銀幕倶楽部の落ちこぼれ
牝犬 1951日 木村恵吾
自分の欲望のために、カモにした男から大金を搾り取る女。
シメシメとなるはずが、男を追い込みすぎました。
やりすぎで自分の首をしめてしまう結果になります。
マレーネ・ディートリッヒの「嘆きの天使」と似ているファム・ファタールです。
この映画の主演は京マチ子です。相手役の志村喬もですが、
狂気を帯びる役に徹していて、「嘆きの天使」に負けない出来です。
裸一環から真面目に30年間働き続けて、人も羨むまでの社会的地位を獲得した堀江(志村喬)ですが、エミ(京マチコ)とその兄(加東大介)の悪巧みで会社の金300万を横領してしまいます。その一線を越えた理由はエミの豊満な体です。
してやったりのエミ兄弟ですが、ヤクザものの兄は警察へ。
エミはキャバレーを堀江と共に経営します。
堀江は、家族を捨てました。社会的地位も。横領した金もすべてエミに捧げました。
彼にはエミしかありません。年老いた堀江は若いエミに捨てられることが恐怖でたまりませんし、自分のこれまでの人生の全ての代償がエミですから、エミを失うのは人生を失うことと同じです。
エミはそんな堀江が鬱陶しくてたまらなくなります。別れたくて仕方ないのですが、
逃げ場がない堀江は捨て身ですから、堀江から甘み汁を吸ったはずが、堀江に完全に束縛されてしまう結果です。
そんな折、キャバレーに若い男白川(根上淳)が現れます。彼は堀江と正反対で、エミを避ける男です。エミは相手にされないことと、堀江から逃げたいことから白川に惹かれていきます。
それに当然勘付く堀江は、ますます精神が不安定になります。
そこに、経済苦からストリッパーとなっていた娘の由紀子(久我美子)とキャバレーでばったりと遭遇してしまいます。
ますます自己を責める堀江がとった最後の行動は・・・。
主演二人がこれでもかという位濃い演技をみせます。
狂気を帯びていく志村喬、最初は堀江を手玉にとっていたのに、
堀江から逃れられなくなるエミの京マチ子、
二人とも熱演です。
勝負と言っては語弊があるかもしれませんが、
堀江を手玉にとって長い年月甘い汁を吸うとしたら、
あそこまで追い込んではいけません。結局エミは勝負に負けたのです。
勝つためには、堀江を生かさず殺さずが不可欠ですが、その匙加減ができない、過剰にやってしまうのが人ということです。
そんな人の性を強調している映画ですが、人の本質を突いています。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
自由の代償 1975西独 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
主人公フランツが身ぐるみ剥がされることは展開上わかってしまうけれど、
これは大金を失う体験までに留めて欲しい。相手方のオイゲン達に腹立たしいが、彼が見た悪い夢、高い授業料だったで終わって欲しいと願いながら鑑賞しました。
階級社会が生む偏見(同性愛に対する偏見にも抵抗しているように見えました)を問題にしていてまた、搾取であっても、知りえる者が得をするという、それが資本主義のルールとも言いたいようです。
フランツとオイゲンはじめ同性愛者(男同士)が多く登場人物します。
フランツは見世物小屋の芸人でしたが、小屋が閉鎖されて金に困っていたのですが、宝くじで50万マルクを当てます。
その金が物を言って、上流社会のオイゲンと恋人になれて、同棲もできます。
オイゲンは製本会社の経営者の二代目で、社会的地位もあるし、教養もあり芸術にも通じている人物ですが、肝心の会社は火の車です。
そこに登場したのが50万マルクを持ったフランツで、彼はオイゲンを愛するし、上流社会と経営者というブランドに憧れて、オイゲンとその会社に次々と貢いてしまいます。
フランツは金の成る木ですからオイゲンは上流社会の、社会的地位があるオイゲンの家族の一員として表向きは対等に扱いますが、芸人上がりで粗野で無知無教養のフランツを真には軽蔑しています。
そして、知らないことを出汁にして、合法的な搾取と、愛を餌にした搾取をしていきます。
愛されているのは形だけということを認めたくないフランツですが、最終的には心が通じていないことに得心しますが、後の祭りです。
そしてフランツは絶望から、ラストの悲劇の死となります。
フランツにも隙はありました。
でも人らしさがオイゲンにあれば、違う展開にとも思うし、腹立たしいのは山々です。
けれど、オイゲンが持つあの、人を食い物にすることに何も悪くも感じないことは、階級の違いという生まれてこの方ずっと抱いていたオイゲンの当たり前の感覚でしかないのかもしれません。
また、無知無能が経営者を目指せば用の中から搾取されるのは資本主義の常識ではあります。
だから、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督は、敢えて悲劇ではない当たり前だという雰囲気でこの物語を描写していたように思います。
それは同性愛に対する描写も同じで、敢えてホモセクシャルが特別なことではないという感じの映画にもなっていました。
でも理不尽であることは間違いありません。(もちろん同性愛のことではありません)
そしてラストのエピソードにも二つの示唆があり、それはこの物語の真意の普遍性の追い討ちです。
ひとつは、早朝の駅で死んでいるフランツを見つけた二人の少年が、おいはぎをするのです。
もうひとつは、フランツの友人二人がフランツの遺体と出会います。二人は、煩わしい問題に係わりたくないということで見てみぬふりです。しかもそのうち一人はフランツの元彼です。(もう一人はフランツをオイゲンに紹介した男)
そしてその元彼ももうひとりの男の言うことを聞いてフランツに二の舞になるような感じを醸しています。
少年二人は、フランツの友人が来たところでフランツから離れますが、友人達がいなくなると、おいはぎを再開するという念を入れたシーン展開で映画を終えます。
最後まで、“これでもか”と否定したくなる人となりをみせる映画でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
刺青一代 1965日 鈴木清順
最後の殺陣は絶妙の演出です。
多分、演じ手ひとりひとりはどうなるのか解らなかったのではないでしょうか。
美術もリズムもカメラも照明も見事ですし、主演の高橋英樹の大きな演技ともとても合っています。素晴らしかったです。
物語は平凡ですが、男っ気がプンプンしていて、クライマックスまでは任侠映画というよりも、男の魅力を伝える人間ドラマで、もちろん敵役がいるから一途な男が格好良いのですが、ヒロイン3名もそれぞれ味わいがあり、男臭い中に華を添えています。
時代は昭和元年、ヤクザの兄の鉄(高橋英樹)は組のために敵対する親分を刺します。それなのに、組は鉄を狙います。たまたま出くわした弟の健次が正当防衛で組の刺客を撃ち殺してしまいます。
鉄は落とし前をつけようとしましたが、弟想いから二人は満州へ逃げることにします。
日本海側の港町から満州へ行こうとしましたが、詐欺師に騙されて旅費を巻き上げられてしまいます。
仕方なく土方をはじめるのですが、そこは、正統派の土建会社とヤクザの土建会社がいて、もちろん鉄達兄弟は正統派で働くのですが、鉄達を厄介者としてヤクザの土建会社がちょっかを出してきて、鉄を追って組の殺し屋や警察がやってくるという話です。
鉄達が厄介になった会社の社長は組頭共々男気があり、そこに悪がちょっかいをだし、鉄が解決するという単純明快な話ですが、社長の妻の妹のみどり(和泉雅子)が鉄を好きになり、同じく鉄を気に入るバーの女おゆき(松尾嘉代)というロマンスと、鉄達は幼い頃に両親を亡くして芋いて、社長の妻(みどりの姉)の雅代(伊藤弘子)に母親を重ねて淡い恋をしてしまう健次のシークエンスがあったりと、話は結構広がるのですが、どれも最終的に収斂していきます。
また、細かいシーンも伏線としてしっかりと機能しているので、見えている話ですが、興味が途切れることもありません。
気風が良いはつらつ健康美の和泉雅子、鉄と同じく裏家業に従事して陰りがありながらも、自分を見失わない松尾嘉代、健次に慕われる母性的な伊藤弘子という女性3名が、魅力でまた、
ひたむきに仕事に取り組みながらも兄弟を気にする社長の山内明等々、浪花節も全開ですが、それも最後につながる要素として機能しています。
とにかく今まで見た高橋英樹の中でもダントツの格好良さでしたし、鈴木清順作品ここにありというクライマックスでした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
嘘 1963日 増村保造・吉村公三郎・衣笠貞之助
「女の嘘」をテーマにした3作のオムニバスです。
「プレイガール」増村保造
玉の輿で上流社会の嫁を目指す19歳の女の物語です。
庶民の出の主人公が持つ武器は“処女であること”。
彼女は何人者男を掛け持ちにして、最高の結婚を目指します。
その日も4人の男とデートをしますが・・・。
彼女の嘘は、男を物色することですが、彼女自身はとても健康的で、自分を最高値で売り込もうとする態度には深く共感します。
でも、そんな生活に疲れたかのようなラストです。
背伸びばかりでは生きられないということと、
目標を掲げることは大事だし、彼女の行動も幸せな人生を築くために、とても戦略的で利に適ったものでした。でも、自分らしさを出せない戦略は続かないということがまじまじ解ります。
「社用2号」吉村公三郎
大手製薬会社の社長のお妾さんが主人公です。
あまりにも我侭で金遣いが荒いので、社長は自社の二枚目社員を差し向けて浮気をさせて、合法的(?)に別れることを画策します。
主人公のような女はお金がないと幸せになれそうにありません。
お金に目がないですが、塩らしい面もみせます。
彼女も今がずっと続ことがないと察していますから、別れるキッカケが欲しかったのかもしれません。
それにしても生活力がほぼゼロの主人公はこの後どうなるか?というラストでしたが、
それよりも、打算だけでは生きられないことを謳っている作品で、
ダメダメな彼女を応援したくなる演出で、吉村公三郎監督の女性賛歌を感じました。
「女体」衣笠貞之助
ミステリアスな展開で、女の情の物語です。
男(田代)が不倫相手の女(道代)の拳銃で殺害されます。道代は拳銃は見知らぬ人から貰ったと言います。
田代の妻(安子)は田代の死は自業自得と言います。でも安子は本妻ではありませんでした。(籍が入っていない本妻)そして安子は、道代に拳銃を渡したのは、とっくに別れている戸籍上の妻(時枝)だと言います。
しかし時枝はそれを否定します。
取り調べと裁判のシーンでこれらが明らかになっていきますが、
真相は語られません。真相はこの映画にとってどうでも良いからです。
三人の女の一人への男の愛と、存在を知っている自分以外にも田代を愛し、愛される他の女の嫉妬の様が描かれます。
三人とも究極の愛として田代を亡き者にしたかったのではないかと思える展開で、女の情念の深さに恐ろしくなりますし、愛する形というのはこんなケースもあることを知ります。
田代はそれだけ三人の女に深く愛されたのだから、女性問題でゴタゴタばかりの人生でしたが、死ぬまで非情に幸せだったのかもしれません。
追伸
10/3に、10月の「毎月お届け干し芋」出荷しました。
今月のお宝ほしいもは、“厚切りほしいも”です。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
毎月お届けの「今月のお宝ほしいも」の直接ページはこちら
今月のお宝ほしいも
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間 2013米 ピーター・ランデズマン
暗殺当日から4日間を、証言から再現したドキュメンタリーのような映画です。
再現されたのは、この事件に巻き込まれた人々。
オズワルドの兄と母、汚点を残したシークレットサービス、事件前にオズワルドと接触していたFBI、あの有名なフィルムを偶然撮影してしまったサプルーダー、そして瀕死のケネディだけでなく瀕死のオズワルドが運ばれたパークランド記念病院の医師と看護婦たちです。
当時の混乱と、怒りと悲しみ、また保身に走る姿等が、当時の映像とリンクしながら、生々しく再現されています。
アメリカ中が揺れた事件を、関わってしまった人達の視点から映すことで、何が起きていたのかを示しています。
忘れられない事件の、当事者の息遣いまでも感じ取れる内容に仕上がってしました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
喜劇 とんかつ一代 1963日 川島雄三
粗筋なんてどうでもいい。笑いのエピソードを繋いで繋いで出来上がった映画です。
個性的なキャラクターにハチャメチャを演じさせて、さあどうぞ!
と差し出された感じです。
キャストも豪華かつ、個性的な役をなんなくこなす達者者ばかりです。
森繁久弥、加東大介、、淡島千景、フランキー堺、三木のり平、池内淳子、木暮実千代、水谷良重、団令子、山茶花究、岡田真澄、益田喜頓。
親子親戚関係、また弟子と師匠、ライバル関係と、複雑な人間関係の構成ですがそれを逆手にとり、エピソードが繋がることを、そんなものかなとこちらに思わせます。
理屈なしで楽しむ映画ですが、落語のように、人の業が映し出されますから、何度みても、わかっている笑いだけど、可笑しくなるタイプの映画です。
ドタバタの奥に、人が人を想う優しさと人が持つ愚かさが盛り込まれている、これも川島雄三らしい作品です。
追伸
『ほしいも【安はるキラ】セット』募集開始しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
『ほしいも【安はるキラ】セット』の直接ページはこちら
ほしいも【安はるキラ】セット2014
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
白蛇抄 1983日 伊藤俊也
女の情念と、その女に溺れる男達のドロドロの物語で、
人間とは時には、こうまで理性を失ってしまうのかと、
驚嘆するばかりでした。
生まれながらに苦労してきて、やっと慎ましい幸せを掴んだ途端に、
また奈落に落ちてしまった女(うた)は、生まれてすぐに死んだ子もろとも身投げしますが、
たまたま山寺に助けられます。
もう世を捨てたくて、また子を弔うべく、山寺の老住職の世話になります。
しかし、若くて美しく妖艶な魅力があるうたを、回りの男達はほっておきません。
不具の住職は夜な夜なうたを慰みものにします。
それを盗み見しする得度した息子の昌男、
そして身投げしたうたの体を引き上げてから、うたを忘れられない刑事の村井までが、
うたを我が物にしようとします。
男達の奪い合いになるうたも、拒むことができずにドロドロの関係になって行き、
悲劇の連鎖が起こります。
美しいうたが悲劇の原因なのですが、うたは被害者です。
だれか一人でもしっかりとした男に愛されていれば行方は違ったでしょう。
山寺に来る前のうたは、しっかりとした男に愛されたのですが、慎ましい幸せと共に、それを失ってしまったのが悲劇の始まりで、これがうたの運命だったのかもしれません。
しかしあそこまで皆男が狂ってしまうのは何故でしょうか?
寺や警察という閉鎖された世界にいることで、孤立してしまうからなのか、
でもだとしたら、坊主と警官は皆狂っていることになります。
人は合う合わないの相性があります。
この物語の男達はうたに惹かれます。相性が良いのひとつの形でしょう。
昌男と村井は、世を捨てるしか生き様がないうたと、
普通の暮らしをしようとすると破滅しかなかったわけで(老住職はうたと普通の暮らしを求めなかったから非常識だけど歯車はかみ合っていた)、
悲劇は必然だったのです。
破滅に向かううたと相性が合うこと、
それは何故でしょうか?
男達の生育が、自我の形成にうたと合う部分が育ったのでしょう。
それは破滅に向かってもそれに向かう感情を抑えられない部分です。
彼らは抑えきれない、自分をコントロールできないのです。
彼らは自分が自分ではないのです。
その一端は自分を形成しているひとつとして誰にでもある部分です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
囁く死美人 1963日 村山三男
個人経営の総合病院が舞台のサスペンス・スリラーです。
主人公は有能な外科医の菅(川崎敬三)で、院長の娘から慕われ、院長からも腕を買われて、娘との縁談が舞い込みます。しかも、次期院長の座とヨーロッパの研修旅行付きというこれ以上ない条件付きです。
この手の話には常套の、菅は美人看護婦と出来ていてしかも妊娠中で、別れ話がこじれて、ついに殺害してしまいます。
ありきたりですが、ここから中々見応えがあります。
用水路で溺死させたはずの美人看護婦の不二子(万里昌代)の遺体が上がってこないことから、菅は不二子が生きていると疑い始めます。
日が経つに連れて菅は不二子の幻覚や幻聴をみるようになり、次第にノイローゼになっていきます。
菅は優秀な外科医ですから、論理的に物事を考えます。すると、なかなか遺体が上がらなかったのは、手術でのギブスや金属のため(不二子は骨折で入院中だった)と、この例をはじめ、不二子は生きているはずがないとなるのですが、あまりにもリアルな幻覚と幻聴なのです。
結局は不二子には双子の姉がいたというオチなのですが、ラストになるまで菅と共に私も、不二子は実は生存していて遺体は身代わりだったかもしれないと思えますし、それを引っ張るだけ引っ張っていて、中々面白かったです。
出色は川崎敬三で、論理的で有能、不二子に対しても二枚舌を使い分け、警察に自殺を断定させるほどの男だったのが、疑心暗鬼になって狂っていく様が鬼気迫っていました。演技と演出が良くてこの映画はここが見どころです。
不二子役の万里昌代も幽霊ぽいシーンが似合っていて、スリラー感が高まってきます。
院長がとても出来た人物で、私が菅なら、あの院長になら、殺人する前に一切合切打ち明けるのにと、ずっと思ってみていましたが、若い頃は人を観る目もまだまだだった自分を重ねていました。
気軽な娯楽作品でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
今度は愛妻家 2009日 行定勲
ほぼ一部屋のセットの中で繰り広げられる喪失の恋愛ドラマです。
たまに近所という設定の神社のロケと、クライマックスに向けた仕込みのロケがあるだけです。
一流のカメラマンであるのに、なぜか仕事をしない、できない男(北見)とその妻(さくら)は、どこにでもある夫婦。
どこにでもあるというのは、大抵旦那が無神経ということで、それに加えて北見は浮気性です。
妻に無関心(のように振舞ってしまう)、でも、さくらはそんな夫を気遣うという、私にとっては典型的なパターンです。
そして夫は妻を大事にしないことから、それが後悔へと・・・。
という物語です。
コメディのように進みますが、だんだんシリアスに、そして実は。という縦軸に、
人間関係が入り組んでいてが横軸で、どちらもかなりの意外性を加えてあります。
けれど、テーマはひとつ。
夫は妻を大事に思う気持ちを、ちゃんと妻に伝えましょう、です。
今は主夫という言葉もありますが、とにかく私の場合、妻がいなければ何もできない。
そんな旦那を一年365日面倒見てくれています。しかも何十年も。
こんなこと、世界中の誰もやってくれません。
「お前はそれをわかっていないだろ」という映画で、反省するのではなく、実践を促す映画した。
追伸
9/23は「秋分」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「秋分」の直接ページはこちら
秋分
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
四十九日のレシピ 2013日 タナダユキ
少し入り組んだ家族構成です。
百合子は幸せな結婚生活だったけれど子供ができませんでした。
そして夫は浮気のつもりが、子供ができてしまい、百合子は不倫相手に夫を渡す決心をして帰郷します。
実家には父の良平が一人暮らし、妻の乙美はつい先日亡くなったばかり、そして、百合子にとって乙美は父の再婚相手で、幼い頃から育てられましたが、「お母さん」と呼べない関係でした。
その乙美が遺したものは、彼女を慕う人達で、良平と百合子に尽くしてくれた乙美は二人以外にも多くの愛を捧げていたことを知ります。
二人の下に元気ハツラツな娘のイモが現れます。イモに催促されて、二人は乙美の遺言にある「四十九日の大宴会」を開くことを決心します。
イモは、乙美がボランティアで更生施設で可愛がっていた20歳の娘で、自分が亡くなった後に良平の面倒を見てくれることを頼んでいたのでした。そして乙美は、大宴会の助っ人まで準備してくれていました。日系三世のブラジル人の若い男のハルです。
大宴会を開く目的で集った4人の生活が始まります。4人は、乙美が喜ぶかを考えて、着々と大宴会の準備を進めます。
また傷心の百合子も少しずつケアされていきます。
大宴会の準備をしていると、良平も百合子も乙美と想い出を作っていなかったことが明るみに出てきて落ち込みます。
そんな乙美は幸せだったのか?二人は良き夫と良き娘でなかったことを後悔します。
そこで百合子は、何が何でも乙美の人生の意義を探り、四十九日の法要に添えたいと思うようになります。
そして大宴会の日が来ます。
この映画では、「子供がいない母親の人生は幸せか」というテーマがあります。
不妊のために、百合子は不倫相手に夫を譲るという辛辣なシーンが冒頭からあり、子供がいないと想い出が少ないというフレーズが何度か繰り返されます。
世の中は上手くいきません。思い通りにいかないままに時が過ぎて、どうにもならなくなるという無常さを突きつけます。
単に子供ができないことだけでない、人の手が及ばないのが世の中だということを言います。
それでも抵抗するのが人で、それが乙美の生き方だと言います。
乙美も長年連れ添った無愛想は夫に満足していいた訳ではないでしょう。また、懐かない百合子にも悩んだでしょう。
でもそれでも二人に尽くしました。他の人達にもできるだけのことをしました。
この映画は、人は(次世代の)人の踏み台であれば良いということもテーマにしています。
乙美はまさにその境地だったのでしょう。
二人は乙美が亡くなって彼女がそれで幸せだったことを感じ取ります。
そして、二人とも、“次は自分達が踏み台で良いではないか”と乙美から受け継ぐことを決めます。
人が亡くなること、特に身近な人が、それは遺された者の成長のためだと言えるということを、示した映画でもありました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】