銀幕倶楽部の落ちこぼれ
カノジョは嘘を愛しすぎてる 2013日 小泉徳宏
お互い好きなのに、状況、環境で引き離されてしまうという、
よくある恋愛ドラマですが、もう資本主義は成立たないことを、
こういうドラマでも嫌ってほど感じてしまいます。
主人公は曲つくりの天才クリエーターの秋。
ヒロインは、こちらも天才シンガーの原石の理子。
秋は現在大ブレーク中の人気バンドクリプレの元メンバーでしたが、
音楽業界に裏側を知って脱退、ただし、幼馴染がやっているクリプレに曲を提供しています。
ある時恋人のい人気歌手茉莉との関係が嫌になっている時に理子に出会います。
純粋な理子に恋します。理子も只者ではない秋に惹かれます。
けれど、茉莉はじめ、資本主義の権化のプロデューサー高樹や、秋に変わってクリプレのベースの天才ベーシストの心也の画策で理子と寄り添えないというお話です。
悪役(というほど悪役ではありませんが)の3人に道理(茉莉は微妙ですが)があって、どちらかというと、秋の方が我侭というところが味噌です。
その道理というのが、もう機能しなくなってきている資本主義という構図です。
まあ純粋に二人の純愛が成就するかももちろん気にかかりますが、
音楽業界を題材にして、これから価値観が変わっていくことを提示しているようです。
消費者が消費したいものを手に入れる、その方法として便利だということで発達した資本主義でしした。音楽を含め本来はそれ以上でもそれ以下でもなかったはずが、どうやって消費させるかという方向へあまりにも過剰になっています。
まあ経済が拡大するという大前提の上で日本経済は成立たせているから仕方がないのですが。
その価値観が崩れるのは間違いありません。
この映画の主人公二人の抵抗は(純愛と)そこに原因があります。
追伸
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【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ジャッジ! 2013日 永井聡
バカ正直で不器用な男と、その隣であきれながらも優秀な女が人肌脱いで、
なんとかなる。
ちょっと教訓が入ったラブコメディです。
ダメ男だけど一生懸命だから神が味方してくれたような男が主人公です。
相手役は、クールビューティでギャンブル好きの才女ですが、彼に心が傾きます。
主演二人も結構尖ったキャラクターですが、
その他にも多様なキャラクターを設定して、
架空の広告祭という舞台を作って、その上でたくさんの出来事が起きますが、
伏線を含めて広げた風呂敷がちゃんと回収(畳まれて)されていきますから、
安心して楽しめる映画でした。
良心に素直になろうという教訓は、ちょっとベタですが、
そんなことが頭の片隅にもよぎらないような世界観の人物にとって、
新鮮ですし、実直にそれを実行することで、心が変わるのは普遍的です。
彼女が主人公に惹かれていくのも自然だし、
国際広告祭ということで、多民族が彼を慕うところもよかったです。
ここにもメッセージが込められていたのでしょう。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
バイロケーション 裏 2013日 安藤麻里
裏ヴァージョンも鑑賞しました。
複雑な絡みを復習していくという気分でした。
一回目の違和感(最後に結びついていたことですが)を確認していく感じです。
ラストが変わっただけなので二度観て思うことが感想になります。
(裏ヴァージョンの方がハッピーエンドです)
バイロケーションという存在が改めて本物と何も変わらないことを確認しました。
どっちが本物もどっちが偽者もない。これは一度目では気がつきませんでした。
無意識的に本物とバイロケーションを違う存在として決め付けていたのです。
この物語のメッセージは共存ですが、
自分が可愛いくて仕方がない厄介な人間という奴は、受け入れるということが苦手だとほとほと感じました。
本物とバイロケーションのコンビが4組登場します。(過去を含めると5組です)
この中で共存できたのは一組だけ。
お互いとても我侭、人って本当に度量がない、と見ていて恥ずかしくなるくらいです。
そして物語の書かれ方としては、バイロケーションの方が本物よりも人間味があります。
バイロケーションも人間ですからこう書くと差別的ですが、ここにメッセージがあると捉えたから書きました。
手塚治が鉄腕アトムで、ロボット法を作りその中身は、ロボットは人に尽くすこと、忠誠を誓うことという内容で、それに対してロボットが人格を求める話がありました。そしてロボット達の方がはるかに人間味がある話でしたが、それにとても似ている物語だと思いました。
人間界が大事、もっと狭くなると民族が大事、もっと狭くなると国が大事、といったように共存なんてことをいつまでも後回しにするのが人間なんだと、
二度目はそんなことを考えてしまいました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ゼロ・グラビティ 2013米 アルフォンソ・キュアロン
宇宙空間に放り出された女性宇宙飛行士が生還できるか。
物語はこれだけですが、
これと、宇宙空間(無重力)での描写を突き詰めた映画です。
重力がどれだけありがたいか、
というよりもその前提で生きていることが嫌ってほど伝わってきます。
放り出されたら絶望しかない宇宙空間で、主人公のライアンは何度も“生”をあきらめます。けれど彼女を支えてくれるものが現れます。
舞台は宇宙ですが、人間が生きることはどういうことかがテーマです。
ライアンは生還しますが、その姿は誕生です。
私達に生きる困難と、それにぶつかり生きていくことが生きることと諭します。
たった二人の登場人物ですが、
人が生きる背景、生きてこれた今までに、多くの人が関わっていたことを匂わせます。
良い映画でした。
3Dで観ましたが、映像も素晴らしかったです。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
麦子さんと 2013日 吉田恵輔
ほんの数日だけど母は子供たちに遅ればせながら生きていく許可を与えました。
正確にはそのヒントですが。
主人公の麦子は25歳位です。本屋でアルバイトしながら声優を夢見てます。
数年前父が亡くなってから、パチンコ店で働く兄(憲男)と二人暮らしです。
ある日幼い二人を棄てた母が現れます。
拒否する二人でしたが、経済的なことが理由で同居を認めます。(兄は出て行きますが)
そして数日後、母は亡くなります。末期癌でした。
その後、納骨のために初めて母の故郷に行った麦子は、
ひょんなことから納骨まで数日かかることになり村に滞在することになり、
若かりし頃の母を知ります。
母は村のアイドルだったこと。(母に瓜二つの麦子は母世代に熱烈歓迎されます)
母は歌手を夢見て上京したこと。
母が料理上手だったこと。
そして、村にいた母の親友のミチルさんに亡き母を、
我侭な旅館の息子に自分と兄を重ねます。
また若き母と今の自分を重ねます。
麦子も憲男も母を許せません。というよりも、
母という存在としません。母はこれ以上やるせないことはありません。
母は棄てた負い目がありましたが、それでも必死で二人に接しました。数日の時間でしたが。
麦子が、母との関係を相対化する物語です。
“子を捨てた親を許してはいけない”という呪縛で生きていました。
もちろん顕在意識でも、母を憎んでいたでしょう。
でもそれは愛が欲しい裏返しです。
それが呪縛では、決して許さないという結論を頑として譲らないことで縛られています。
そこからの解放です。
麦子が母を母として受け入れることができるまでの物語です。
棄てられていたことで母を憎むこと(その他それに纏わる自我の形成)でバランスをとっていたことからの脱皮です。
母が現れた時から麦子の心のバランスが崩れました。でも“許してはいけない”呪縛は頑なです。
母が死ぬまで、死んだ後でもそこからは逃れられませんでした。
けれど村に来て徐々に母がどんな人間だったかを俯瞰できるようになります。
そして私をどう思っていたか、
本当はいつも私といたかったのではないか、
でも棄てた自分だからどう接して良いか解らないという母の気持ちが痛い位に感じてきました。
そして村を出る日(納骨の時)、
麦子は母の娘になることができました。
もし親に棄てられたという十字架を背負っていたとしたら、
ということはその子にしか解りませんが、
自分の存在に関わること、人格を否定された事だということ位はわかります。
日常ではそんなそぶりはなくてもです。
(脳はそれを隠して社会生活を営むからですが)
兄弟はその傷を自分で癒すことができる勇気を母と暮らした数日で受け取れました。
もちろん母が偉いわけではありません。
母は最期を迎える前にどうしても二人と居たかっただけでしょう。
でもそれが良かった。間に合ったのです。
そして偶然にも村に滞在することになったことで、麦子も自我を癒すことができました。
この映画はこういう物語を巧みに観客にみせました。
脚本も演出も良かったです。
兄の憲男は、葬式で麦子とは違い、母との解消を済ませるシーンを筆頭に、
登場人物達の役割が明確で過不足なしです。
また、人物の設定もどちらかというと、主人公も含めて優柔不断なそこらへんにいる人なので、
真実になります。
それと、ユーモアを交えていますし、リズムも良いです。
苦言を言えばわかりやす過ぎることで、もう少し、観客に解釈を委ねて欲しかったことが気になりますが、とても良い映画でした。
その証拠に、
わかりきったラストだったけれど不覚にも涙が出てしまいましたから。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
バイロケーション 2013日 安里麻理
ホラー、サスペンス、SFといったジャンルを横断するような内容ですが、
私は、純愛物語かつ、人格とはを問う物語でした。
バイロケーションとは、ある日もうひとりの自分が現れる現象です。
しかも意志を持っているもう一人。もう一人の自分ですから全て同じですが、
バイロケーションが行ったことは本物にはわからない、けれど本物の行為はバイロケーションには上書きされるというところが味噌です。
しかもバイロケーションは、本物がもつ特徴的な性格をより強く持っているのが本物との違いです。
そして、本物が精神的に追いこられることでバイロケーションが生まれるので、本物の切羽詰まった状況を受け継いでいる(怒りとか恐れとか愛憎等)厄介な存在です。
映画では、そのバイロケーションは本物を殺して本物になるという恐怖を軸に構成されています。
ちょっと辻褄が合わない部分がありましたが、テーマには支障なかったです。むしろ、設定は非常に練られていたというのが印象です。
真実(結末)は予想できないことはありませんでしたが、見せ方も上手く頭の中は謎のまま進みました。
主人公の忍のもう一人の人格(バイロケーション)は存在して良いかを悩みます。
(ここからは本物の忍をオリジナル、バイロケーションを忍と呼びます)
そして、忍は本物がいなければ存在できないという宿命があります。
ネタばれになりますから控えますが、ここがキーです。
オリジナルは忍の存在を知ったとき、存在自体が許せません。私も同じ判断をするでしょう。映画は他の人達のバイロケーションを登場させますがバイロケーションが生まれる経緯が、精神的に本物が追い込まれた存在ですから危険なもう一人という展開です。ですから尚更にそう思うところがありますが。
けれどバイロケーションにも意志があります。本物と同じ環境と状況と才能と性格からはじまり、徐々に本物とは違う進化をするのです。
同じであって別の人となっていくのですが、やっぱり本物あってのバイロケーション
であることを知った忍は悩むのです。
ラストは、オリジナルの忍へのルサンチマンから悲劇になります。
バイロケーションというもう一人が存在したら私はどうするか、しかもバイロケーション
の方が優れた人格に成長するとしたら、他人への嫉妬どころではないでしょう。
だから自分は自分でしかないのでしょう。自己を絶対視できないのが人間でだから悩みます。でも自分とはと問うことは健全に生きるための知恵です。
人生を振り返ると、やっぱり自分のせいで今の状況があるのです。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
散歩する霊柩車 1964日 佐藤肇
ブラックユーモアとサスペンスの犯罪劇です。
芸達者達のチクっとした、笑いに笑えないスパイスが効いたユーモアを混じえながら、
拝金の警鐘と、犯罪から引くに引けなくなる人の性をシニカルに映します。
冷静に観ると非常に愚かな輩達ばかりですが、
己を鑑みて、笑いに笑えなくなる怖さがあります。
幼稚な方法で人を陥れる奴ばかりで、
乗せられる方も負い目があってと、どっちもどっち。
そして互いの立場がコロコロ変わります。
気の利いた落語と一緒で、普遍的な人の業の映画です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
故郷よ 2011仏/ウクライナ/波/独 ミハル・ボガニム
1986年4月26日チェルノブイリ原発事故当日と10年後の
プリチャピ市が舞台です。
当日の花嫁アーニャは、結婚式当日に森林火災の消化に行った新夫を亡くしました。10年後は当地でツアーガイドとして働いています。
原発技師のアレクセイは、職業柄いち早く事故を知り、すぐに妻と息子(ヴァレリー)を非難させます。それから10年間家族と離れ離れです。当日アレクセイはヴァレリーと共にりんごの木を植えます。
この二組の家族が話の軸ですが、事故で避難しなかった人達や動物達の姿、そして10年後のそれぞれの姿も映ります。
死に行く自然と、生き返る自然、アーニャがツアーで訪れる制限区域内の現実、
そのシーンはこの映画のハイライトです。
福島原発の姿は、どういうかたちで明かされるかと気持ちが走ります。
また印象的なシーンが二つあります。
アーニャが少しずつ健康を損なわれながらも、プリチャピで職を続けること、新しい恋人と一緒に離れないことです。まさに題名の「故郷よ」ですが、この傷みは私は汲み取れていません。あんなに近いフクシマでも当事者とは遠いのです。
もうひとつのシーンでは、電車で移動しているアレクセイがプリチャピ駅で降りれません。なぜかわかりませんでした。簡単です。無いからです。
この映画は、冷静です。とかく感情的になる原発問題に言及という感じではありません。
だからこそ当事者と私との温度差を量ることができます。
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【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
夏の終わり 2012日 熊切和嘉
話は単純ですが、登場人物の心は複雑です。
その心の表現の仕方がこの映画のポイントです。
説明はなく醸すだけ、シーンも断片、台詞も断片です。
でもバックのセットをはじめ、昭和30年前後の匂いの中で、
主人公の気持ちを観客は感じ取ろうとすることに意識します。
時折に激しい台詞と強い雨がアクセントになって、
主人公の人生(心)が大きく振幅していたことを再認識します。
主人公の知子は夫と娘を捨てて、愛する男(涼太)と逃避行します。
しかし涼太とも上手くいかず、今は妻子あるかなり年上の小説家(慎吾)と不倫しています。
慎吾は本妻と知子の下を往ったり来たり、時には(都合が悪くなると)旅に出ます。
知子は染色家として自立していて経済的な不自由はないようです。
そして慎吾とのどっっちつかずの中途半端な関係を惰性で続けています。
慎吾との生活を8年続けていたある日、涼太が現れます。
涼太は知子をまだ愛しているが故に、なんとか知子と慎吾を別れさせようとしますが。
この話を、時系列も各所も(たとえば知子が夫や娘を捨てるシーン、涼太と出会うシーン、慎吾と出会うシーン)バラバラに切り取っていますから、表面をなぞることを観客にさせない演出です。
それよりも、各時・各所で知子はどんな気持ちだったか、あなたならどんな目で知子を観るか、と問いかけてきます。
私は人が生きる中で足掻く姿を知子にみました。
愛してくれているけれど、とても優しいけれど、自己都合、自分の聖域は守る慎吾、
二人の時間は、だらだらとぬるま湯に漬かっているけれど、心地よいから止められない、
いつかこの状況が続けられなくなることは明らかだけど、それを自ら壊すことはしない、
これこそ人の性です。
情熱の涼太と一緒になることも嫌ではないし、そこに幸せがあることまでみえているけれど、
やっぱりもう冒険はできない知子、ここも人らしさです。
でも知子にも潜んだ激しさがあります。
時に暴発もするし、仕事にも情熱を傾けているし、
でもあくまでそれをストレートには表現しません。
どこまでも観客が決めます。だからこれも私の解釈です。
登場人物の配置や動き、丁寧なつくりのセット等、
するめを噛むような映画でした。
主演の満島ひかりの、とっかえひっかえの和服・洋服も見所です。
ファンサービスのようにも映りましたが、しっかり見事に着こなしていました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
お嬢さん 1937日 山本薩夫
山本薩夫の監督デビュー作品でありながら、
彼らしさが前面に出ていない映画です。
(二・二六事件後の製作ということを考えてしまい)
多分に戦前の軍統治下の世相を感じます。
ラストの高峰秀子(当時13歳)の台詞は、
監督の抑えて抑えた演出の結晶なのかと、勝手に解釈です。
それは置いておいて、映画は主演の霧立のぼるの独演会です。
「きくこ」という役名ですが、
題名の「お嬢さん」でクレジットされていることからも窺えますが、
お嬢さんらしさ全開です。
当時のモダンガール、当時のブルジョワがどんなものだったかを知りえます。
モダンガールぶりはファッションも含めて、その雰囲気は彼女にぴったり。
また彼女自身以外でも戦前のブルジョワの様子は貴重な映像です。
私が大好きな高峰秀子の大人前の(子役)演技を観れたのも大きな収穫でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】