いもたつLife
【SPAC演劇 「Hate Radio」 ミロ・ラウ 演出】

“must”で起こった悲劇を伝えるために、“must”の意識と意気込みを持って果敢に演じている作品でした。
1994年にルワンダで起きたフツ族が行ったツチ族の大量虐殺でのラジオの役割を知る術が映画『ホテル・ルワンダ』でありました。
「フツ族よ、ゴキブリ(ツチ族)を根絶やしにしろ」
ルワンダのラジオ放送が、民衆に悪意を植えつけるために延々と流していたキャッチフレーズです。それを観た時に、最初の一言では発動することがない魂に潜む誰しも持つ悪が、餌を与えられて一個人の中で芽生えて育ち、それが隣人とつながり大きく成長し、悲劇の大きな原因になったことを感じました。
そして大衆が共有した悪意は、その場その時の唯一の正義として機能し、悪でつながったフツ族達は、悪魔が宿ったようにいとも簡単に人を殺めることができるようになった。
と強く心に残りました
「Hate Radio」の観劇でも同じことを感じましたが、民衆に届く声をつくりだしていた現場を再現することで、ラジオ局で起きていたことをライブに近い像にして目の当たりにすることで、単なる悪意から発せられたと思っていたあの放送が、実は用意周到に準備された、結果を貪欲に求めた故のつくられた放送だったことと知りました。
ルワンダ紛争を知った時、宗主国の都合だけで区別したフツ族とツチ族が踊らされた結果であることにショックを受け、あの惨劇に対処する責任がある宗主国と、それを含めた先進国(国連)は、紛争を内戦として他人事とした事に怒りを覚え、それを感じている私自身でさえも日本人でよかったと思い、「人の悪の部分の現れだ」と安全なところから批判していました。
そして“一人でも多くの人が、ルワンダを知ることで世が変わる”と信じることで自分を慰めていました。
今でもそれは否定しませんが、この悲劇は、人が洗脳されることが原因で、それを阻止すれば解決できる、なんてレベルではない、もっと大きな力が働いていると感じ、今までの想像以上にルワンダの問題は根が深いことをこの演劇で知らしめられました。
ラジオ局で起きていたことは、いかに普通の人(平和に過ごしていたフツ族の民衆)を、『ツチ族は根絶やしにしなければならない』を実現させる兵士に変えるかを計算されつくして実行されている様でした。
そこは何でもありの世界です。不安を掻き立てる繰り返しの言葉、体が動かざるを得なくなる音楽、理性で抑えていた欲望に火をつけるように囁き続けます。
ラジオは大衆に対して“命令”“許可”“賞賛”で『ねばならない』を植え付け、悪魔に仕立てて“操作”しました。
適時適宜に『ねばならない』に仕向けるプログラムの遂行は、一ラジオ局だけではできません。大きな力の後押しがあってのものです。
そこには目的の達成のために、ツチ族を根絶やしにしなければならないという、大きな悪意があり、それをラジオ局が受けて、フツ族の民衆に伝播させました。
ここで疑問が浮かびます。劇中でも取り上げていたことです。
ルワンダ扮装は、ツチ族殲滅だけが目的とは思えないということです。殲滅を進めるにあたって効率が悪いほどの残虐行為をしているからです。
鉈で切り刻むなどという殺し方(他にも筆舌に現せない非情な行為)は、どう考えても恨みを晴らすことが目的です。
一個人が一個人に対して恨みを持った対象にやるようなことを、フツ族がツチ族にそれを行いました。昨日までの隣人が豹変したのです。
その根源は発展途上国が受けた鬱憤が臨界を超えて、内戦という形で発動したように見えてなりません。
ルワンダ紛争の加害者は今まで起きた大量虐殺とは違います。兵士ではない者が兵士になりました。しかも恐ろしい悪の権化になって。あの加害者達は今あの時のことをどう受け止めて生きているのでしょう。
だから煽動したラジオ局も大いなる力同様に罪はとても深いです。
それ以上に、侵略の歴史はいつどんな形で惨劇になるかもしれない火種だということを証明した事例がルワンダの虐殺です。
行き過ぎた“must”は人を金縛りにします。
ルワンダという国が抱えていた悪意は、『ねばならない』を持った時に強烈に反応する人間の性の悪用を芸術的に昇華させました。
「Hate Radio」はこの惨劇を二度と起こさないために『伝えなければならない』という“must”の気概で演じられています。
今まで積み重ねられた国家間にある恨みや妬みの鬱憤は容易に消すことはできません。しかしルワンダのようにそれを発動させる訳にはいかないために、勇気を持って悪意を表現して訴えている演劇でした。
【いもたつLife】
「ゆっくり動く」と人生が変わる 小林弘幸 著

現代人の誰もが少なからず、“急げ”が身についていますが、
私はそれが極端です。
数年前からいくらか気にかけていたことですが、
この本を読んで、“急げはろくな事がない”のが間違いないことを確認です。
『やっぱり』を感じるのと同時に、
『わかっているけどやめられない』を痛感です。
“急げ”は生きる上、特に仕事を進めるにおいての力ですから、
真っ向から否定するわけではありませんが、
自分で“急げ”をコントロールできないのが問題です。
『いつも急げ』になり勝ちです。
この本を読んでいる時こそ、
落ち着いた呼吸をしますが、その時に、
いかに浅い呼吸で過ごしているかに愕然と気づきます。
どうすれば良いものやら。
この本を目に見えるところに置くことからはじめましょうか。
追伸
7/5は「小暑」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「小暑」の直接ページはこちら
小暑
【いもたつLife】
【SPAC演劇 「母よ、父なる国に生きる母よ」 ヤン・クラタ 演出】

世界一強固な絆で結ばれている、愛し愛されているとされる母娘関係に疑惑を入れて、逆転となる憎悪と支配の関係を成立させて、人の世界の始まりから現在に至るまで続いてきた争いの源を覗く。それが私にとっての「母よ、父なる国に生きる母よ」での体験でした。
太古の昔からという日本語訳と太鼓とアカペラで始まるこの演劇冒頭で私は、映画「2001年宇宙の旅」で類人猿とモノリスが遭遇したシーンを思い起こしました。
時空を超えたシーンで、母娘を引き合いに出して繰り返し同じテーマを語っていることからも哲学的な「2001年宇宙の旅」が重なります。
元々、母が子を宿り産み落とすのは神聖なことです。そしてその絆はけっして切れるものではないし、母が娘を思わない時は片時もありません。
けれどそこに何の疑いもしないで道徳論だけで「そんなのは当たり前」としないのが、「母よ、父なる国に生きる母よ」です。
強固な愛の反作用があるのではないか?
母も所詮娘を支配しているのではないか?
そんな疑問を感じる演出です。そして、愛していることと憎悪の表裏が母娘の間に互いに存在することを確認します。それは、母と息子ではそこまで強くはならない憎悪のような気がします。もちろん、父と娘、父と息子でも同様です。母と娘だから、母にとって娘は自分より後にまた子を産む存在だからという、女同士の負けられない本能があるからのような気がします。
それはおいて置いて、演劇はこの絶対的に思える絆の母と娘さえも憎悪の関係になることを、人が刻んできた歴史の様々なシーンで再現、証明します。
ナチスドイツによるポーランド占領とユダヤ人の殲滅を表すシーンでは、その根本原因のヒトラーが、彼の幼少の頃の父、母との憎悪の反復でないかを示唆します。
現在はかなり解決に至っている黒人差別や先住民への迫害問題の場面でも、個々人による違いの大きさがありました。それも元になるのは、家庭での生育の影響が大きいはずです。
また、エイリアンの登場も子孫を残すことへの言及です。エイリアンと人は子孫を残すということで相容れることができないことから争いになりました。エイリアンは人が憎いから恨みがあるから人類を滅ぼそうとしたのではありません。子孫を残すことの過程で人類と争うことになりました。子孫を残すことができる女性としての定めには、母と娘は仲が良いという優等生な関係は、平時だけなんだということを見せ付けられます。
そして、家父長制度についても強く触れます。私はこれについては、男も女も上手くいっている時だけ機能するもので、本来どちらも(特に女性が)納得しているわけではないと考えています。お互いの都合が良いだけで、お互いの支配の按配でバランスをとっているだけです。
以上の4つのシーンの根底にはどれも、愛すべき母と娘の関係の裏返しの、母が娘を支配する構図、お互いが憎悪を持っているということがあるのではないでしょうか。
この事実を認識することはとても辛いことです。でも突き詰めると人の争いの解決に繋がることでもあるということに気がつきます。この演劇が言いたい最終地点はそこなのだと解釈しました。
太古の昔から始まったこの演劇は、強い歌声とリズム、衣装も無機質な色合いで、時折ユーモラスな演出をはさみますが、全体的には演者から主張を感じました。それが最後は華やかな衣装とハーモニーの歌です。そこには望みはかなうことが織り込まれています。
母と娘という神聖な関係の中に支配や憎悪があり、それが世界中の争いの源だとしたら、解決するのはたやすいはずです。母と娘が喧嘩するのは、ほんの些細なことからと相場は決まっています。そしていつの間にか仲直りします。
ただし厖大な時間の中で世界中のいたる所で何度も、いろいろな形で起きてきた争いがたやすくなくなることは、現実にはあり得ないことかもしれません。けれど、解決できる関係であることを信じるのはとても有益だと思うのです。
本来あらゆる人間関係の中で最も強く清いのが母娘関係なのだから。
【いもたつLife】
【SPAC演劇 「室内」 クロード・レジ 演出】

落語と真反対の方法で人の生きる根源に迫る『室内』では、観客は異空間でそれを否が応でも突き詰めることになります。
舞台は闇に近く、音さえも遮断されます。観客は衣擦れの音にまで敏感になり、今から始まる演劇に覚悟を決めることになります。
そしてまさしく闇と沈黙になり、目を凝らすことで認識できる幕開けを迎えます。仄かな動きで始まるこの演劇は、観客がこの空間世界のルール、意識を集中することで感じるという嗜みに気づく頃に動きを見せます。その動きも台詞も、私達が居る世界とはかけ離れたスローなもの、それは敢えて日常を重ねさせないことを意図したものです。
落語では、私達にどれだけイメージを膨らませるかに知恵を絞ります。それとは真反対にこの『室内』では演劇自体を、個々人が自然にイメージしてしまう像、己自身の投影を拒みます。まっさらな状態で、この微妙な役者の動きと穏やかな台詞を身に染み付かせることを促します。
そこに置かれることにより、観客は役者陣の一挙手一投足からこの演劇の本質を見極めざるを得なくなります。
『室内』は人の生き様に迫ります。落語と真反対の手法だと私は感じましたが、落語が粗忽者を通して人の業に迫る目的があるので、真反対の『室内』でその狙いが重なるという妙味も感じました。迫る元の地点が、粗忽者と、少女の死を告げる者という、かけ離れた設定であっても、観客はそこから本質へ考えを巡らせるからです。
最も“生きるとは?”を真っ向から感じること、考え抜く空間が『室内』で、そこに居ることができたことに震えるような喜びを感じる自分がいたことを伝えたいのも本音です。
溺死した少女の死を告げる二人の使者の、老人とよそ者は、少女の死を知らぬ家族に事実を告げることを躊躇します。
二人はそれぞれの視点で家族を観ます。娘の死を知らないで幸せな日常を過ごす家族を観たり、不幸な出来事を告げることで奈落の底に堕ちる家族が観えたり、いつ誰がどこでどうやってこの事実を告げるのが正解かと模索したり、娘を失った事実を知ることになる家族の悲しみを同じように背負うことで、自分を納得させようとしたりと、知らせるという使命からそれを飛び越えた価値観を自分達が請け負い、それがまるで自己の人間性を問うことにつながる価値であるかのごとく認識し、伝えることに逡巡します。
独立したそれぞれの個ということが本来であるのに、そこから離れられない(この場では、少女の死を家族や係わった人達とどれだけ共有することができるかを美徳として、個人の感情はそれに従うことを優先されること)のは、社会に生きることで植えつけられた価値観です。
この二人の使者と、溺死した少女を看取った者達は社会的な使命を果たしただけです。それ以上でもそれ以下でもないのですが、そこから悩みや苦しみが生じますし、亡くなった少女とその家族を慈しむ想いは、家族を知れば知るほどに大きくなります。しかしたとえ個を優先しなくてもそれを感じるのが人間です。
だからその姿を純粋に感じればよいのですが、私はこの劇中常に結論を求めていたことがあります。それは“生きるとはどんなことなのか?”です。
生きるための日常の営みの中で、心から感動することが一年の内に数回あります。生きた充実感を堪能する時です。そしてそれは自分自身にはけっして嘘偽りができない、その自分が幸せだと腑に落ちる程の時です。少しその感覚とは違いますが、冠婚葬祭もそのひとつである場合もあります。
けれど、そんなことさえも生きている常の一部なのかも知れないことをこの劇で感じます。
もちろん今の世の中では生存を生きる目的の第一にすることもないですし、子孫を残すことさえも、先進国に限っては生きる第一義に挙げることは意味を成さない気がします。
自殺以外で自分の生きる期限を知ることはできませんが、年を追うごとに残りの時間を強く意識するようになります。そこで死を少しずつ身近に感じるのですが、やっぱり期限を知らされることはありません。そしてやがて迎える死の間際では後悔するのは明らかです。なぜなら、生きてきて“もっとやれたのに”と誰もが思わずにはいられないのが人ですから。
そうするとこの劇で使者二人は何を憂うのでしょう。
亡くなった少女と、遺された家族の娘に対しての哀れみ、家族の落胆と娘に対してこれからはもう何もしてやれないという取り戻せない家族達の現実を感じること、それらを憂うのではないでしょうか。二人は何も特別なことをしていません。
私は、生きる日々の中で輝いている自分がいる一瞬が生きることの意味かと思っていました。また、子を想う気持ちや親を慕う気持ちを持つこと、また、家族や親戚や友人が一同に会する時、それらが生きる意義という気持ちがありました。
それを否定するわけではありませんが、もっと飾り気なく、死ぬまで生きるのが生きる意味なのではないか。それを考えるのが『室内』という劇場、小宇宙にいた時間の中で導いた、生きる根源に迫った結果でした。
【いもたつLife】
【SPAC演劇 黄金の馬車 宮城聰 演出】

神への畏敬と人への賛歌が込められているのが「黄金の馬車」です。
ラスト、一座と貴族が一体となった劇中最も力強い歌と演奏は、舞台で生きることを決めたカミーラを称えると共に、神へ捧げる行為でもあります。
この演劇は、観客がSPACの黄金の馬車という演劇を見ながら、演者の村人と一緒に、セット内の『古事記』の劇中劇を観ます。劇中劇の古事記で人の営みの大きな流れを表現しながら、本筋では人々の日常を映します。誰もが持つ、仕事、生きるための恋愛、どこにでもあるそれらの常を、大きな営みの流れと対比して観られるという構造です。
食い詰めた田楽一座は京から土佐の田舎に降り立ちます。黄金の馬車とともに。
田舎連中は京から来た劇団に興味津々といった様子、そして今まで観たこともない黄金の馬車に憧れます。村人達は最初は京から来たブランド(一座)をありがたがりますが、だんだんと我儘になります。一座の劇『古事記』が解らないという不満をぶつけます。
一方一座も最初は自らの劇(信念)を貫こうとしますが、劇を重ねるごとに村人達に迎合するようになります。この背景には貴族からのカネも絡みます。本来カネは一座の仕事への報酬ですが、カネが一人歩きしてカネのための芸に変わります。村人への公演も“嫌われたくない”が動機になっていきます。
村人のわがままや、貴族の嫌らしい振舞いを、私達は俯瞰します。それは、私達の中にもある気持ちだということを実感させられます。
カミーラは、役者として確固たる意志と誇りを持ってこの地を治める領主に、本名と役名を告げます。けれど彼女も人です。カネは必要ですし必要以上に欲するし、恋もすれば喧嘩もするし、ないものねだりもします。
カミーラは古事記の相手役でもあるフェリペと相思相愛です。フェリペは潔癖で勇気もありますから、カネや地位に溺れることを嫌悪します。カミーラがそれらを求めると、フェリペは彼女の下を去ります。潔癖であるが故と嫉妬から。
カミーラは弓矢の使い手のラモンにも愛されます。彼は勇敢でこの地の英雄です。村人達はラモンを慕っています。だからラモンが愛するカミーラを受け入れます。カミーラが黄金の馬車を手に入れることも受け入れます。それが彼女の破滅につながるとしても。
そしてもう一人、富も名声も権力も持っている領主にも愛されます。領主は日和見な他の貴族と違い、自らが正々堂々と執政していることに誇りを持っています。そして領主は、それらを象徴する『黄金の馬車』をカミーラに与えます。カミーラが舞台上でも舞台下でも輝いていることへの賞賛です。それと、男の本能としてのカミーラへの力の誇示です。
カミーラは、土佐に希望を持って降り立ち、信念を貫く芸を披露していました。領主もラモンも輝くカミーラの虜になります、しかし俗受けの重力に逆らえず、迎合していきます。しかしそれでもラモンにも村人にも受け入れられ、黄金の馬車を手にできます。そして3人の男から求婚もされます。しかしそこで自らを振り返ることになります。ここから物語は急転します。一座は解散、領主は島流し、フェリペもラモンも厳罰です。
カミーラは悩みます。『舞台ではうまくいくのに、日常ではうまくいかない』ことを。そしてどっちで生きているのが本当の自分なのかを。
カミーラは自信を持っていたのですが、ないものねだりをして自信を失います。潔癖で勇気があるフェリペだけでなく、民衆の英雄ラモンや、富・名声・権力を持つ領主をも求めること、信念ではない演技をすることをしました。全ては気に入られたい迎合の行為からです。そしてその裏側には保身の気持ちがあり、挑戦への逃避です。
カミーラはいつしか神に捧げることができない演技をしていました。彼女には演劇しかないのに。カミーラは全てを舞台に捧げていたこと、自らの人生が演じ手としての中にしかないことが良いか迷ったのです。それは今の自分を信じられなくなっているから起こります。
ある年齢になると、人生が何なのかと悩むことは誰しもあることです。カミーラも自らの今までが正解だったのか悩み、舞台に捧げてきたことが自らが求める人生の障害になっていたのではないかと錯覚してしまったのです。
それは私達にも起こります。ずっと取り組んできたもの、信じてやってきたことを重く受け止めないようにすることがあります。
しかし、ここから抜け出すのは簡単です、今までの良かったことを確認することです。私の場合は仕事です。これまでもこれからも死ぬまで仕事を続ければいいのです。
この演劇でカミーラは舞台が全てで良いという選択をします。彼の地に来て公演を始めたところから、迷いに堕ち、一回りして舞台を選択することには大きな意味があります。何故なら力強い選択になるからです。
カミーラは黄金の馬車を手放すことにしました。一座や領主、フェリペ、ラモンを救う結果になりましたが、それが目的ではありません。もう一度舞台で輝くことを選択しただけです。舞台の上も下もそんなことは彼女の人生で区別を付けることではなかったことに気がついたからです。
舞台に全霊を注ぎ込むことで“神に近づける”それがこの演劇のクライマックスでした。
常に迷い悩み怠惰なのが人間で、その人間への讃歌であり、神を祀るという人の英知が表現されていました。ここを迎えた時に自然に涙が流れました。心に訴えてくる演劇の証です。
それにしても何故劇中劇が古事記なのかという疑問での観劇スタートでしたが、劇が進むごとにその訳がわかりました。
神々と人との対比、人が神を演じることでのほころびが見えるということの効果もありますが、カミーラが若い男神を演じ、求婚を迫る3人の姫をフェリペ、ラモン、領主にすり替えるところは見事です。神への畏敬が込められていることも含めて、だから古事記だったのだと納得の瞬間でした。
最後に触れたいことがあります。
カミーラとラモンとの最初のやりとりで、「牛を見る目で見ている」というカミーラの台詞、ラモンが一座の言葉を理解できないという設定、また、領主がカミーラの前で烏帽子をとることでの他の貴族の驚き、そしてこの藩が銀山で潤っていること、フェリペ・ラモン・領主が姫とすり替わる時にコメディア・デラルテのように仮面を付けていたこと(まだ他にもありそうです)、それらからジャン・ルノワールへの敬意を感じました。ここも宮城聰さんらしいところだと感銘を受けました。
【いもたつLife】
脱線!スパニッシュ・フライ ヘルベルト・フリッチュ 演出 【SPAC演劇】

落語にでてくる登場人物が、暴れまくる喜劇です。
落語では場面をイメージしますから、自分の想像の範囲内です。
この演劇はそのイメージを立体化してくれます。
しかも、こちらの想像をはるかに超えて“ぶっ飛んで”くれます。
そのハチャメチャさに理屈なく楽しめます。
あり得ない けばけばしい衣装や髪型は、ハチャメチャを後押しし、
誇張した振舞いや仕草や顔つきは、まさに落語から飛び出してきた八五郎や熊五郎です。
粗忽な奴らばかりで、当然大ぼけもいるし、早とちりも、大真面目もいます。
あらすじは、
25年前に浮気をして子供が生まれたと言われ、
養育費を払い続けていた主人公の下に、その息子が現れます。
奥さんにだけは知られてはならないと、裏工作を始めます。
すると、養育費を払っていたのは自分だけではないことが発覚、
しかも息子だと思っていたのも勘違いとなり・・・。
自分がこうだと勝手に決め付けると、
周りを全てそのモノサシで見てしまうという人の愚かさを見せ付けられます。
この姿は誇張こそしていますが、本質は誰も同じでそれを笑い飛ばします。
登場人物が、自分で計る周りの景色は、その時々の内面の投影です。
主人公ならば、奥さんへの負い目、バレル不安、息子を追い出す時のあせる気持ち、
一蓮托生だったことがわかった時の妙な安堵感、
次から次へと内面のドキドキ感が爆発される舞台上です。
終わってみれば結局なんだったんだ。
走りまわったのは何のためだったんだ。
お前の人生の一大事なんてそんなものという痛烈なメッセージです。
そして、謎のままになるスパニッシュ・フライ(浮気相手)とその息子と養育費、
それらの謎も愚かさの代償だったことを教えてくれます。
【いもたつLife】
FOMA2013

国際食品工業展、ここ数年毎年来ています。
検査機器を中心に見て回りました。
印字ミス、ピンホールの検査等、品質管理をより問われる中で、
それらの機器には少なからずの人だかりです。
検査機器に限らず、
野菜を自動洗浄、自動カット、
チャーハンや焼きそばの自動調理等、
今までよりも機械が作業する分野が広がってきていることも感じました。
【いもたつLife】
ポリシネルでござる 【SPAC演劇】

演出・出演 エステル・シャルリエ、ロシュアルド・コルネ
製作 ラ・パンデュ
フランスの人形劇団ラ・パンデュの人形劇で、
主役はポリシネルというどちらかというとアンチヒーローで、
彼はイタリアで生まれたといわれています。
人形劇ですから子供達も多く観劇していましたが、
子供達が憧れるヒーローではありません。
ハチャメチャで意地悪、暴力ありの内容ですが、
動きがコミカルかつ大胆、観客に対してあっと驚くいたずらもあり、
笑いが絶えない一時間でした。
二人での劇で、一人は幕の中で人形を操り、
もう一人は時には人形とのやりとり、時には人形を遣う役割です。
二人が人形を遣う時間は圧巻で、
スピーディあり激しい動きあり、こちらが追えないとみるやスローモーションありです。
観客を引き込み参加するように誘導するところも上手く、
乗せられます。
劇の内容は結構辛辣、
ポリシネルの、行き過ぎたいたずらでは済ませれない行為は罰せられることなく、
しかもそれを継承するミニポリシネルの誕生で幕になります。
フィクションで片付けられない、妙に的を得ていて
苦笑いで終わります。
【いもたつLife】
春風亭一之輔のドッサリまわるぜ2013

一之輔師匠の全国ツアーの独演会です。
師匠の落語は初体験でした。
前座さんの『たらちね』
師匠の『初天神』『夏泥』仲入りで『青菜』でお開きでした。
結構毒がある枕、落語中もそれは同じです。
3演目共に35分くらいでまとめるのも師匠のスタイルでしょう。
最も旬の落語家の前評判どおり3演目とも上手く、楽しめました。
『初天神』はきん坊の悪ガキぶりはかなりのもの、
師匠の地じゃないかと思えてくる程、成りきっていました。
『夏泥』も強弱の按配が絶妙で、
身振りも初天神の動と打って変わって静で演じます。
『青菜』この噺も好きな噺です。
とにかくありえそうな植木屋のバカぶりが見所ですが、
そこへの盛り上げ方が良かったです。
真打昇進から一年、まだ35歳と年も若く、
ますます贔屓客ができるでしょう。
【いもたつLife】
お茶摘み

年中行事のお茶摘みでした。
暖かい春の影響で、
いつもより1週間から2週間早い日程になりました。
ところが、
4月下旬は遅霜を心配する気候になり、
葉っぱの伸びはいまひとつでした。
それでも午前中のタイムリミットまで
(お昼にお茶工場へ持っていくため)
一生懸命に摘んで無事終了です。
午後は宴会。たっぷり菊姫を飲みました。
【いもたつLife】