銀幕倶楽部の落ちこぼれ
さらば、わが愛/覇王別姫 1993香 チェン・カイコー
中国の伝統芸能の京劇の二人のスターとその一人の妻の3人の人生を通して、
中国の近代史を語っている大河ドラマです。
3時間という長い尺からも推測できましたが、
京劇を再現している舞台、衣装が素晴らしい、それだけでなく、
清朝末期から、日本軍の占領時代、戦後の国民党の時代から共産党政権になり、文化大革命までの中国を丁寧に再現している大作です。
幼少時代に知り合った二人の男はやがて京劇界を代表する役者に成長します。
小楼と蝶衣です。女形の蝶衣は小楼を兄と慕い、友情を超えて愛情を持つようになります。
そこに現れた菊仙は小楼と相思相愛で妻になり、ここから3人の三角関係が始まります。
二人の代表作が覇王別姫で、この劇のクライマックスは、四面楚歌で絶望になった楚王のために最期まで添い遂げる虞姫の愛の舞と自決です。
どんな政権になっても京劇の舞台は必要とされますが、二人の思うようにはできなくなります。
それがピークに達したのが文化大革命で、京劇も破壊されます。
京劇という芸術でしか生きられない二人の運命は翻弄されます。
多くのエピソードがありますが、印象的なのは、蝶衣が阿片に溺れるところです。
蝶衣は小楼への愛を表現できるのは舞台の上での虞姫の時だけでした。現実では菊仙がいます。
だから蝶衣は阿片に頼り、舞台を現実にすり替えようとします。
虞姫になりきっている蝶衣の美しさは男とは思えません。女以上の美しさです。
その蝶衣に現実は残酷なのです。
映画は文化大革命が終わり、京劇が再び脚光を浴びる時代を映し、すぐに1934年に飛びます。そして順に時代がくだり、最初のシーンに戻ります。
そのラストは、蝶衣が虞姫に完全になりきり、楚王(小楼)の前で剣の舞をして自決するところで終わります。
この前段階は文化大革命で、楚王がそうであったかのように小楼が共産党員につるし上げられて四面楚歌になるシーンです。
この物語は劇中劇を演じる役者に現実を重ねながら、中国を語るという脚本で、大きく揺れた3人と大きく動いた中国が重なり見応えがありました。
蝶衣を演じたのは、幼少時代、少年時代、そして大人になってからの3人の俳優ですが、幼少時代、少年時代の2人ともに中性的で女形の雰囲気が漂っていました。
そして圧巻はレスリー・チャンです。
妖艶さ、美しさ、舞台上での映えある様にはうっとりしました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
17歳 2013仏 フランソワ・オゾン
彼女は私(観客)を拒絶します。
映画の中で彼女に関わる人びとも拒絶します。唯一ジョルジュを覗いては。
彼女の名はイザベラ、17歳です。
夏、経済的に恵まれているイザベラは家族とリゾート地でバカンスの最中です。そして、17歳の誕生日前夜に、行きずりの男を相手に処女を捨てます。
彼女にとっての儀式です。
秋、イザベラは二十歳と偽り体を売ります。金が目当てでも、快楽が目当てでもありません。そして、同世代には目もくれません。まるで思春期をもう通り越したように振る舞います。
多くの男と関係します。たった一度の交わりです。けれどただ一人ジョルジュとだけは何度も会いました。そしてある日、行為の最中にジョルジュが持病の心臓の病で、心臓麻痺で亡くなります。
冬、警察がイザベラの母のところに行きます。彼女の裏の姿が明らかになり動転する母、自己を責めますがイザベラにとってそれは全くの的外れです。
その後、表面的な行動は更生の最中のイザベラです。彼女にとって売春は手段(何のためということが映画のテーマです)ですから、それをやらないことは何でもないことです。そんな時に同級生の恋人ができます。自然に肉体関係になりますが、その途端にイザベラは彼を捨てます。
春、イザベラは、ジョルジュの妻が彼女に会いたいことを知ります。ジョルジュが亡くなった部屋で会います。ジョルジュの妻は自分が知らない夫の姿を確認したかったのです。そしてその姿を自分に重ねるイザベラです。
イザベラは、家族も含めて誰も彼女を分かり合える人はいないと考えていました。
一番近いのはこれから彼女と同じ17歳を迎える弟ですが、彼は若すぎです。
そこにジョルジュが現れました。
ジョルジュはイザベラを無条件で受け入れる人物です。
今までとは違うイザベラが初めて接する人でした。でも彼はあっけない最期です。
イザベラはだから誰も受け入れないままでした。
そこにジョルジュの妻との出会いがありました。
彼女はイザベラに近い女、将来の彼女を想わせる女でした。
17歳という年齢の私は何を考え何をしたかを追想します。
何をしたかよりも、どうしてその時にそのことをしたかにこの映画の真価があります。
イザベラの行動は、17歳の欲求やあせりです。
新しいものを求める欲求、果てしなく自分を試す欲求も自然です。
また自分自身に対して劣等感を強く持ったり、だから存在を確認したくなったりもします。
私もそんな17歳がありました。
振り返って、
やらないこと、やれなかったこともあります。
ジョルジュの妻もその事に言及します。
その差(ここではイザベラは売春し、ジョルジュの妻は売春ができなかった)は、
ほとんどありません。
結果として問題になるかは別ですが。
イザベラは孤高でした。特別な存在でありたかったのです。これはごく真っ当です。
私も全く同じです。しかも大人になろうとする時の高揚とした時です。
特別でなければ何のために生を受け、これからがあるのでしょう。
いつの頃からか、おとなしい態度になっています。(自分のことです)
蛹はある時に達すると蝶になります。イザベラが変わったことに重なります。でもそれは人生で一度だけです。
いつの頃からか、おとなしい態度になった私は蝶になった頃を、
この映画で思い起こします。
イザベラ17歳の映画です。
彼女の行動に理屈はありません。また誰かに迷惑をかけることもその気持ちもありません。結果がそうならなくても。
ラストの彼女の笑顔は、蝶になったけれど羽ばたいていないイザベラが羽ばたくことを示唆していました。
私は大人になんてなっていないと思う時があります。
でもそんなことを思う時は体のいい時だと、自分勝手だとわかります。
大人になる前は、もっと鮮烈だということをフランソワ・オゾン監督は語ってくれています。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
スーサイド・ショップ 2012仏/白/加
ブラックなミュージカルアニメです。
未来に希望が見出せない街が舞台で、街の人びとは疲弊し、生きることに絶望しています。
自殺が絶えないことから公共の場では禁止、罰金です。未遂に終わると自分が、成功した場合は遺族が罰金を支払うのです。
暗黙のうちに隠れ自殺が推奨されます。
街には「自殺用品店」があり、そんな事情からその店(スーサイド・ショップ)は流行っています。
その家族が主人公です。
この店は、自殺用品なら何でも揃う代々続く老舗です。(長い期間、流行っているということ自体皮肉です)
高級品からお買い得品まで品揃えは充実、客の要望に応えられない物はありません。
安楽にすぐに死ぬ=今の絶望からすぐに解放してくれるありがたい店です。
そして未遂に終わったら返金もしてくれます。
街全体に自殺志願者が溢れていますから、繁盛しています。
そして何故か家族4人とも(夫婦と兄と妹)生きていたくない思想の持ち主です。
そこに赤ん坊が生まれます。
この赤ん坊が家族が望まなかった男の子で、生きる活力が溢れています。
成長すると学校の仲間を集めて、明るい街にしようという優等生です。
そのためには、実家の自殺用品店を変えなくちゃとなり、
店を滅茶苦茶にする悪戯をします。
それに怒った父親が息子を死なせようとしますが、返り討ちに合い、
家族全員が改心。
幸せを売るクレープ屋になりました。おしまい。
ということですが、一筋縄にはいきません。
もちろん、明るく生きよう!ということを高々と歌い上げますが、
皮肉が込められています。
冒頭から世の中に希望はないんだよ。のメッセージのオンパレード、
健気な息子の想いが伝わり、妹(生まれた息子の姉)が明るくなっていったりしますが、
基本は暗い家族です。
突然に明るくなることについていけないのですが、それは大筋ということでしょう。
実は、明るい店になっても自殺志願者はなくならない。
そんなシーンもありますし、
こんなに簡単に変わるわけがないという程の変わりようなところが、
皮肉に見えます。
自殺用品を売っているのですから、売り手としては複雑でしょう。
絶望している人を楽にしてやることができる仕事で、未遂に終わる位ならいっそのこと苦しまずにあの世へ送るのが、代々続いているこの店の役割とはいえ、
自殺幇助であることは間違いありませんから、精神が病んでしまいます。
そこへそんなことはやめようという無邪気な息子が誕生しました。
今まで暗く生きることが当たり前の家族にとって驚きというところです。
絶望の街、いかにもそれを現わしてる絵(登場人物達)、こういうブラックな設定ですが、ミュージカルで進むので見せきってしまいます。
家族の名前も、
父親はミシマ、日の丸針巻きで日本刀を振るいます。もちろん三島由紀夫を重ねています。
そして妹の名もマリリンです。裸で踊るシーンもあります。
母親(ルクレス)と兄(ヴァンサン)と息子(アラン)も自殺した人物と重ねているようです。
それらを含めて、演出がとても上手いなと思いました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
時代屋の女房 1983日 森崎東
片想いを描いたファンタジーのようでした。
主人公の安さんは時代屋という古道具屋を営んでいます。
ある日そこに、真弓という美女が捨て猫と現れます。
真弓は時代屋に居つくのですが、苗字も素性も一切が謎です。
しかも時折ふらっといなくなり、数日経つと何事もなかったように笑顔で帰ってきます。
ネコは飼い主に媚びを売らないで、
餌と宿はもらうけれど、自由は奪われない、
そして、可愛がってもらいたい時は、ゴロゴロ言いながら飼い主のところに来る。
真弓もそんな感じです。
また真弓は、男なら誰しも惹きつけられてしまう女性です。
美人であることもさることながら、一緒に居る時は可愛くてしかたがない、
そして本心から自分のことを想ってくれていると解る女性です。
でもふらっと居なくなる。
物語はミステリアスな展開になります。
私は真弓は安さんの幻影なのかとも思いました。
そしてこの映画自体がファンタジーのようにも感じました。
安さんはじめ、近所付き合いをしている人達の描き方からです。
製作当時の生活感が盛り込まれているのですが、
どこか生きる大変さは意識的に削がれているような感じだからです。
へんな言い方をすると、安さんも含めて食べていけるのかなという感じです。
(津川雅彦が喫茶店のマスターでしたが、その店は倒産してしまいましたが)
また、真弓が今度こそ帰ってこないという感じになると、
(夏目雅子が二役で)美郷という女性が現れます。
そして美郷も安さんに恋します。
安さんは、父親とは断絶しています。
母親ともあまり上手くいっていない少年時代だったようです。
そしてたったひとりで時代屋を営んでいました。
そんな安さんの幻想のような物語です。
なぜ真弓が現れたのか?
安さんというようりも男が描く理想の女性でした。
けれどその女性は安さんの下にずっと仕えることはありません。
その方が真実味があります。
だからこの物語は、ひと時の夢をみてしまうロマンチックな男を描いています。
なんだかんだ言っても男ってそんなものです。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ニワトリはハダシだ 2003日 森崎東
舞鶴が舞台なので、戦後間もない引き上げ兵や、帰国できなかった朝鮮の人達
のことが示唆され、また、北朝鮮へ運ばれていく廃車や廃自転車の映像も映ります。
そして、知的障害者が登場し、彼らが国家が振るう暴力を受けるという話ですから、
重いテーマがたくさん盛り込まれています。
大きな声や暴力シーンもありますが、森崎東監督ですから喜劇仕立てになっています。
知的障害者の兄妹のチチは原田芳雄、ハハが倍賞美津子(離婚していますが近所にいます)、
そして兄妹(サムと千春)の養護施設の先生の直子(肘井美佳)、この3人がとにかく熱いのが印象的です。
家族(生徒)想いです。一心不乱です。
自分はこうも熱く生きているかと省みてしまいます。
そして森崎東監督の憂いを代弁しています。
何か事が起こるとサムは、その事象だけを判断材料として、
本能的に良い悪い、好き嫌いで感情をむき出しにします。
ストレートなのです。
体裁なんて気にしません。
チチもハハも直子も、サムほどではありませんが、
体裁なんて二の次です。
全てのシチュエーションでそれでは社会生活は成立ちませんが、
譲れないものを犯される時、それは国家が暴力を振るうというこの映画の設定のような、
生死に関わることやこれからの人生を決めてしまうような大きな事でなくても、
人として真っ当に生きていくことを犯そうとする力が働いた時や誘惑があった時、
体裁なんて無意味で、力を振り絞れば良いのだということを見せてくれた映画でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ぼくたちの家族 2013日 石井裕也
実は、崩壊していた家族だったというテーマの映画、
または壊れた家族の再生物語という映画、
一見するとその部類に分けられてしまいそうでしが、
今までのそれらとは一線を画す映画です。
崩壊していたと家族が皆決めていたけれど、実は壊れてはいなかった。
それを確認する物語です。
物忘れを気にする妻の玲子が病院に行くと、脳腫瘍で余命わずかと宣告されます。
家族は、会社経営はしているが稼ぎが悪い夫(若菜克明)、家もクルマも分不相応で、しかも何も決められないダメ親父でもあります。
長男(浩介)は結婚していて妻(みゆき)が妊娠したばかり、みゆきは若菜家が特に義父が金にだらしなことに不満です。
次男(俊平)は留年している大学生、お調子者です。玲子は可愛くて仕方ありません。その母に金の無心をしてその時を楽しむタイプです。
入院しても克明は浩介を頼るばかり、これからどうして行くのかも、治療費もです。
浩介は中学の時に引きこもりになっていたことを悔いています。そして、その時から家族は壊れていったことを俊平から言われてしまいます。
今も浩介はそれを引きずっています。また長男だからという観念も強いので、今回も何とか家を(経済的にも精神的にも)持ちこたえようと必死です。
入院間もなく俊平は家の内情を知ります。
克明には家のローンと会社の負債合わせて6500万の借金があること、玲子は10社のサラ金から300万の借金をしていたこと、そして、克明はそれを止めることすら出来なかったこと、そしてこの夫婦はそんな状況でも贅沢をやめようとしていませんでした。
だから、浩介はみゆき(生まれてくる赤ん坊を若菜家の騒動に巻き込んで不幸にしたくない)との板ばさみになります。
俊平は克明に自己破産を求めますが、自己破産すると、保障人の浩介が1200万の負債を抱えるという仕組みになっていることを説明され、愕然となります。
このまま手を拱いていれば、玲子は死を待つだけ、そして家族は自分達の生き様そのものを否定して終わることは3人とも勘付いています。
入院した地方の病院では治療の術がないと言われます。
追い込まれた浩介は抵抗することを決めます。
玲子の治療が出来る病院探しです。俊平も手伝います。
絶望しかない所から少しずつ光明が芽生えます。
そして、物語は。
4人とも逃避していました。
克明は金が回らないことへの直面にです。
玲子も同じで、サラ金からの借金で、ささやかな夢を見ることで逃避していました。もちろん、俊平に小遣いを与えることを至福としていました。
俊平はお気楽極楽です。
そして浩介も、本当のことを親にもみゆきにも上司にも、言いたくないことは言わないでいました。確かに真面目に、みゆきにも生まれてくる子供にも何不自由ない生活をさせるだけのことをしていましたが、肝心なこと(このままではいつか実家に夫婦の生活が脅かされること)から逃げていたのです。(仕方ないと言えることですが)
このまま玲子を失うと、克明はダメ親父のダメ押しになり、浩介は自己を責めることになり、俊平は本当の風来坊です。そして若菜家と克明の会社、浩介の家庭がなくなります。もう待ったなしの状況が訪れたのです。
各々がそんな状況ですから、俊平の「とっくに家族は壊れていた」という言葉は身に染みていたことです。でも事を起こすと違う展開になります。
浩介は吹っ切れたかのように、弱さを俊平に曝け出します。そして野望を持ちます。
俊平も玲子のために、克明のために、浩介のために、動きはじめます。
良い方向へ流れ始めます。もちろん今までが今まででしたから、大きな痛みは伴いますが。
この家族は壊れてはいなかったと私には写りました。
克明は逃げる男で、父親(夫)失格です。特に経済的に。
でもそんな克明でも、玲子にも、二人の息子にも愛されていたのです。
玲子が重病というこれ以上ない大きな事件で、玲子が求めていた「家族仲良く」は証明されました。だから家族再生の物語ではありません。
現代人は賢く、そして淡白になっているような気がしました。
少し上手くいかないと、とっくに家族は崩壊している。と決め付けます。
本当にそうでしょうか。
そして何でもそういう決め付けで解決して終わりにしてしまう、それは生きることに淡白になっていることではないのかと、この映画で感じました。
子供に迷惑掛けても親は親です。その逆ももちろん。
たかだか自己破産で家族が崩壊なんてことはない。
そう思い込もうとするだけ。生きること自体から逃げる行為。
そんなことを痛感する映画でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
アデル、ブルーは熱い色 2013仏 アブデラティフ・ケシシュ
大人になれない人々(私)への警告と、大人になろうとする気概を認めてくれている映画でした。
アデルとエマの同性愛者が愛し愛され、でも破局してしまうメロドラマの形式を通して、自律しようと努力して自立するエマと、エマから自律を促されても自律できない、大人になれない(なろうとしない)アデルを対比して、自己責任である人生の行く先を考えさせます。
エマを一途に愛するアデルは、エマと愛し合うことを終着点としてしまいました。そんなことはエマにとってはありえないことです。
寂しいからという尤もらしい理由で浮気してしまったアデルは、自分が取り返しが付かない行為をしている自覚すらありませんでした。
アデルは人生の行方は偶然だと思うようにしています。けれどエマは「人生は必然」であると考えていて、それを踏まえて自己責任で生きています。
この違いは二人が暮らす環境がもたらしたことでもあります。けれど、自分で人生を開くとしたら、それを踏まえて乗り切らなければならないのに、アデルはエマからどんなに促されてもそれがわかる事はありませんでした。
破局を迎えて、でもエマに縋りつくしかアデルにはできなくて、でもエマからよりを戻すことはできないと引導を渡されて、ようやく必然の人生を生きる決心をしました。
この映画は、アデルの日常をドキュメンタリーのように映します。彼女の心理がどんな状態かをどんな意図があるのかを示すシーンではカメラは省略をしないようにしています。
二人が愛し合う濃厚なシーンだけでなく、無邪気なアデルの食べる、寝る、夢見るシーン、高校時代の友人と議論、喧嘩のシーン、教師になってから彼女が世間で振舞うシーン、すべて彼女の意図を匂わせています。
そして、エマと彼女との境遇の違いも、食べる、寝る、議論(パーティー)の描写で語ります。
生まれた階級差から始まる、同性愛に対しての考え方をはじめ、自律的な生き方の考え方の二人の決定的な違いが少しずつ露になり、必然の破却を迎えます。
それを受け入れることを拒むアデル、そしてそれを乗り越えようとするアデルまでを映して映画は終わります。
アデルは私たちです。エマは私たちがああやって生きようと今はできていない生き方を思い描いている姿です。でもお茶を濁しているのが大概です。
アデルが幸せの絶頂にいけたことは偶然で、エマに受け入れられなくなったことは必然で、それは観客自身の現状の立場を示唆しています。だからそこが警告で、しかし、エマとの決別まではできたアデルを映すことで、私たちのこれからの生き方への気概を認めていると思えるラストでした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
アメイジング・スパイダーマン2 2014米 マーク・ウェブ
3Dの吹き替え版で鑑賞しました。
強い意志と正義感で必死に社会に尽くすスパイダーマンに対して、
嫉妬し、嫌悪を感じる人びとが出てきます。
社会に生じてしまうルサンチマンがテーマかなと、最初は考えながら観ていましたが、
そうもそうではないようで、
次には、恋人の亡き父親との約束(愛している恋人を一緒にはいない約束)と、
自分との葛藤を主にしているかな、と思ったのですが、それもスルーで、
ストレートな恋愛物語なんだと見ているとそうでもなく、
主人公は両親と不可解な別れを経験しているようなので、
両親からの自律が主題かなとも感じていましたが、
それが掘り下げられるようでもない。
そこであまりそんなことを考えずに鑑賞しましたが、
それが正解だったようです。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ブルージャスミン 2013米 ウディ・アレン
「欲望という名の電車」のプロットを使ったウディ・アレン監督のブラックコメディです。
個人の人格が、個人の欲や見栄や怠惰と、社会構造の影響で壊れていく様は、
主人公のジャスミンも、欲望の名の電車のブランチも同じですが、
ジャスミンにより悪意を感じます。
そのあたりがウディ・アレンなりの解釈でしょうか。
大詐欺師の夫のお陰で贅沢三昧の暮らしをしていたジャスミンですが、夫が逮捕され一文無しに。
そこで優しい妹(親は違う)を頼ってニューヨークからサンフランシスコへやってきます。
一文無しなのにファーストクラスに乗り、身なりは全てブランドで固められています。
そうです。ジャスミンは贅沢な暮らし以外を知らない、できない、洗脳された女です。
今日食べるものもないのに、妹の庶民暮らしや、粗野な恋人としか付き合わない妹のことをなじります。その癖、自分は何もできないのに、インテリアデザイナー気取りです。終始こういう汗を流すことの価値を感じない女とその状況をコメディとして上手く監督は演出して、主演のケイト・ブランシェットはそれに応えています。
セレブの生活から追われ、健気な妹のところへ身を寄せる、そこには粗野な恋人がいる。主人公はそれでも自分は優れた、妹達とは違う人間だと息巻いて、セレブの自分を見つけてくれる王子様が必ず現れると信じている。
ジャスミンとブランチはそっくりです。
そして、実際に王子様が現れますが、自業自得で夢はかなわないところも、自己が崩壊していくところも同じです。
しかし、決定的な違いは、ジャスミンはいつも確信犯というところです。
湯水のごとく金がある生活は、夫の詐欺師であることを見ないようにします(現実を見ないのはブランチも同じですが)。そしてその生活へのケリの付け方からもそれが匂います。
ジャスミンは自分の領域を侵す者に対して容赦がないのです。
これは現代社会の先進国の人々が陥っている心の仕組みをウディ・アレンがあざ笑っているようです。
他人のミスに対して容赦ない気持ちを持ってしまう風潮があるように感じます。もちろん、人によりけりですが、風潮があることへの警鐘だと思うのです。
結局ジャスミンもブランチ同様に堕ちていく悲劇ですが、「欲望という名の電車」ではブランチの個へのアプローチが主なのに対して、この映画の場合にはブランチを通して個と社会の関連が主に語られているととらえました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
孤独な天使たち 2012伊 ベルナルド・ベルトルッチ
映画は精神科医と14歳の少年の対話から始まります。
その後の母親との会話でもわかるのですが、主人公の少年ロレンツォは学校(社会)になじめない性格のようです。
そのロレンツォが学校のスキースクールに参加することを決めたことを受けた母親がとても喜びます。
そしてこの物語はここから始まります。
ロレンツォは1週間のスキースクールには参加しないで、自宅のマンションの地下室で孤独を満喫する計画を立てていました。
食料を買い込み、パソコンもお気に入りの音楽も本も、1週間分そろえてロレンツォのスキースクールがはじまりました。
一人を楽しんでいると、地下室に異母姉のオリヴィアがやってきます。彼女は自分の荷物をとりに偶然ここにやってきました。オリヴィアはロレンツォの母親と(父親をとられたことが消化できていないので)折り合いが悪く、数年ぶりの再会でした。
用事を済ませたオリヴィアは一旦は地下室から出て行きますが、行き場がないことから、舞い戻ってきます。秘密を漏らされたくないロレンツォは仕方なくオリヴィアを迎え入れ、ちょっと可笑しな1週間になります。
一人を楽しみたいロレンツォはオリヴィアに振り回されます。
オリヴィアは写真家としての才能があり、将来を期待されていたようですが、今は麻薬中毒に犯されていました。良い縁談がまとまりそうなので、薬を断とうとしていた時に地下室に転がり込んできたので、それに付き合わされるロレンツォはたまりません。
禁断症状で苦しむオリヴィアを介抱します。
二人は姉弟ですが、今も含めて育てられた環境が違います。母親も違いますし、ロレンツォは箱入り息子ですが、(説明はありませんが)オリヴィアはそんな環境ではなかったようです。年齢も10歳くらい違うようで、父親も二人に対しての接し方はかなり違っていたようです。
姉妹であっても別々に暮らしている、あまり合うことない、でも他人ではないという、二人の関係は距離があるけれど、分かり合える部分も多いという感じです。
その奇妙な1週間の生活で二人が少しだけ変わっていきます。
孤独でいたいロレンツォは、孤独が好きなのと同時に外部をシャットアウトすることも目的でしたが、外部とシャットアウトをしないで孤独でいることを選べるようになっていくのです。
それはオリヴィアも孤独であることを感じ取ったからで、彼女はロレンツォよりも一見社交的に見えますが、心に抱えるものは自分と同じ、いやそれ以上に一人で生きていると思ったのです。
いよいよ最後の晩、二人は約束をします。
オリヴィアはロレンツォに“薬を断つこと”を、
ロレンツォはオリヴィアに“引き篭もらないこと”を。
でも多分二人はこの約束を守らないでしょう。(その暗示はありました)
二人にとってとても大事なことですが、極端に言えば約束の内容は何でもよかったのです。
この体験を心に刻んでおくために必要だったことです。
そして、地上に上がるための儀式としても必要でした。
二人は二度と会わないかもしれません。
でもお互いが抱える孤独の意味を理解し合えた他人(姉弟)がいることを手に入れました。
人生の中ではほんの短い一瞬のような時間で、人生が決まったり、変わったりすることがありますが、二人にとってこの1週間はまさにそのひと時でした。(綺麗な映像で説明なく進むベルナルド・ベルトルッチ監督らしい映画でした。だからこの感想もほとんど私の解釈です)
この物語には動物が登場します。
檻(水槽)の中をウロウロするアルマジロ、同じく水槽の中でじっとしているカメレオン、そしてロレンツォが地下室まで持って来た蟻の巣、そして蟻は地下室から地上にいきます。
ウロウロして(外部とシャットダウンしている)地下から抜け出せないロレンツォや、色が変わる、変化するかどうかのロレンツォとオリヴィアを指しているのでしょう。
小道具の使い方も、そして注目されている音楽の使い方も粋な映画でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】