な喜劇に仕上げています。
「関が原から100年経った今、我々は武士道はなんなのか見失っている」という台詞があります。『武士道』を背負っているのが武士だという幻影が、武士とはこうでなければならないという価値観を無視できない状況を作り、それに縛られた姿を見せています。
巷の忠臣蔵ではこういった気概の浪士達を賞賛しています。それも人が持つ普遍性であるから、忠臣蔵が今も皆が求める物語足りえるのですが、赤穂浪士全員が足並みそろえて討ち入りに向かっていったということはありえません。この仇討ちが美化されているとまでは言いませんが、案外この忠臣蔵の侍達のやりとりのようなことから討ち入りが出発していたとしても不思議ではありません。
赤穂浪士の行為の聡明さや一途な精神はこの事件後の後付の評価です。事件から300年、多くの見解があります。平田オリザさんや宮城聰さんも自分の思惑として(強調しているとしても)、こんな顛末があっても良いと考えての演出には私も共感します。
ただ「こんな顛末があっても良い」の奥には、侍達が真摯に藩に向き合っていることが絶対条件です。それは真面目な仕事ぶりと、結果的には可笑しくなるけれど真面目な会話で表現されていました。そして、飄々とした内蔵助の中に実は武士道精神が潜んでいるからこそ忠義が実現したということも、この劇で触れているというのが私の解釈です。(これは劇中の内蔵助の遊びの衣装での振舞いと最後の釣りのシーンからです)
この忠臣蔵は、討ち入りを決めるまでの議論を見せています。
吉良を討ち取ることが侍達の総意であり、固い意志であり、だから成しえたという物語とは全く違った、そんな想いとはかけ離れた遠いところで討ち入りが決まっていったという喜劇です。
だから、この劇の後日談として吉良が討ち取れたと仮定すると、侍達は最初は出来るかどうかは半信半疑で、仕方なしに内蔵助について行ったら事を成しえたということになります。
しかもその時の四十七士はエリートばかりではありません。なにしろ劇中の議論で決まったことは、「他の大名に仕官したら無理に討ち入りに参加しなくても良いよ」という内容で、これだと優秀な者ほど抜けていきます。でも行き場がなくなった必死の者が残るというのがメリットともいえます。(劇中に仇討ちを成功させて、助命を受ければ士官の先は引く手数多というシーンがあります)それにしても現実的ではありません。
でも大儀が適います。
その、“結果成しえてしまった”という所が、この忠臣蔵が、牙を抜かれた闘争心に欠けてしまった現代人にも、大儀を成すことができるという賛歌だと思うのです。
もちろん相応の努力が前提になりますが、揺るぎない決意がなければ出来ないのではなく、外堀を埋めるかのように粛々と環境を整えることで、いつのまにか出来ていたというのが私達が事を成せる本来なのです。
でも繰り返しますが、勤勉であること、力を蓄えていることが前提です。
この忠臣蔵においても結果大儀を成し遂げたとしたら、偶然に任せたとはいえ、容易ではない事です。
ここには、喜劇仕立てにして敢えてそれを匂わせないけれど、どんな世でも「自らが欲することは、自らが備えていた分だけが適う」ということと捉えました。
そう捉えるのは私の心の癖かもしれませんが、この演劇も真実を語っていたと強く感じますからあながち外れてはいないと信じています。
【いもたつLife】
ちょっとした体の変調に、
「いつのまにか病名を付けられ」「直らない薬を飲み続ける」
こんな馬鹿なことがまかり通っています。
アメリカが決めた基準で精神疾患者とされて、
アメリカが世界各地で正義の押し売りをしていることを事細かく4章に渡って解説されています。
1、 香港の拒食症
2、 スリランカの津波被害者のPTSD
3、 ザンジバルの統合失調症
4、 日本のうつ病
これらは皆、アメリカ発の余計なお節介で生まれた本来なら病気ではない、
または、アメリカが決め付ける病気ではないものばかりです。
もちろん余計なお節介を焼くのには訳があります。
日本の例はそれが一番わかりやすいでしょう。
急速に増えたうつ病患者はすべて自発でこれほどまでの患者数になっていることはないことは、自明です。
もちろんストレス社会であるからこそ精神疾患者が増えているのですが、
それを良いことに病気と、それを直すための直らない薬の輸出をしています。
形を変えた侵略に思えて仕方ありません。
【いもたつLife】
人の尊厳への問いと、現代社会への風刺と警告、そして人が生きるために不可欠な愛し愛される愛の物語ですが、私が感じた一番のことは、『自分を偽らなくても良いよ』という許可を得る演劇でした。
劇中劇が終焉に至る時に、あの完璧な存在とされたアングラマインでさえ自分を偽っていたことに衝撃を受けたからです。
物語は、二重の螺旋構造で進みます。
主人公達のサーカス団は、人びとから必要とされていないことからの行き詰まりに直面しています。唯一打開できる選択はスポンサーである化学工場の広告塔となることですが、その条件は団員の一人である障害者のエリを排除することです。何故ならエリは化学工場の責で障害を負ったからです。
団員達が明日からの糧の確保を選ぶことで失う代償は、一生消えない自らの品位を落とす行為です。
そんな差し迫った現実の中でもエリは無邪気にピエロのジョジョに物語をせがみます。優しいジョジョは、エリと自分との愛の物語を作り聞かせます。この劇中劇がサーカス団の現状と彼らが下さなければならない決断への葛藤の様になっていきます。
劇中劇はエリ王女とジョアン王子の物語です。“明日の国”の王子ジョアンは、大蜘蛛アングラマインに国を奪われます。ガラスの城にいるエリ王女は、魔法の鏡カロファインが映すジョアンに恋します。エリ王女は城を出てジョアンの下に行くかを悩みます。何故ならエリ王女は、ひとりでガラスの城にいる限り、何の不自由もなく、しかも不老不死だからです。ジョアンを探すことは、人としての苦悩を背負うことになります。しかもジョアンと相思相愛になれるかも、そもそも出会うことができるかもわかりません。
でも、エリ王女は城をでます。
現実世界では団員達がエリを捨てるかの選択を迫られます。何故捨てない選択に躊躇してしまうのか、それは捨てなければ生きられない強迫観念が襲うからです。たしかに経済的には苦しくなってしまうのですが、そんなものはあくまで虚構です。現代人はあまりにも物質に頼り過ぎてしまいました。生活する上で必要でないものまでが、無ければならないと教育されています。それは他の人達が持っているから?あれば安心だから?それはあくまで表層的な理由です。本質的な理由は、心を満たすために人と触れることを避けようとすることです。モノがすぐに手に入るのをいいことに、物質で心を満たそうとする行為です。その方が簡単だから。そして、これも自分を偽る行為です。
こういう現代社会の構造は、アングラマインが支配する明日の国と同じです。明日の国では人は蜘蛛の巣に手足を縛られて生きています。その姿は無駄を捨てること、効率こそが優先されるべきであるとされること、そして人がそれに合わせるものだという社会が作り上げた幻想概念で縛られていている我々の姿そのものです。
しかも劇中劇のエリ王女もジョアン王子もアングラマインにより、過去の記憶が消されていました。私達は本来の喜びを想像できる力があることすらも封印されていることの暗喩です。
物語は、サーカス団がギリギリの選択を迫られて、にっちもさっちもいかなくなる境界線に追い込まれた時に、新しい展開になります。
障害者のエリはエリ王女だった。ピエロのジョジョはジョアン王子だったことを、二人は愛し合っていたことも想い出し、現実世界から劇中劇のアングラマインが支配する明日の国へと足を踏み入れます。
この展開ももちろん、現実世界でサーカス団が化学工場とどうやって立ち向かうかの決断への葛藤に繋がります。
それにしてもミヒャエル・エンデは人の愚かさを認めながら、崇高さも信じているようです。エリは知的障害者であり、ガラスの国の王女です。ジョジョもピエロであり、勇敢なジョアン王子です。どちらかではありません。どちらも彼ら自身です。
この社会では人が持つたまたまの一面だけでラベリングすることが行われています。それは愚かな暴力であり、それが発動されている世を嘆いているかのようです。
その後演劇は、エリとジョジョがエリ王女とジョアン王子に戻り、サーカス団員と共に“明日の国”を奪回するためにアングラマインに戦いを挑みます。観客は二人と彼らの活躍を期待する場面です。
しかしアングラマインの下に行く前に大きな谷間ができていました。谷間は彼らを阻みます。この谷間はアングラマインが作ったのではなく、ジョアン王子の意識でできたものだと明かされます。ここもエンデの皮肉です。弱者にも過ちがあるのです、強者は過ちだけではないのです。
ジョアン王子は「愛と自由と創造」でアングラマインを倒します。ここでもう一度現実に戻ります。エリとしてジョジョとして、サーカス団も化学工場の要望を受け入れなければ明日がないこの演劇の振り出しの現状へ戻ります。
アングラマインをやっつけたって、もちろん何も変わっていません。
でも団員全員の意志で、化学工場との契約書を破り火にくべます。後を絶ちました。絶望を選んだようにも見えます。彼らの目の前は苦で満ちたことを暗示させて幕になりましたから。
彼らが何を選んだのかは明白です。“偽らない自分”を選んだのです。その時に彼らは自由を得る体験もしました。たとえ目の前に迫る現実が物質的な困窮から逃れても、自分を偽る限り自由は得られません。逆に自由を得ても困窮という状況は何も変わりません。しかし今まで持てなかった希望を得ることができます。
絶望の中では希望を持てないのではありません。絶望と希望はどちらか片方しか存在しないのではないのです。
“自分は何者か”そこから逃げないことが生きる根源で、生きている証なのです。
【いもたつLife】
「一人の平凡人の長所が、どうして一人の罪人に対しては不利な圧倒的な証拠になりうるのか」
「ひとはいつも、知らないものについては誇張した考えをもつものだ」
主人公ムルソーが何故銃を撃ったのか
「それは太陽のせいだ、といった」
ムルソーは己を客観視しています。
何故なら、彼がかかわるあらゆる人との関係が、あまりにも虚飾だけだから。
彼は聞かれたことに対して、それ以上でもそれ以下でもない本心を話すと、
答えられた方が戸惑うことが最初から最後までこの小説に詰まっています。
聞き手はいつも答えて欲しいことを答えて欲しくて聞きます。
御大層に大真面目に。
ムルソーはそんな世界と決別したかったのかもしれません。
たとえば災害に合った時、
もし一人ならすぐに逃げる行動をとります。
もし十人でいたとしたら、一番遅い十番目の人に合わせて逃げることになるでしょう。
社会が機能している状態というのは、そういうことです。
不条理であることを、『そんなことはない』と全員で大合唱しているようなものだということを、改めて強く強く感じたのが率直な感想です。
もちろん常日頃私自身もそれで社会からの恩恵を受けています。
でもそういう仕組みであり、
そういうルールであることは心得ていなければなりません。
【いもたつLife】
心が通じていない者同士の間では、言葉なんて無意味で通じないもの。
心が通じている者同士では、言葉なんていらないもの。
だとしたら、言葉は単なる伝達の機能しか持たないものなのか、でも人は時に言葉を尽くして相手に自分の想いを伝えようとします。
この演劇でも、多くの言葉が飛び交いました。無意味なものから、自己を代弁するような体中から絞り出すような言葉まで。
でも心が離れている間の仲では心には響かない。でも言わずには要られない。言葉を手に入れた人の性なのかもしれません。
演劇は別れ話です。男と女が今の心境を相手にぶつけます。
ただし一捻りあります。会話は常に一方通行です。男が女に発する時は、女はすべてを受け取るしかありません。反論はもちろん、聞かない選択もできません。女が男に発する時は逆になります。
そしてそれが前半の男の言い分と後半の女の言い分に分かれます。
表面上は罵り合い(正確には一方的な罵りです。長いスパンで罵り合いになります)ですが、裏側には別れの儀式をお互いが行っています。
男は延々と自己肯定、他社(女)否定します。裏側にはいかに愛していたかに通じるのでしょうけれど、とてもそれを第三者が察することができません。ほとんどが抽象的な記号の羅列です。そして終始一貫続けます。思い浮かぶ言葉がなくなるまでそれを続ける姿は、まるで何かに怯えるようにも見えます。
女は男の言葉を受けて、記号の羅列をあざ笑いますが徐々に様相が変わります。
もちろん女も自己肯定、他者否定の立場でいました。けれど、それだけでは収まらないようなのです。同時に女の言葉を受ける男も自分で自分の体を支えられなくなります。
時は過ぎ、女の言葉が尽きた時なのか、お互いの気が済む時に終わりを約束していたのか、二人は静かな沈黙を守り対峙します。これまでの形相とは違い、見つめ合い幕になります。
二人の別れが完成したのです。
この儀式を設けて、お互いと自分を痛めなければ別れられない二人だったことにようやく気が付きました。その時に愛が深かったことも感じました。
演劇中ずっと言葉は無意味だと感じていました。そして最後の二人の別れの完成でも無意味だったことは間違いないことを確かめられましたが、無意味だから意味がないのではないことが解りました。
お互いを否定する言葉でも、相手を怒らせたいことだけが趣旨でも、記号の羅列の応酬でも、それをやること、もっと言えば言葉を交わすことに意義があったのです。
言葉を無理やり捻り出しても相手の心に響くことはありません。解りあえているほど言葉なんて要らないのです。
そしてこの二人も相手の気持ちなんて、とうにわかっていたのです。そしてもう別れなければならないことも、それが最善の選択であることも。でもきっぱり関係を切るために儀式が必要だったのです。
今までの二人の愛の大きさ、想いを、言葉に乗せて時間かけて交わさなければ別れが成立たなかったのです。
人はどんなに理屈で納得していても次に進むことができません。人だからこそ、生きている生身の人間だからこそを表現した演劇でした。
【いもたつLife】
「生きる力」は養っていくものだと改めて気づきます。
それでも世の中はだんだん厳しくなりますから、「生きる力」はより必要になりますし、時と共に個人も守るものができてくるので、より強くが宿命です。
著者は優しく強い人です。そして己をよく知っている。
著者ほどではなくても、自分がどれだけの自律できる力があるか、今からでも、もっとそれを養うことを真剣に考えてしまいました。その先に自立があることも説いてくれていますから尚更です。
そして“人”を冷静に観ています。良い面も悪い面も含めて。その良い面も悪い面も好き嫌いではなく、人とは(男とは、女とは)そういうもんだとして捉えています。
良い悪いは、その場その時に現れることですから、普遍的ではありません。だから冷静に、“今人は”(連綿と続いてきた人の営みのために)「こういうもんだ」という観かたです。それは、男・女としてや、日本・他の国は、という視点からです。
だから、仕事のやり方も王道を貫いています。
どうすれば世に受け入れられるか(需要があるか)、それが的を得ていたとして、世の人に共感(消費)されるようにするにはどういう切り口にすれば良いか、そして、その仕事を現実にするために、高い次元を目指します。(あなたにはできないと世間に言われる仕事を目指す)
著者自身も書いていますが、『切った張った』を突っ走って来ました。その著者が日本(人)の現状を改めて振り返ると、ため息ばかりではないかと感じます。(少し触れています)
その落差の感じ方こそ、どう生きてきたかで、個人個人異なることなのでしょう。
私の感じている尺度との違いは想像するしかありません。
すると、やっぱり、「もっとしっかりしなさい」と遠まわしに言われています。
とにもかくにも、「生きる力をつける力」をつけることから始めます。
【いもたつLife】