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銀幕倶楽部の落ちこぼれ

わが闘争 1968日 中村登

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美人女優をたくさん配して、全員が漏れなく飛んでるという中々観れない、思い切って造った映画です。

世の中に対する恨みを持っている堤家というのが全ての前提条件で、
この呪われた血を受け継いだ家族が起こすとんでもない映画です。

主人公は堤玲子(佐久間良子)、
祖父が若い頃一度だけ娼婦を買ったら、梅毒に罹り、隔世遺伝で、玲子の姉(岩本多代)が、
知的障害者になってしまい、そこから呪われていることが露呈したという設定です。

時代は戦前戦後をまたぎ、父親は戦争で足を怪我して戻ります。
「五体満足だったのに、戦争が~、戦争が~」と社会そのものを恨む父なのですが、家族は全員、社会が私達をないがしろにした、というルサンチマンなのです。
極貧なのですが、それも彼らに言わせれば当然社会のせいです。

玲子の妹の時子(三女)(香山美子)は堤家の女は娼婦が似合っていると娼婦になります。私生児がいてこの子は足が悪く、ここで呪われた血を強調しています。

四女の美也(加賀まりこ)の幼い頃からの夢は、自分が性病に罹り、それを世の男に広めるという、恐ろしいことを考えています。流石にそうはなりませんでしたが、キャバレーに勤め、彼女に入れあげた靖(石坂浩二)は会社のお金300万(昭和27年位)を横領してしまうという魔性の女です。

順番はわかりませんが、堤家には男の兄弟仙一(夏八木勲)がいて、感化院にいるところからスタート、途中で家に戻りますが、出てくるシーンはいつも暴れています。

そして主人公玲子は、呪われた血が恐ろしく、男には決して抱かれないと誓っています。
自分が子供の頃、こんな家に生まれたことが嫌で嫌で仕方なく、そんな思いをわが子にはさせたくないから絶対に子供は作らないという考えです。
彼女が一番まともっぽいですが、昭和22年には立派な不良少女に育っています。

物語は昭和27年からがメイン。
玲子は真面目に勤め、また詩を作る文学を愛する女性に成長していました。

ところが、物語はこちらの想像のはるか上をいきます。
処女狩りを得意とする文学青年(川津祐介)が登場、玲子はレイプ同様に処女を奪われます。それを恨みにもった玲子は、ガスで殺害しようとしますが失敗、それでもめげずに、駅のホームで突き落とそうとします。それを渋川良(入川保則)という男に止められます。
玲子と良は親しくなりますが、良は自殺志願者で、それを聞いた玲子は彼と心中することを決めます。
そしてある海辺の旅館に行き決行となったその時、玲子は兼ねてからの夢であった(らしい)“童貞狩り”を死ぬ前にやりたいと言いだし、旅館を出て、夢を成してきます。
そうしたら、良も死ぬ前に玲子を抱きたいと懇願、それを引き受ける玲子。
(これを読んでいると、なんだこりゃ、と思うでしょうけれど、こういう話なのです)
そして、いよいよ睡眠薬で心中を図ります。
ところが、翌日二人ともピンピン、感動した二人は結婚することに、そして幸せな日々が続き、めでたく妊娠、二人は喜びますが、我に返った玲子は呪われた血の子を産むことはできないと、堕胎してしまいます。

そんな時に現れたのが美也、300万円をほとんど使ってしまい、靖を捨てて二人のところに転がり込んできました。
仕方なく3人の生活が始まります。
ある日、良と美也が部屋で二人の時、美也が悪魔の囁きを良にします。「お兄さんの子供は私が産んであげる」それにまんまと乗っかる良ですが、
なんとその場に、玲子を訪ねてきた靖を連れて、家に戻る玲子と靖、当然現場を目撃、逆上した靖は良を刺し殺してしまいます。

良の墓参りを玲子と美也がしていると、玲子が良の子を妊娠していることが発覚、玲子は今度は出産を決意、無地五体満足な男の子が誕生します。
喜びに湧く堤一族ですが、音楽はなにやら不穏なことが起こりそうなのが流れおしまいです。
呪われた血の連鎖が続くのでしょうか。

物語は登場人物がその場その場の欲望をそのまま行動に起こしている様子につなぎ合わせです。
そして俳優は皆エネルギッシュ、特に女性陣が。
だからこの映画は女性が社会を批判し抵抗する様の映画で、ただやたらと極端というのが特徴です。

多分佐久間良子がこういう役を演じたのは先にも後にもこの映画だけでしょう。
そういう観点から観れば希少で貴重な映画です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年09月21日 06:41

東京マダムと大阪夫人 1953日 川島雄三

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時代観がしっかり確かめられて、でも普遍的な人間模様を映す傑作コメディです。
川島雄三監督らしくかなりシニカルに風刺も込められていますし、それが良いエッセンスになっています。
脚本も良くて、無駄がない、リズムも良いし、テンポ良く笑いが起こります。「幕末太陽傳」なみの完成度です。
その笑いも他愛のないことから、人間の根源に及ぶのものまであります。
そしてこの作品は悪人がでません。上辺の嘘や野次馬な嫌らしさはありますが、善人な庶民の物語です。
私的には人の嫌な部分を見せる「しとやかな獣」に共感していますが、こちらの描き方も共感できるし、川島監督の底力も感じます。
キャストも魅力があります。
庶民の物語なのですが、主人公の社宅夫婦の奥さんはどちらも名家の出身というところが粋で、物語に奥行きと夢を与えます。

高度成長期の一流企業のサラリーマンの暮らしぶりを中心に物語は進みます。
将来を期待される、伊東夫婦と西川夫婦は社宅の隣同士です。
この社宅は当時のサラリーマン家庭の縮図で、奥さん同士の見得の張り合いがあったり、嫉妬があったりといった当時の日常をしっかりと土台にしています。
社宅の名前は「あひるヶ丘」で実際にアヒルが社宅の敷地内にウロウロしています。このガーガー言うアヒル達は社宅内の奥さん連中そのもので、この演出は秀逸です。ぜひ観て欲しいとしか言い現せません。

会社内ではもちろん上手く切り抜けるサラリーマンもいれば脱落者も出てきます。社宅の付き合いは、会社の序列がそのまま社宅内の奥さんの序列になっているという、当時だったら誰もが頷く実態を織り込みながら、庶民感覚とは違う物語が挿入されていきます。

伊東の奥さんの美枝子(月丘夢路、夫は三橋達也)は東京の老舗の傘屋の出で、父親からの政略結婚の押し付けが嫌で飛び出しました。その妹康子(芦川いづみ)も同じ境遇で姉の下に逃げてきます。
西川の奥さんの房子(水原真知子、夫は大阪志郎)は大阪の昆布の佃煮問屋の出で、8人兄弟の末っ子八郎(高橋貞二)が仕事で東京に出てきます。この八郎がモテる役プラス気風が良いプラス飛行機乗りという設定で、サラリーマン社会とは違う世界の男です。付け加えますが、伊東も西川も真面目で有能なサラリーマンです。
そしてもうひとりヒロイン百々子(北原三枝)がいます。あひるヶ丘の会社の専務の娘で、明るくて屈託がない性格で康子と対照的です。

康子も百々子も八郎が好きになってしまい、美枝子は康子を自由に結婚させてやりたくて八郎と一緒になれるように、房江は専務の娘の百々子と八郎が結婚すれば旦那の出世になるとして当人同士を乗り越えて話を進めていくのですが・・・。
三角関係の行方と伊東と西川の出世話が絡んでいきます。

社宅ということもあり近所付き合いは大事で、隣同士で井戸を共用している環境からもそれがキーになっています。先に西川家が電気洗濯機を月賦で購入すると、房江は見栄をはります。また社宅内は噂話ですぐに持ちきりになりますし、それを仕切る者がでてきます。
これらは普遍の人の性でそれを面白おかしく描かれていますが、当時の近所付き合いが盛んという世相もしっかりと表現されています。

奥さん同士がいがみ合ってしまう展開でも、旦那二人は割りと冷静なのも、演出でもありますが、これも良くみる光景で、だけど、現代からみると全体的に鷹揚な雰囲気がこんなところでも窺えます。

笑いが絶えない映画なのですがキャラクター設定が良いことも後押ししています。
二人の世話焼き奥さんと社宅の仕切り奥さん、そしてちょっと尻に引かれているような男達、八郎は正義感があって自由奔放だけど天然キャラ、美枝子(と康子)の父は頑固で江戸っ子、その奉公人達もユーモアがある(番頭の名前は「徳」で丁稚の名前が「定」、落語好きにはたまりません)、百々子は活発、康子は思いやりがある控えめの女性。
それらのキャラが上手くかみ合います。

目先の欲から、房子が嘘を付き、美枝子の手前伊東が嘘を付いてしまい、百々子と康子が傷つきますが、その事件も上手く回収します。(ちょっと皆が良い人過ぎるきらいはありますが、この映画の雰囲気にはあっています)
伊東と西川に出世競争がご破算になり、代わりに社宅の仕切り役が世代を変えるというオチも上手かったです。

とにかく私としては、始終楽しめる作品で、贔屓目かもしれませんが文句なしの映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年08月13日 07:27

グラマ島の誘惑 1959日 川島雄三

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喜劇ではありますが、川島雄三なりの反戦映画です。
ちょっと物語として破綻しているところが惜しいですが、気持ちは十分に伝わってきます。

設定が面白いというか微妙です。
戦中、13人が無人島(グラマ島)で暮らすことになるのですが、そのメンバーは、皇族の兄弟(為久大佐と為永大尉)そして二人を補佐するバリバリの軍人の兵藤中佐、そして現地人のふりをしている脱走兵のウルメル、後は全員女性で、従軍慰安婦が6名、報道班で詩人のよし子、報道班で画家のすみ子、グラマ島にはかつて日本の基地がありそこで未亡人になった とみ子です。

為久は食べることと女のことしか頭にありません。為永は生真面目ですが同じく生活力はありません。兵藤は皇族二人には従順ですが、女達の前では威張りちらします。
皇族や軍人には無条件に従うものだという教育をされてきた慰安婦達は、3人の男達に仕えることに何の疑問も持ちません。
とみ子は元々グラマ島に住んでいましたから、ウルメルの援助を受けながら、軍人3人と慰安婦達とは距離を置きます。報道班の二人の女性は男達に反抗的なので厄介者扱いされます。
そんな戦前の軍事システムが、二人の女性の目論見で(慰安婦達に今の生活はあまりにも理不尽であることを説いて)女性全員で反乱を起こし、島を民主社会にします。このあたりがこの映画の一つのテーマです。
でも川島演出は一筋縄では民主化を成功させません。一度は鎮圧された男共は武器を手にして女性を抑えることに成功します。これもかなりブラックな暗喩です。
その後武器はウルメルが奪ってまた民衆主義が機能して6年の月日が流れます。島の近くでは水爆実験があります。それと同時に終戦していたことがわかりアメリカ軍に助けられて、日本編になります。

日本編でも風刺が続きます。経済的に復興している日本で沖縄返還の運動も行われいますし、皇太子殿下の結婚にも浮かれいます。
その中でグラマ島から帰ってきた為久は家族と恋人に捨てられ、為永は事業が上手くいかない、すみ子は「グラマ島の悲劇」という本を執筆しベストセラー作家になりますが、かつての仲間からは反感を買います。慰安婦達は沖縄で商売しようとして逮捕されます。
なんだかグラマ島の生活の方が幸せだったように映ります。
そのグラマ島も水爆実験の場になってしまいます。そこでラスト。

非常に辛辣な隠れメッセージに満ちている映画です。
ただ当初ブラッックな笑いだったのが笑うに笑えない感じになります。
そして、女性達の描かれ方が面白いのですが、それと主題が合っていないような感じでまとまりがない印象になります。
しかしながらこれも川島雄三でなければ撮れない映画だということを感じる個性的な作品であることは間違いありません。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年08月12日 07:36

まごころ 1939日 成瀬巳喜男

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二度目の鑑賞です。
一度目の鑑賞では、二つの家族を通しての深くて優しい人間模様の映画、
そして、プロパガンダ色がありながらそれをも逆手に取って、主題を語っている映画と感じました。それは今回も同じなのですが、二人の子供を通しての親三人の成長物語だということがテーマだと強く思いました。

金持ちの夫婦の敬吉と敬吉夫人の娘が信子、貧乏な未亡人の蔦子の娘が富子、この5人の物語です。
かつて敬吉と蔦子は愛し合っていましたが、敬吉が金持ちの婿養子に行くために蔦子が身を引きます。敬吉夫人は気立てが良い蔦子に嫉妬しています。身を引いた蔦子の夫はとんでもない飲んだくれでしたが、蔦子は健気に尽くし、独り身になっても内職で実の母親と富子を立派に育て上げていました。
が、ある日、敬吉と蔦子の過去のことを知った子供二人は、複雑な気持ちになります。
そんな時に、信子がケガをしてそれが原因で、敬吉は蔦子とばったりと出会ってしまいます。
当然なにも起きませんが、合ったことを知った敬吉夫人は嫉妬から敬吉を責めます。
けれど誤解は解けて。という流れです。

小学6年生、大人に一歩踏み入れた女の子二人が、子供心に親を想う気持ちと、深い友情で結ばれていること、様々な体験から大人になっていく姿が汲み取れます。
それだけで、十分に心を癒される映画で、また、時代から周りの人びとのために(お国のためにも含まれます)という優しさも窺えるし、亡き父親が飲んだくれだったことに傷心する富子とそれを負い目に、そして不憫に思い、蔦子が富子を愛する姿、それを汲んで富子が自立しようとする姿にも、感動します。

それを踏まえて、親たち3人が成長して、結果敬吉はなんのわだかまりもなく出征するのですが、出征はともかく、3人共過去にケリをつけたことが印象的でした。

敬吉夫人は一番わかり易く、嫉妬していた自分を恥じて改心します。物語の流れからすんなりです。
敬吉は、蔦子とはもちろん何かがあるわけでもないですし、蔦子と結婚しなかったことに後悔しているわけではありませんが、婦人に対して、もうこの女はこのまま(自分にとっても娘にとっても良い女にはならない)というあきらめていた自分を、もちろん愛していないわけではないけれど、距離をおいていた関係性を改めます。
そして二度目の鑑賞で蔦子の成長に一番注目しました。
蔦子は、文句なしの女性です。
働き者で、ダメ夫にも尽くしていたし、敬吉の婿に行きたい気持ちを察して身を引くという自分を犠牲にしても他人のためと考え、しかも、それを心の底から願いとしてできる女性です。富子はクラスで一番の優等生なのですが、それこそ、蔦子の姿を観て育ったからに他なりません。
そんな蔦子ですが、富子に真実を、父親が飲んだくれだったことを話していませんでした。もちろん富子を傷つけたくないからですが、いつかは伝えなければということ、もちろん敬吉と愛し合っていた仲だったことも含めて、富子に話すことを「いつか」として躊躇していたのです。今回ちょっとしたきっかけで話さなければならなくなったのですが、やはり話したくないことでした。
敬吉との関係は潔癖で、誰に何を言われることはないのですが、富子に話せない自分を負い目としていたのです。
その自分にケリを付けたのです。
富子の台詞に「おかあさんもさよならしなくちゃね(敬吉と)」があります。
この言葉はこの物語は蔦子の成長物語でもあったことを語ります。

三人三様の成長を映した映画で、心が清くても、ちょっと貧しくても、前に進むことは気高く価値があることを示していたことを感じました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年08月11日 07:46

逃走迷路 1942米 アルフレッド・ヒッチコック

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本当に映画造りが上手いです。
あっという間ですし、造り手の戦時中の時代観もしっかりと盛り込まれています。

軍用飛行機工場でサボタージュが起こり、
主人公が犯人扱いになり、どうも世間も警察も信用してくれないから、
自らで潔癖と証明しつつ、新たなサボタージュを防ぐという話です。
圧倒的な劣勢の主人公ですが、
分別ある心優しき人に助けられたりしながら、もちろん二転三転と危機が起こり、
何とか乗り切り、ちょっとしたラブロマンスもあり、そしてユーモアありで、
サスペンスのお手本です。

ハイウェイのカンバンで主人公の心理を観客に想像させて、追い討ちをかけるところは流石ですし、
手紙や手錠の小道具や、クルマに馬にフェリーに、廃墟の町や高層ビル、そして自由の女神を使った演出で次から次へと楽しませてくれます。

彼に味方するトラックドライバーや盲目の紳士、サーカス団は、アメリカの国民は自身で決める自由を持っていることを言わんとしていますし、サーカス団の決議はファシストへの警告です。
また、主人公と悪の親玉との、民主主義と全体主義の主張のシーンは、
当時の戦争の経緯を凝縮しているようでした。
また、その親玉はじめ悪人が裕福なのも風刺が効いています。
悪に手を染めるのは主義の違いでもあり、金をもうける手段であることを語ります。

また、ヒロインが最初主人公に協力をしないで、警察に突き出す気持ちも理解できます。
事の本質を見ないのが人であるのです。この主張は、悪の親玉も語っていますし、ダンスシーンにも現れています。

少しアメリカ寄りの造りは製作年で仕方ないでしょうし、話の展開が上手く行き過ぎも感じますが、とにかく娯楽作品として一級品に仕上がっていることは間違いありません。

人物も含めて細かい設定がきちっとしていて、一瞬でストレスなくこちらに伝わります。とても丁寧に練られているのでしょう。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年08月10日 07:27

私の男2013日 熊切和嘉

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題名通りの映画です。

主人公は腐野花。
奥尻島の震災で9歳の時に孤児になりましたが、親戚の腐野淳悟の養女になります。
高校生に成長した花は、淳悟を養父以上の存在としています。
父として慕うを通り越して、淳悟に男のすべてを求めるのです。
花が求めるすべてとは、淳悟自身のすべてと共に、花自身のすべてを淳悟に捧げ、それを淳悟に受け入れさせることでもあります。
淳悟は受け入れ、また淳悟も花に女のすべてを観ています。

もし無人島で二人だけで生きているとすれば、何も問題は起きなかったのですが、
残念なことに無人島ではないから、
親子でありながら、常軌を逸する二人の関係が気づかれると事件が起きます。
震災の時から花のことに親身になっている好々爺の大塩の目には、
淳悟の異常さが花を禁断の隘路に貶めているように見えるのです。
だから二人を引き裂く算段をするのですが、
花にとってはその行為は悪魔です。身を守る手段として大塩を殺害してしまいます。
そこからは二人の逃避行で、東京へ。
けれど安住はできず刑事が追ってきます。すると今度は淳悟が刑事を。
という展開です。

この物語はサスペンスではありませんから、二人が犯した社会的な罪への言及はありません。物語を構成する要素としては重要ですが。

花が震災から成長し、二人が二人の世界を完成させるまでの北海道での前半と、
逃避行後、花が大人の女に成長し、花は立場上だけ淳悟と別れ、結婚するまでの後半で、
時間の経過で二人はどうなっていくかということが綴られます。

花が淳悟を、淳悟が花を求めることが永遠には続かないのではないかと、
結局は長い人生でのひと時の戯れになるのではないかと、
私は時間経過で二人が変わるのではないかということがとても興味深く、この映画はそれに応えてくれました。

私の予想は見事にはずれました。
二人が二人を求める心は永遠だったのです。
振り返れば当然でした。
お互いはお互いのすべてなのだからです。

花にとって淳悟は、恋人で夫で、父で、そして息子です。淳悟も同じく花は恋人で妻で、母で娘です。
切れるわけがないのです。

花は、奥尻島での震災での心的外傷が、
淳悟は、子供の頃の家族環境があまり好ましくなかったことが、この根深い関係の原因ということを映画は仄めかしますが、それらは二人が寄り添うことになる引き金でしかない、原因のひとつでしかない、位です。少なくと私は映画からはそう解釈しました。

だからもっと大きな力が二人に働いていたはずです。
それは何かまではピン来るものはないのですが、
花が淳悟に、淳悟が花に、すべてを求める心の動きは特別なものではないということが、私の心の中にも潜むことも否定できなくて、また、ひっかかります。

映画では淳悟は最後は甲斐性なしのダメ親父に成り下がっています。
けれど、花を愛する結婚の相手を含め、登場する二人の若者(将来性も経済力もある)にまったく負けていないのです。
花にとって必要な男としてです。

社会的に優位に見える価値観を否定しているかのようなラストです。
人と人との関係性は何よりも勝ると言いたいような描写です。

花と淳悟は互いに永遠の存在です。
ただ社会的には二人の関係は認める訳にはいかないというだけなのです。
二人はそれを取り除いてしまって二人の世界を築いていたのです。
そしてそれは何事にも換えることができないものだったのです。

追伸
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【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年08月02日 06:53

インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名も無き男の歌 2013米 ジョエル・コーエン、イーサンコーエン

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意地だけは一人前の売れないフォークシンガーのルーウィンが、覚悟を決める物語でした。

1961年のニューヨークのカフェで弾き語りをするルーウィンから始まり、
街を彷徨い、旅に出て、家族に会い、自分の往く道に悩み、でももう一度カフェに帰り、封印していた歌を歌います。
これからも、自分の意のままに行こうというルーウィンですが、どうにもこの後も前途多難を匂わせて映画は終わります。

ルーウィンは、この後も多くの人に認めてもらえることもなさそうだし、いい年で食うことにも事欠く生活も変わりそうもない。けれど、“俺にはこれしかない”そんな覚悟が窺えます。

売れないといってもルーウィンは実力が十分にあります。ニューヨークでも旅先でも、プロヂューサーの意向に沿えばソコソコの暮らしはできそうです。
また、金儲けも立ち回りもどうにも下手糞のようで、それもあって裏目裏目で上手くいきません。
でも信念だけは譲らない強さ(意地)があります。
それは、亡くした相棒との約束なのでしょうか?
単に彼が固執しているだけか?それは解りませんが、ルーウィンは生理的に、
自分の歌を歌う以外は受け付けないのです。

家族とも上手くいってません。まあ良い年で売れないフォークシンガーで、人に迎合しない性格ですから、宣なるかなです。

この物語はカフェではじまりカフェで終わる間にルーウィンが関わりある人達と彼なりの決着をつける物語です。
音楽仲間(そのうちの一人の女性とは妊娠騒動があった)、亡き相棒と組んでいた頃からの支援者、父(家族)、そして自分です。

ラストに相棒と一緒に歌っていた歌を封印から解きます。
表向きは、きっとこのままでしょうけれど、自分の中だけですが覚悟を持ったルーウィンです。それを私自身に重ねて勇気を貰った、嬉しくなる映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年07月26日 07:46

道中の点検 1971ソ アレクセイ・ゲルマン

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同じ国の人間同士が殺しあう悲劇。
もちろんそれが起きたのは大きな力に対して個の力は無力だからです。
しかし、裏切らなければならないにしても、
裏切った男は苦悩から抜け出ることができません。最期まで。
そういう映画でした。

舞台は第二次大戦のソ連。
ドイツ軍とパルチザン(ゲリラ)が争う村です。村人も戦火に追われる激しい戦いが日常化しています。
元ソ連軍の伍長ラザレフが、パルチザンに投降してきました。
彼は、已む無くドイツ軍に参加していたソビエト人のドイツ兵でした。
投降しても、同じ国民でも、裏切り者としてドイツ軍の捕虜として扱われます。
軍の者達はドイツのスパイではないかと疑いますが、
隊長のロコトコフは彼が本気であることを信じます。
ラザレフ自身は、作戦に参加してそれを証明しようとします。

ラザレフは、ドイツ兵の捕虜ですから処刑されてもおかしくないという立場です。
彼はドイツ兵として同国人を殺害することもあったし、
今は、同国人にドイツ兵として見られ、同国人に処刑されるかもしれません。

こんな状況にはもちろんなりたくてなった訳はありません。
ソ連兵時代にドイツに占領された時に、死か寝返るかの選択を迫られたのでしょう。

そんな自分が許せないけれど、パルチザンとしてなかなか受け入れられないという悲劇です。

ラザレフは、作戦の成功のために必死です。
彼は裏切り者のままで死ぬことは、
死んでもできなかった男でした。

物語の最中に、パルチザン側が橋を爆破してドイツの貨物列車を川に沈める作戦がありました。
橋に爆薬を仕掛け、列車を待っていると、橋の下をソ連人の捕虜を詰め込むだけ詰め込んだ船が、丁度列車が通る時に橋の下を通ります。
パルチザンの工作員達は爆破することをためらいます。
同胞まで道連れにできないからです。
なのに、各所ではラザレフのような者達ができていっています。

戦争は何でもありになります。
その犠牲は途方もないことを、今まで気づかない視点で見せる映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年07月21日 06:10

愛の嵐 1973伊/米 リリアーナ・カヴァーニ

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生存の保障が崩れてしまった中で生きることで、精神を破壊された女ルチア、
彼女を破壊した男マックスと二十年ぶりに偶然出会いました。
どうしてその男に身を寄せてしまったのかを図ることは到底できないので、
彼女の行動は彼女にはそれしかできなかったと思うしかありません。

そんな二人をはじめ、戦後12年経っても戦後なんてない人物が登場し、悲劇が起こる物語です。彼等の心に残るものを消すことは一生できないのだと認識するのが精一杯でした。

強制収容所で権力を振るう側にいたマックスは、支配された老若男女の中から美少女のルチアを見つけます。
仲間が次々とおもちゃのように殺されていく日々に、彼女はマックスの慰み者となり生き永らえます。

有名な指揮者の夫と幸せな日々だったはずのルチアでしたが、1957年、夫の演奏のために訪れたウィーンのホテルでホテルマンとして働くマックスと出会います。
一刻も早くそこから逃れたいルチアでしたが、どうしてもマックスから離れることが出来なくなってしまいます。
夫がウィーンから次の公演に旅立ってもルチアはマックスの下に残ります。

マックスはナチスの残党に警戒されていました。そこに強制収容所を知る生き残りのルチアが現れたので、彼らはルチアも警戒します。マックスとルチアは残党達に命を狙われてしまい、マックスのアパートに篭城になります。
収容所時代のような、監禁と命がいつ果てるかの恐怖の中で二人は過去に得た快楽を貪るようになります。けれど兵糧が尽きていくに連れて疲労する二人、どうすることもできず、死に装束としてマックスはナチス時代の軍服に、ルチアも収容所時代と同じような服を纏い、アパートを後にします。二人を待っているのは残党達からの引導でした。

常軌を逸したシーンが続けざまに続きます。
マックスもルチアも目の前の意識しかない表情です。
飢えた中で食料があれば貪る、相手と快楽を求める欲望が出ると体を求めあう。恐怖に襲われると狂ったようになる。
そして残党達も同じです。戦時の精神のままなのです。

命がいつ尽きるかも解らない中で破壊された精神も、
弱者をなじることで意識をつないだ支配する側にも壊れた精神という代償があり、
彼らには戦後なんてないのです。
死ぬまで戦時のような精神で生きているしかない、そんな映像でした。

深い深い傷しか残らないのが戦争です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年07月20日 07:14

私が結婚した男 1940米 アーヴィング・ピシェル

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ナチズムに感化された集団を醒めた目で観る映画ですが、
私も私が気づかない何かに感化されているはずです。
ただ、それが社会的に問題にならないだけで。

1938年ドイツ、大戦前夜ですが、すでにオーストリアは併合され、チェコに侵攻しています。ドイツ国民の多数はヒトラーを支持し、ドイツ人(アーリア人)は優れた民族として他国を侵攻することは当然という意識になっていました。
この映画は、そんな渦中にニューヨークに住む3人の家族が夫の故郷のドイツに旅行に行っての出来事です。
製作年が示すとおり非常にリアルに、当時のドイツの人びとの心理と、国家が国民よりも優先される様子、その異常さと感化された彼等を観る米国人の妻の視点が描かれいます。

夫のエリックはアメリカ人の妻キャロルと長男の3人でニューヨークで不満なく暮らしていました。3ヶ月の休暇をとって故郷に帰国するところから物語は始まります。
当時のドイツの現実は見事にナチズム一色でした。
エリックは幼馴染の女と合い、徐々にナチズムに傾倒していきます。

キャロルはなんとか夫を連れて帰国を希望しますが、エリックがナチスに入党した事実を知り、長男を連れて二人で帰国することを決めますが、エリックは長男をキャロルに渡そうとしません。
滞在中なにかとキャロルに親身に接したアメリカ特派員の協力を得て長男と帰国をしようとしますが。

エリックとキャロルはニューヨークの友人に、友人の兄が収容所に入れられたので、賄賂で出所させて欲しいという依頼を受けます。(500ドルという大金を使って)
しかし哲学者(思想家)の兄は既に抹殺(表向きは病気)されていました。
それをはじめ、情報統制や違法行為、そしてアーリア人以外の民族への差別と迫害がまかり通る世の中を映します。

映画ではエリックの父親が重要人物として描かれます。
新しいドイツという風潮に警戒しています。
彼は「戦争が起こった方が良い。狂った人がまともになるにはそれしかない」と言います。
もう破滅する未来を迎えることに逃れようがないことの悟りです。

そんな父親に対してエリックと幼馴染の女はなじるばかりです。このあたりは演出でもあるのでしょうけれど、国家に楯突く者が親だったとしても許さないという、人でなくなっている姿を強調します。
そしてキャロルが帰国を決めた時、エリックは長男をアメリカに帰しません。その言い分は「子供は国家に帰属する」です。「ドイツにいれば勇敢な男になれる」とも言います。
それに対して父親は「子供は国家の前に母親に帰属する」「それが自然の摂理だ」とエリックに言いますが、エリックと幼馴染は受け付けようとしません。

人はこうも感化されてしまうのか、という図です。

ラストはエリック出生に纏わる衝撃の事実が父親から明かされて、エリックは絶望し、キャロルと長男は無地帰国の途につくことができます。

ナチスが台頭した背景は複雑ですし、もちろんヒトラーはじめとした戦犯の責任は多大です。でも民衆がいとも簡単に、簡単ではないかもしれませんがあれだけの変貌をしたことや、人を人とも思わない人間になったのは事実です。
自分の価値観なんて本当にあてにならないと思わずにはいられませんでした。

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【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年07月19日 07:13