いもたつLife
佐野元春 Film No Damage 2013日 佐野元春 井出情児
とてもラッキーなことに、80年のデビューからずっとリアルタイムで、
佐野元春さんの音楽とともに生活しています。
当時自分も若かったから、彼の音楽以外もたくさん触れていました。
振りかえってみれば、今は彼だけが30年以上経っても私の隣にいます。
彼は歌で、ライブパフォーマンスで、ずっと生き方を導いてくれている存在です。
その彼の貴重なフィルムが蘇りました。
もちろん懐かしいし、嬉しい、感動ものでした。
そして私自身が33年前から真っ当に生きてくることが出来たかの
試験に臨んでいるひと時でした。
【いもたつLife】
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 村上春樹 著
主人公、多崎つくるは20歳の時に、死をも覚悟する体験がありました。
それから16年、その体験を封印していましたが、
どうにもこうにもこのままでは居られないと、恋人(沙羅)から諭されて、
自分に起こっていた過去の事実を探る旅にでます。
その旅はつくるに何をもたらすか?
という物語です。
凄惨な事実とそうでなければ説明しきれない人の愛憎劇です。
つくるは高校時代に、男3人と女2人のグループに属していました、形成していた、の方が正確でしょう。
そのグループは、生産的、建設的であり、理想郷を具現化していました。
普通の高校生では体験できない素晴らしいグループで、形成する仲間は自分も他の仲間も誇りにしていました。
それが突然崩壊します。
つくるは、自分自身を色彩=特徴がない男と信じていました。ただの平凡な男だと。
仲間のアカは、優秀な男です。背が低いことから頭脳明晰が際立つキャラクターです。
アオは、典型的なスポーツマンです。これ以上の説明は彼を解りにくくします。
女性の一人シロは、お姫様のような存在です。可憐で儚い、男が守るべき愛すべく女性です。
もう一人の女性クロは、明朗快活な女性です。シロがお姫様だけに、クロの方が実際はモテたかもしれません。
つくるはある日アオからの電話で理由も告げられずに、グループから除外されます。もちろん、つくるには心当たりはありません。
あまりにも素晴らしいグループに所属していたことから、この疎外感はつくるには耐え難い仕打ちでした。
この日から16年間、沙羅に諭されるまでつくるはこのことを心に、封印していました。
もっと言えば、死を覚悟した半年間を経て、その後の粛々した日々、修行僧のような生活により、あの体験を乗り越えたと自己判断していました。
でもそんなことは有り得ないと、沙羅も読者も感じています。
そこでグループの4人と向き合うことを決めます。
ここからはネタバレになります。
私の書評ではおこがましいので、ここまでにします。
でも一言、
この小説のラストでつくるは、自分を取り戻します。
過去を肯定します、腑に落ちたのです。
自分の振り出し位置を深い闇から見つけることができたのです。
大人になったつくるが振り出しに立つことができたのは読者への希望の灯をともす、著者の応援なのでしょう。
【いもたつLife】
人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか 森博嗣 著
人が自分の幸不幸を計る尺度は、相対的です。
他人がいて自分がいるという立場をとります。
幸不幸だけでなく、楽しい悲しいまでもそういう傾向があります。
人は考えることを嫌がります。面倒だからです。
尤も考えるだけでなく、すべての状況で楽を選ぶのが本能ですから仕方ないことです。
この本では、抽象的・客観的に物事を考えることを、提起しています。
それをすることによってモノの本質に迫ることができるからです。
ではモノの本質になぜ迫る必要があるのか?
ということですが、
私は、自分の内面を観る行為になるからだと思います。
自己の内が少しでも解れば、相対でしか自分を計れない姿勢の自分を、
多少ですが俯瞰できるようになります。
ここでもう一度、なぜ相対から脱しなければならないのか?
それは圧倒的にその方が健康的だからです。
(それを無意味と捉えることに反論はしませんが)
そして、それができる可能性があるのは、人間だけです。
また、自分が作り上げた虚像に対してもそれに振り回されることに対しても、
敏感でいようとも言ってくれています。
だからこの本の提言は、古代から人が生きるテーマとしていた、
いかに死を迎えるか(生きるか)です。
ただし、いつも考えることを気にしていよう。ができても、
考える癖が出来たからといって変わらないかも、とも言います。
期待しないで良きことを面倒がらずに続ける。
案外それ自体に幸せを掴むきっかけ隠れているものです。
著者は、『庭』を例に諭してくれています。
考えることをしないのは勿体ないことです。
考えることで体で起こしている行動が今までと同じでも意味が変わります。
新しい開拓が起こるのです。
今が今まで以上に貴くなります。
同意はできますが、それを満喫している著者が羨ましい限りです。
【いもたつLife】
立川志らく独演会
志らく師匠の独演会は一年ぶりでした。
二つ目の志らべさんの『あくび指南』からスタートです。
大真面目で“あくび”を指南する師匠と指南される落語におなじみの男のやりとりですが、
こんな奴らがいるという設定、
そして、観客と同じくそいつらを覚めた目で見るもう一人がいてというお噺で、
その設定どおりを演じていて、好演でした。
志らく師匠の枕は、談志師匠の話から、
そろそろ三回忌が近いことと、テレビドラマになったことと、その裏話です。
もちろん面白くおかしいネタでした。
演目は『粗忽長屋』志らく師匠らしい膨らみを随所に織り交ぜていて流石の出来です。
けれど私は、『粗忽長屋』は全盛期の談志が落語史上ダントツという男なので、
やっぱり比べてしまいます。
まあ不足だったということではありませんが。
中入り後は『浜野矩随(はまののりゆき)』、
初めて聞く人情噺でした。
芸達者な志らく師匠の人情噺はほろ苦く、時折の笑いが哀愁を引き立てます。
落語はやっぱり良いですね。
ただ、平日ということもあるのでしょうけれど、
結構空席があり、次があるかな?というのが気がかりです。
【いもたつLife】
負け方の極意 野村克也 著
落合元監督の著書でも感じたことですが、
成功するプロ野球の監督のマネジメント(この両者に限ってかもしれませんが)
は、ビジネスでの心構えそのものです。
その考えに新しいものは一つもありませんが、
疎かにしてはいけないことも一つもありません。
凡人だからこその嗜みが詰まっています。
努力を目的としないこと、
一足飛びに結果がでない当たり前、
(考え実践したことが即正解である訳がない割り切り)
教えすぎない、
そして、何よりも我を知る。
弱者はしたたかでなくては生き残れません。
【いもたつLife】
治作 2013年8月
先付
石川コイモ、ジュンサイ、ウニ、オクラ、長芋そうめん、
真夏の暑さが良かったと思わせてくれます。
サッパリで、食欲が湧いてきます。
長芋は昆布締めの一手間と、千切りの一手間です。
ウニと汁も絶妙です。
もちろんジュンサイもオクラも。
ゴマ豆腐
これも夏は格別。
上手いのを解って食べて上手いから凄いのです。
食べて思います。夏も上手い。
うなぎ蒲焼き飯
「時季がちょっと遅いですが」と言ってだしてくれましたが、
土用の丑でうなぎを食べていなかったので、
大歓迎です。
実が締まっている上等のうなぎです。
モチコメで頂く治作流です。
お造り
ハモ、黒ムツ、コチ、赤身と中とろ、アカイカ
私的には前半のメインイベントです。
ハモ、嬉しい夏の味覚です。
コチも夏ならでは。
イカはアカイカ、いつも食べてるイカは何なんだです。
黒ムツも夏に合う。
赤身と中とろは文句なしの大満足。
お椀
もちろんハモです。
これを食べにきたのかもしれません。
中には凝ったレンコン餅です。
すったレンコンにつなぎに片栗粉、百合根も入っています。
これが華を添えています。
八寸
岩牡蠣、枝豆、マメサザエ、レンコンとショウガの白和え、モロヘイヤとエノキのおひたし
今日の真夏の暑さは『このためか』と、
最初に戻ります。(戻るのは私、一貫して夏のもてなし)
夏野菜は今、体が欲します。
それよりも、夏野菜料理がどれも上手いのです。
白和えは、適度に冷やしている心遣いが嬉しくて、またそれで旨味が増す味付けです。
おひたしも適度に冷されていて、隠し味の良い酢が適度に利いていて、ホッとします。
そして、岩牡蠣も夏を圧倒します。(すだちをたっぷり絞りました)
小さいサザエも夏を主張します。
野菜が優しい、貝は主張という方法での美味しさの提供です。
焼き物・揚げ物【鴨】
サッパリ仕立てでやわらかい、これも夏仕様ですが、
旨味がタップリで、鴨好きには応えられません。
(付け合わせのネギと辛子が素晴らしいんです)
焼き物・揚げ物【甘鯛唐揚げ】
頭丸ごとを唐揚げに。
骨までしゃぶり尽くせます。
頭は硬派、エラしたはやわらかな味で、どちらも甘鯛の王道です。
焼き物・揚げ物【太刀魚】
とっても食べやすい演出です。
身はすぐにほぐれるように、
子は堂々に食べれるように、
焼き物という料理、素材を引き出す方法は、微であることを強くかんじます。
炊き合わせ
満願寺唐辛子、トマト、巻き穴子、賀茂茄子
夏のものたっぷりです。
期待よりもちょっと冷たいのが粋です。
そして、これも素材ごとに一仕事しています。
そして、これも夏野菜が主で、サッパリとを具現化していて、
そして、旨い仕立てでなんですね。
料理は芸術です。
素麺
もうこれしかないです。
こんな美味しい素麺を、来る度に食べられる幸せです。
デザート 水羊羹
ギリギリで型を保つことが旨さに直結するということを体験です。
控えめな甘さ、程よい舌ざわり、とろける自然さ、
今回も最後まで見事でした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇 「Hate Radio」 ミロ・ラウ 演出】
“must”で起こった悲劇を伝えるために、“must”の意識と意気込みを持って果敢に演じている作品でした。
1994年にルワンダで起きたフツ族が行ったツチ族の大量虐殺でのラジオの役割を知る術が映画『ホテル・ルワンダ』でありました。
「フツ族よ、ゴキブリ(ツチ族)を根絶やしにしろ」
ルワンダのラジオ放送が、民衆に悪意を植えつけるために延々と流していたキャッチフレーズです。それを観た時に、最初の一言では発動することがない魂に潜む誰しも持つ悪が、餌を与えられて一個人の中で芽生えて育ち、それが隣人とつながり大きく成長し、悲劇の大きな原因になったことを感じました。
そして大衆が共有した悪意は、その場その時の唯一の正義として機能し、悪でつながったフツ族達は、悪魔が宿ったようにいとも簡単に人を殺めることができるようになった。
と強く心に残りました
「Hate Radio」の観劇でも同じことを感じましたが、民衆に届く声をつくりだしていた現場を再現することで、ラジオ局で起きていたことをライブに近い像にして目の当たりにすることで、単なる悪意から発せられたと思っていたあの放送が、実は用意周到に準備された、結果を貪欲に求めた故のつくられた放送だったことと知りました。
ルワンダ紛争を知った時、宗主国の都合だけで区別したフツ族とツチ族が踊らされた結果であることにショックを受け、あの惨劇に対処する責任がある宗主国と、それを含めた先進国(国連)は、紛争を内戦として他人事とした事に怒りを覚え、それを感じている私自身でさえも日本人でよかったと思い、「人の悪の部分の現れだ」と安全なところから批判していました。
そして“一人でも多くの人が、ルワンダを知ることで世が変わる”と信じることで自分を慰めていました。
今でもそれは否定しませんが、この悲劇は、人が洗脳されることが原因で、それを阻止すれば解決できる、なんてレベルではない、もっと大きな力が働いていると感じ、今までの想像以上にルワンダの問題は根が深いことをこの演劇で知らしめられました。
ラジオ局で起きていたことは、いかに普通の人(平和に過ごしていたフツ族の民衆)を、『ツチ族は根絶やしにしなければならない』を実現させる兵士に変えるかを計算されつくして実行されている様でした。
そこは何でもありの世界です。不安を掻き立てる繰り返しの言葉、体が動かざるを得なくなる音楽、理性で抑えていた欲望に火をつけるように囁き続けます。
ラジオは大衆に対して“命令”“許可”“賞賛”で『ねばならない』を植え付け、悪魔に仕立てて“操作”しました。
適時適宜に『ねばならない』に仕向けるプログラムの遂行は、一ラジオ局だけではできません。大きな力の後押しがあってのものです。
そこには目的の達成のために、ツチ族を根絶やしにしなければならないという、大きな悪意があり、それをラジオ局が受けて、フツ族の民衆に伝播させました。
ここで疑問が浮かびます。劇中でも取り上げていたことです。
ルワンダ扮装は、ツチ族殲滅だけが目的とは思えないということです。殲滅を進めるにあたって効率が悪いほどの残虐行為をしているからです。
鉈で切り刻むなどという殺し方(他にも筆舌に現せない非情な行為)は、どう考えても恨みを晴らすことが目的です。
一個人が一個人に対して恨みを持った対象にやるようなことを、フツ族がツチ族にそれを行いました。昨日までの隣人が豹変したのです。
その根源は発展途上国が受けた鬱憤が臨界を超えて、内戦という形で発動したように見えてなりません。
ルワンダ紛争の加害者は今まで起きた大量虐殺とは違います。兵士ではない者が兵士になりました。しかも恐ろしい悪の権化になって。あの加害者達は今あの時のことをどう受け止めて生きているのでしょう。
だから煽動したラジオ局も大いなる力同様に罪はとても深いです。
それ以上に、侵略の歴史はいつどんな形で惨劇になるかもしれない火種だということを証明した事例がルワンダの虐殺です。
行き過ぎた“must”は人を金縛りにします。
ルワンダという国が抱えていた悪意は、『ねばならない』を持った時に強烈に反応する人間の性の悪用を芸術的に昇華させました。
「Hate Radio」はこの惨劇を二度と起こさないために『伝えなければならない』という“must”の気概で演じられています。
今まで積み重ねられた国家間にある恨みや妬みの鬱憤は容易に消すことはできません。しかしルワンダのようにそれを発動させる訳にはいかないために、勇気を持って悪意を表現して訴えている演劇でした。
【いもたつLife】
「ゆっくり動く」と人生が変わる 小林弘幸 著
現代人の誰もが少なからず、“急げ”が身についていますが、
私はそれが極端です。
数年前からいくらか気にかけていたことですが、
この本を読んで、“急げはろくな事がない”のが間違いないことを確認です。
『やっぱり』を感じるのと同時に、
『わかっているけどやめられない』を痛感です。
“急げ”は生きる上、特に仕事を進めるにおいての力ですから、
真っ向から否定するわけではありませんが、
自分で“急げ”をコントロールできないのが問題です。
『いつも急げ』になり勝ちです。
この本を読んでいる時こそ、
落ち着いた呼吸をしますが、その時に、
いかに浅い呼吸で過ごしているかに愕然と気づきます。
どうすれば良いものやら。
この本を目に見えるところに置くことからはじめましょうか。
追伸
7/5は「小暑」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「小暑」の直接ページはこちら
小暑
【いもたつLife】
【SPAC演劇 「母よ、父なる国に生きる母よ」 ヤン・クラタ 演出】
世界一強固な絆で結ばれている、愛し愛されているとされる母娘関係に疑惑を入れて、逆転となる憎悪と支配の関係を成立させて、人の世界の始まりから現在に至るまで続いてきた争いの源を覗く。それが私にとっての「母よ、父なる国に生きる母よ」での体験でした。
太古の昔からという日本語訳と太鼓とアカペラで始まるこの演劇冒頭で私は、映画「2001年宇宙の旅」で類人猿とモノリスが遭遇したシーンを思い起こしました。
時空を超えたシーンで、母娘を引き合いに出して繰り返し同じテーマを語っていることからも哲学的な「2001年宇宙の旅」が重なります。
元々、母が子を宿り産み落とすのは神聖なことです。そしてその絆はけっして切れるものではないし、母が娘を思わない時は片時もありません。
けれどそこに何の疑いもしないで道徳論だけで「そんなのは当たり前」としないのが、「母よ、父なる国に生きる母よ」です。
強固な愛の反作用があるのではないか?
母も所詮娘を支配しているのではないか?
そんな疑問を感じる演出です。そして、愛していることと憎悪の表裏が母娘の間に互いに存在することを確認します。それは、母と息子ではそこまで強くはならない憎悪のような気がします。もちろん、父と娘、父と息子でも同様です。母と娘だから、母にとって娘は自分より後にまた子を産む存在だからという、女同士の負けられない本能があるからのような気がします。
それはおいて置いて、演劇はこの絶対的に思える絆の母と娘さえも憎悪の関係になることを、人が刻んできた歴史の様々なシーンで再現、証明します。
ナチスドイツによるポーランド占領とユダヤ人の殲滅を表すシーンでは、その根本原因のヒトラーが、彼の幼少の頃の父、母との憎悪の反復でないかを示唆します。
現在はかなり解決に至っている黒人差別や先住民への迫害問題の場面でも、個々人による違いの大きさがありました。それも元になるのは、家庭での生育の影響が大きいはずです。
また、エイリアンの登場も子孫を残すことへの言及です。エイリアンと人は子孫を残すということで相容れることができないことから争いになりました。エイリアンは人が憎いから恨みがあるから人類を滅ぼそうとしたのではありません。子孫を残すことの過程で人類と争うことになりました。子孫を残すことができる女性としての定めには、母と娘は仲が良いという優等生な関係は、平時だけなんだということを見せ付けられます。
そして、家父長制度についても強く触れます。私はこれについては、男も女も上手くいっている時だけ機能するもので、本来どちらも(特に女性が)納得しているわけではないと考えています。お互いの都合が良いだけで、お互いの支配の按配でバランスをとっているだけです。
以上の4つのシーンの根底にはどれも、愛すべき母と娘の関係の裏返しの、母が娘を支配する構図、お互いが憎悪を持っているということがあるのではないでしょうか。
この事実を認識することはとても辛いことです。でも突き詰めると人の争いの解決に繋がることでもあるということに気がつきます。この演劇が言いたい最終地点はそこなのだと解釈しました。
太古の昔から始まったこの演劇は、強い歌声とリズム、衣装も無機質な色合いで、時折ユーモラスな演出をはさみますが、全体的には演者から主張を感じました。それが最後は華やかな衣装とハーモニーの歌です。そこには望みはかなうことが織り込まれています。
母と娘という神聖な関係の中に支配や憎悪があり、それが世界中の争いの源だとしたら、解決するのはたやすいはずです。母と娘が喧嘩するのは、ほんの些細なことからと相場は決まっています。そしていつの間にか仲直りします。
ただし厖大な時間の中で世界中のいたる所で何度も、いろいろな形で起きてきた争いがたやすくなくなることは、現実にはあり得ないことかもしれません。けれど、解決できる関係であることを信じるのはとても有益だと思うのです。
本来あらゆる人間関係の中で最も強く清いのが母娘関係なのだから。
【いもたつLife】
【SPAC演劇 「室内」 クロード・レジ 演出】
落語と真反対の方法で人の生きる根源に迫る『室内』では、観客は異空間でそれを否が応でも突き詰めることになります。
舞台は闇に近く、音さえも遮断されます。観客は衣擦れの音にまで敏感になり、今から始まる演劇に覚悟を決めることになります。
そしてまさしく闇と沈黙になり、目を凝らすことで認識できる幕開けを迎えます。仄かな動きで始まるこの演劇は、観客がこの空間世界のルール、意識を集中することで感じるという嗜みに気づく頃に動きを見せます。その動きも台詞も、私達が居る世界とはかけ離れたスローなもの、それは敢えて日常を重ねさせないことを意図したものです。
落語では、私達にどれだけイメージを膨らませるかに知恵を絞ります。それとは真反対にこの『室内』では演劇自体を、個々人が自然にイメージしてしまう像、己自身の投影を拒みます。まっさらな状態で、この微妙な役者の動きと穏やかな台詞を身に染み付かせることを促します。
そこに置かれることにより、観客は役者陣の一挙手一投足からこの演劇の本質を見極めざるを得なくなります。
『室内』は人の生き様に迫ります。落語と真反対の手法だと私は感じましたが、落語が粗忽者を通して人の業に迫る目的があるので、真反対の『室内』でその狙いが重なるという妙味も感じました。迫る元の地点が、粗忽者と、少女の死を告げる者という、かけ離れた設定であっても、観客はそこから本質へ考えを巡らせるからです。
最も“生きるとは?”を真っ向から感じること、考え抜く空間が『室内』で、そこに居ることができたことに震えるような喜びを感じる自分がいたことを伝えたいのも本音です。
溺死した少女の死を告げる二人の使者の、老人とよそ者は、少女の死を知らぬ家族に事実を告げることを躊躇します。
二人はそれぞれの視点で家族を観ます。娘の死を知らないで幸せな日常を過ごす家族を観たり、不幸な出来事を告げることで奈落の底に堕ちる家族が観えたり、いつ誰がどこでどうやってこの事実を告げるのが正解かと模索したり、娘を失った事実を知ることになる家族の悲しみを同じように背負うことで、自分を納得させようとしたりと、知らせるという使命からそれを飛び越えた価値観を自分達が請け負い、それがまるで自己の人間性を問うことにつながる価値であるかのごとく認識し、伝えることに逡巡します。
独立したそれぞれの個ということが本来であるのに、そこから離れられない(この場では、少女の死を家族や係わった人達とどれだけ共有することができるかを美徳として、個人の感情はそれに従うことを優先されること)のは、社会に生きることで植えつけられた価値観です。
この二人の使者と、溺死した少女を看取った者達は社会的な使命を果たしただけです。それ以上でもそれ以下でもないのですが、そこから悩みや苦しみが生じますし、亡くなった少女とその家族を慈しむ想いは、家族を知れば知るほどに大きくなります。しかしたとえ個を優先しなくてもそれを感じるのが人間です。
だからその姿を純粋に感じればよいのですが、私はこの劇中常に結論を求めていたことがあります。それは“生きるとはどんなことなのか?”です。
生きるための日常の営みの中で、心から感動することが一年の内に数回あります。生きた充実感を堪能する時です。そしてそれは自分自身にはけっして嘘偽りができない、その自分が幸せだと腑に落ちる程の時です。少しその感覚とは違いますが、冠婚葬祭もそのひとつである場合もあります。
けれど、そんなことさえも生きている常の一部なのかも知れないことをこの劇で感じます。
もちろん今の世の中では生存を生きる目的の第一にすることもないですし、子孫を残すことさえも、先進国に限っては生きる第一義に挙げることは意味を成さない気がします。
自殺以外で自分の生きる期限を知ることはできませんが、年を追うごとに残りの時間を強く意識するようになります。そこで死を少しずつ身近に感じるのですが、やっぱり期限を知らされることはありません。そしてやがて迎える死の間際では後悔するのは明らかです。なぜなら、生きてきて“もっとやれたのに”と誰もが思わずにはいられないのが人ですから。
そうするとこの劇で使者二人は何を憂うのでしょう。
亡くなった少女と、遺された家族の娘に対しての哀れみ、家族の落胆と娘に対してこれからはもう何もしてやれないという取り戻せない家族達の現実を感じること、それらを憂うのではないでしょうか。二人は何も特別なことをしていません。
私は、生きる日々の中で輝いている自分がいる一瞬が生きることの意味かと思っていました。また、子を想う気持ちや親を慕う気持ちを持つこと、また、家族や親戚や友人が一同に会する時、それらが生きる意義という気持ちがありました。
それを否定するわけではありませんが、もっと飾り気なく、死ぬまで生きるのが生きる意味なのではないか。それを考えるのが『室内』という劇場、小宇宙にいた時間の中で導いた、生きる根源に迫った結果でした。
【いもたつLife】