銀幕倶楽部の落ちこぼれ
野のユリ 1963米 ラルフ・ネルソン
東欧から流れてきた修道女達が、アメリカの砂漠で教会を立てようとしています。
人もカネもコネもなしに。
そこに黒人の青年が通りかかり、
彼の活躍と、街の人々の協力で教会が立つ。という物語です。
幸運なことに、
キリスト教にも、映画にも詳しい方と鑑賞できました。
題名『野のユリ』の聖書からの出典の部分も聞きましたし、
カトリックの修道女達とプロテスタントの黒人青年との宗教観の違いも
解説してもらえました。
有名な感動作ですが、
キリスト教の機微がわかると、シーンの深みがよりわかります。
これを鑑賞する方は、それを念頭におくことをお勧めします。
追伸
今日(3/20)は「春分」です。二十四節気更新しました。
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春分
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
アナザー・ハッピー・デイ ふぞろいな家族たち 2011米 サム・レヴィンソン
複雑な家庭(一族)の結婚式の前後劇です。
まず、家族像を掴むのが大変といいますか、
家族関係も複雑なら、それぞれが皆病に罹っているので、
ハチャメチャな、傷つけ合いが終始続きます。
主人公リンは情緒不安定です。現在の夫との子供が二人、
エリオット17歳ドラッグ中毒で毒舌・支離滅裂な攻撃的な会話に突然なります。
弟のベンは軽い自閉症。
リンには離婚した夫がいて、その夫との子供が二人、長男の結婚式というのが舞台設定です。
長男の下に長女アリスがいてこの娘が自傷してしまう精神不安定な大学生です。
前夫も再婚していて、その妻がど派手で、操作主義者、リンとは全く馬が合わない。
この夫婦にも子供が二人います。
そして、リンの父は病気と認知症で救急車を呼ぶ常連、
母は介護に疲れて、この人も情緒不安定。
結婚式に集まる親戚達も口が悪いのがそろっています(まあこの程度はよくあるかな)。
そんな人たちが一同に会しての結婚式という状況設定なので、
そこで繰り広げられるやりとりが凄まじいという映画です。
サンダンス映画祭の脚本賞ということですが、確かによくまとめてあったと思います。
人には悪魔部分があって、『弱いものをみつけ、余計になじる』誰しもそんな経験はあるし、
逆もあるでしょうけれど、その応酬なんですね。
だから観ていて疲れます。
人の負の部分を、自己中心的で自己主張したがる図を描いています。
劇中エリオットが
「9.11で家族の絆(存在)を確認できた」
「結婚式ではなくて葬式なら絆が実感できる」
(だいぶ台詞とは違いますが、こういう主旨の発言でした)
とい言いますが、これがこの映画の核心でしょう。
精神的に付加がかかるのが現社会です。
リンも50年以上、一生懸命生きてきて、家族のために尽くしたのでしょう。
その結果が、自分を含め、子供達も精神を病んでいる現実です。
この家族は先進諸国の一歩先を行った家族像かもしれません。
こういう状況と折り合いを付けて生きる、
家族が存在するのが常識になるかもしれないことを示唆しています。
大変な時代の一側面をみるおもいでした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ダーティハリー 1971米 ドン・シーゲル
爽快感はない物語です。
表面的には勧善懲悪で、事件が解決してヨシヨシですが。
病んでいる社会を憂うばかりの進行です。
俺のルールで裁くようにも見えますが違います。
主人公は守れない場面にぶつかってしまうのです。
やりすぎかもしれませんが、譲れないものがあるからです。
上手く世渡りできないから格好良く見えますが、
主人公は危険な男なのです。
でもその度を越えることに共感します。
そのヒーロー像にあこがれます。
でもこの映画の根底はやっぱり病んだ社会を映しています。
いつの世も病んでない時などないのかもしれませんが、
あまりにも自己都合が勝る社会になったものです。
それを変わりに憂う主人公に自分を重ねるのです。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
招かれざる客 1967米 スタンリー・クレイマー
二度目の鑑賞です。
アメリカは自国の影も映画として堂々と表現する土壌があり、
これは素晴らしいと思っています。
成功した白人夫妻と一人娘の裕福な家族で黒人の家政婦がいます。
裕福でない黒人夫妻には優秀な一人息子がいます。
そして、新婦と数人のちょい役という登場人物で、
近い過去のアメリカでの差別の状況をとても上手く表現しています。
無駄がない良くできた脚本と今回改めて感心しました。
例えば白人の父親(スペンサートレイシー)が、
アイスを食べている時の台詞などでも、彼の気持ちを窺えます。
細かいシーンと台詞で無駄なくスムーズに話が流れます。
また、父親と母親の思考の違いも面白いです。
母親が子供を信頼し、可能性を見るのに対して、
父親は、この結婚は苦労することがわかることで、
自分が反対したいという感情の正当化を計ります。
理性的を装う感情的な態度です。
自分を投影しているのかもしれませんが。
父親達がこの若夫婦、白人と黒人の結婚、出産を心配していた頃から約40年後、
この若夫婦の子供世代であるオバマ大統領が現れます。
今観ると予言的です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
みえない雲 2006独 グレゴー・シュニッツラー
原発事故を予言していたような内容です。
福島原発はこの映画と紙一重です。
あれ以来、誰もが原発に対して、
自分なりのスタンスを持ったはずです。
脱原発への力は働いているのでしょうけれど、
その動力源は、自己利益でしかないとしか思えないと
とらえているのは私だけではないと感じています。
原発事故の要は『起きたら終り』というところです。
映画も起きたらどうなるか、を映します。
人はすぐに忘れます。
そして、楽に流れます。
そして、思考停止になりがちです。
だから、自らそうならないことを心がけるしかありません。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
HUNTERXHUNTER 緋色の幻影 2012日 佐藤雄三
昔、怪獣映画を見て、オールキャスト程面白くなくなる体験を、
ちょっと思い出しました。
まあ、この映画もお祭りなんでしょうから、
そういう楽しみ方でした。
テーマのひとつは、
「本当に生きるには」で、
このあたりは、人形と人形遣いが相手キャラクターということから
つながります。
それと、キルアを重ねて、
「らしく生きる」「自分て何?」
迷いながらも進もう。
という展開でとても健康的でした。
まっすぐに生きるゴンでさえ、
操られている(操作系に操作されているという意味ではありません)
かもしれませんし、
ヒソカのキャラクターも、
クラピカの正義も、
「本当に生きている」かと問われれば、怪しいし、
解らないものです。
生きていくことは、
何か起こるといつもの反応でしかない自分に気づいて、
違うことをやってみるという、
自分の確認をしていく。
これが難しいのですが、それをしていく、
キルア達の姿に私自身を重ねたいと想う映画でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
東京暮色 1957日 小津安二郎
悲しい悲しい物語ですが、
明るい小津映画と同じ位、私達の日常を感じます。
傷ついた家族の物語です。
妻に逃げられた夫、
夫と子供を捨てた妻、
長女は結婚して一児を設けますが、夫婦関係は上手くいっていません、
男に弄ばれて堕胎しなければならない次女。
父は娘を想いますが、母親になれるはずはありません。
突然現れた母(妻)を娘は許せません。
母も許されるとは思っていませんでしたが、
淡い期待がありました。
娘も母を許すきっかけが欲しかったのかもしれません。
しかし、望む路線とは逆になってしまいます。
次女に不幸が訪れて、母は長女から引導を渡されます。
父は何もできません。怒りすら封印していたいようです。
4人の登場人物は、皆受身です。
流されているように見えます。
小津映画特有の変わらない風景で、
いつのまにか変わっている、
時は流れていて無常であることを訴えます。
翻弄されているのは4人だけではありません。
次女を弄んだ男も、その仲間も、
妻の今の夫も、そして父も、次女も長女も、その夫も。
唯一父の妹だけが、流されていません。
だからこの物語は真実に迫ります。
流されていない人間なんて、ほんの一握りで、
流されている人たちは優しい普通の人たちです。
ラスト、長女は自分から選択をします。
後ろ向きっぽい選択ですが、選択した自覚がある選択です。
妻も後ろ向きの選択をします。
ここは切ない希望です。
それと相対するのは父の姿でした。
非情に真実を映す良い映画でした。
最後に、シーンに反する音楽が多用されています。
これもこの映画を深く深くする演出でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
狐の呉れた赤ん坊 1945日 丸根賛太郎
戦後すぐ、11月の公開の活気あふれる映画です。
展開が読める人情話ですが、中身が濃いです。
暴れん坊の主人公を取り巻く連中、
ライバル、
相談役の大家さん的な人、
その娘とのちょっぴりのロマンス、
ドタバタの中で人とのつながりを示唆します。
主人公は、我が儘な部分と、父親の部分と、
決して出来が良くはないのですが、
人として魅力あることが見逃せません。
何でもありでない、
人のために生きるのが自分のためのような、
当たり前のことを楽しく盛り込んでいる映画で、
造り手の気概を感じます。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
赤い家 1947米 デルマー・デイヴィス
愛するが故に誤ちを犯した男が、
罪にさいなまれていた、それを封印していたのに、
あるきっかけで、思い起こされることになります。
謎が徐々に解かれていき、男の苦悩が『愛する故』となっていくのがわかるのですが、
愛する者を過失で殺し、憎む者を憎んで殺しています。
愛するの裏側に嫉妬や、見返したい心が潜むのが見えます。
ただし、男は平凡ですから、罪が頭から離れません。
その償いのように、愛するが故に過失で殺した者の娘を可愛がります。
娘が成長すると、愛した女性に重なるのですが、
そこまでの幻覚をみるに至る経緯がこの映画で一番恐ろしい姿でした。
強烈な愛が成就できない、自己の中で完結していないことが、
精神を蝕むのですが、娘を代理にしてまでも己の愛を完結させないと、
死を迎えることも出来ない姿です。
映画では、様々な恋人関係が登場します。
高校生の青い恋と三角関係、
(純愛とよこしまな関係)
大人になりようやく成就する恋、
大人になっても両想いでありながら結ばれない恋、
その中でも主になったのはとても強烈な執念の想いでした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
殺られる 1959仏 エドゥアール・モリナロ
映画全体がフィルム・ノアールの雰囲気に覆われています。
圧倒的に不利な状況が少しずつ打開されるのですが、
成す術が無い男が恋人のために歯を食いしばります。
それと、美女達が食い物にされる設定なので、
男を応援したくなります。
ラストの銃撃戦以外は、クールな演出なので、
早い展開のリズム感との相乗効果でかなり楽しめました。
ラスト男が格好良くなりすぎたのが
ひっかかりますが、(嫉妬してしまう程)
健気な健闘だったので良しとします。
フィルム・ノアールとしては、この作品も古典の部類でしょうか?
見応えもあるし、ツボを抑えていると思いました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】