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ブログ 今日のいもたつ

銀幕倶楽部の落ちこぼれ

カミハテ商店 2012日 山本起也

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自殺の名所のお膝元にある商店がカミハテ商店です。

小学校の近くにある文房具屋で、文房具以外に、
コッペパンと牛乳を売ってます。
自殺志願者が最後の食事でこのコッペパンと牛乳を食して、
おもいを遂げるというのが映画全体の背景です。

カミハテ商店の店主は黙々とコッペパンを焼きます。
そして、自殺した者たちの靴を持ち帰るのも日課です。

彼女(店主)がどういう気持ちでコッペパンを焼き、渡し、
消えた人の靴を持ち帰ったかなんて、知る由はありません。
でも、そういう営みの中で彼女は何十年も暮らしていました。

ただ無力なことを彼女とともに感じることはできました。

通りすがりで合った人に対して、
その人がどんな人生を歩んだのか、全く知ることも感じることもできないのに、
正論や常識、正義論や道徳を交わしても死を決意した前提のなにも解らない
そんな者には交わす資格さえないのです。

彼女が粛々とパンを焼く、靴を拾う。
それは営みとして私は生きることを決めているという
観客への投げかけのように感じました。

追伸
本日12/7は「大雪」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「大雪」の直接ページはこちら
大雪

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年12月07日 21:54

ヴァンパイア 2011日 岩井俊二

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気が弱く、でも罪を犯している、そのくせ醜悪なものを拒む、
そんな主人公のヴァンパイアは自分の分身のようです。

主人公は、自殺志願の女性を幇助して、血を抜き、
血を飲むという欲望を満たします。
その欲望は満足することもなく、果てることもない、
虚しさが同居しているものです。
主人公は、血を飲む度に吐いてしまうからです。
けれど、主人公の前に天使が現れました。
彼を包み込む彼に血を与えるという無償の愛を与えるという女性です。
(主人公は彼女の首から血を飲むという、
自殺幇助なしに血を得るという、欲望を満たせてくれる女性です)

けれど、その女性とは引き離されます。
その理由は、この映画がヴァンパイア映画だからです。

血を飲まずにいられない。(生につきまとう欲望)
ヴァンパイアは救われない。
世の中の日の当たらない場所で生きる。
そういうヴァンパイア像を借りた
ごくごく普通人が生きている様を描いた映画です。
少なくても主人公と私は、
生きている根源と、日常の行動の動機は、
変わらないと思わずにいられませんでした。

この映画には他にも象徴的な人が出てきます。
彼に対して無償の愛を持つ天使の母、
日常の彼は、天使から物理的に施されることはありません。

自殺志願の女性達、この女性達は、
主人公をはじめとする弱き普通人とつながりたいけれど、
それが怖い、めんどくさい、
これも主人公や私と同類の人達です。
「死」というジョーカーを使う所が私には出来ませんが。

主人公の中にズカズカと土足で入り踏み荒らす女、
この女は一見何も罪を犯していません。
自分にその自負があるから尚の事厄介です。
そして、社会も女を正当としますし、
けっして暴力としません。

もう一人、似非ヴァンパイアです。
この映画のヴァンパイアが、
己の欲望を控えめに成就させようとしている、
自分の中だけでしかない儚いものだけど、ルールを持っているのに対して、
似非ヴァンパイアは、何でもありです。
主人公にとっては醜い存在です。
でも似非ヴァンパイアは、社会の目をかいくぐる限り破滅しません。

実際にこの映画ではヴァンパイアだけが破滅しました。

ヴァンパイアと死にゆく女性達・社会から消えて行く者達と、
正当を公私共に自負する女と似非ヴァンパイアは、
あまりにも対象的です。

これらの登場人物が織りなす世界を、俯瞰して観せてくれる、
そこのどこに自己を重ねるか、
それを観て自分の存在を確認する映画でした。
映画の中に自分を置いた時、
改めて身近に佇んでいる天使を想うことができます。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年12月06日 01:00

ボブ・マーリー/ルーツ・オブ・レジェンド 2012米/英 ケヴィン・マクドナルド

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レゲエの神、ボブ・マーリーのドキュメンタリー映画です。
彼が、出身のジャマイカだけでなく、世界に、
レゲエという芸術で、世界中の想いを説き、道標を与えた像と、
世界を魅了した姿を、余すことなく伝えています。

音楽素人が観ても貴重な記録が満載なのがわかりますし、
彼と歩んだ、彼と生きた最も近い人達の生の証言で、
彼の人生を追うのではなく、
彼を通して、これまでの世界の来た道と今を考えさせるカタチで提示します。

神の申し子の様なボブ・マーリーで、
その存在していた奇跡のような軌跡が十二分に伝わります。
傍らでは、人らしさの苦悩もしっかりと織り込まれています。
だから、やっぱり彼は求められて来た者とも思えて来ます。
それは置いて置いて、
映画は、単なるボブ・マーリー紹介で承認を得るではなく、
彼の生き様で、もう一度個々人の今を観て欲しいというメッセージを、
私は受けました。

それは映画の本懐ではないかもしれません。

でも受け手の一人としては、
それ程にボブ・マーリーを描いた映画というよりも、
彼が何故このように生きた、産まれた、
彼のあのステージは何を、今それをライブではなく、
でも熱くスクリーン越しに魅せるその意図を感じます。

まさに、混迷の中で芯(あくまで個人の大切にするもの)を、
受け手に確認を迫ることが求められた鑑賞でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年12月05日 08:11

ソハの地下水道 2011独/波 アグニエシュカ・ホランド

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1943年ドイツに占領されていた
ポーランド領のルヴフという街での実話がベースの映画です。

下水道工のソハが、ユダヤ人を匿います。
ソハはコソ泥で、
ユダヤ人を匿うのもカネをせしめる事ができるという動機からです。

ルヴフでもドイツ軍によるホロコースト真っ最中という時代ですから、
匿うソハも、隠れるユダヤ人も命がけです。
特にソハは簡単に見捨てる事を選べる立場です。
だから、匿う価値がある限り付き合うと決めていたはずでした。
それが次第にソハ自身も意外で説明できない行動となって行きます。

この映画では、ドイツ軍の残虐な描写は必要最低限という印象ですが、
あの目を伏せてはいけない事実の上の映画という位置付けははっきりとさせます。
その中で人が、ごく普通の中年男がどう生きたかそれをじっくりと観せます。

人が奮い立つ、理屈ではなく、
ソハも徐々に変化します。

選んだ選択の一つ一つは、いつも、自分にリスクがあることでしたが、
『これ位ならできる」という積み重ねでした。
だから自分の中で大きな賭けではないと納得したものです。
(大きくなくても命がけなのは言うまでもありません)

ある時ソハの女房がソハの秘密を知った時の、
ソハとのギャップは相当なものでした。
彼女は何度もソハをなじります。
(命を守るために正そうとする行為です)
そして、ソハを捨てようともします。
でも結局できません。
二人共出来ないとやれないが半々だったのでしょう。

ソハをみていると、やりきったことの結果が崇高だった、
のです。
最初から狙ったわけではありません。
だから普通の人が奮い立った結果です。

人は、生きると言う本能の中に、
一瞬でも良いから心を通じ合わせている他人と、
今、を生きたいのでしょう。

結局は女房もソハを支えます。
地下にいる会ったこともないユダヤ人達のために。

映画のラストに、あの中でユダヤ人を救った人達6000人を、
イスラエルが感謝したことが示されます。
ほとんどがソハのような普通の人でしょう。

不安な世界の現代に、希望を灯す、映画です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年12月02日 10:12

我らの生活 2010伊 ダニエル・ルケッティ

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最愛の妻が三人目の子供を産み落とし亡くなります。
主人公は子供達と失った大きな空白を埋めることができるか。
という物語です。
同時にイタリア社会のひずみが盛り込まれています。

映画は出産前の家族のうらやましい程の蜜生活と、
イタリアではあたりまえでしょうか、日曜日に親戚で楽しく過ごすシーンが描かれます。
その後、妻の死、
その前には、物語のキーになる、主人公の不法移民の事故死の目撃があります。

主人公は、妻の死を乗り越えるための目標を金儲けに定めます。
このあたりの価値観が中々しっくりときませんが、物語の核心にリンクしています。

主人公は下請け建設業で、不法移民を不法雇用しています。
もちろん、不法移民は報酬を低く抑えることができますし、そもそもそれをしなければ、ペイできない金額での落札のようで、親会社の思惑がチラチラみえます。
しかし不法移民との仕事は上手く行かず、主人公も追い込まれれば(仕事の遅れと欠陥建設になる)、それにより報酬を受け取れない不法移民も追い込まれます。

主人公の事故の隠蔽も、自分の保身と不法移民の雇用、仕事の継続のための無言の社会同意の結果です。

追い込まれた主人公を救うのが家族です。
また、主人公が家族の応援で挽回した具体的な方法は、
不法移民ではなく、イタリア人を雇用することです。
イタリア人の雇用により、(正確にはこれも不法契約です)
窮地を脱します。金はなくなりましたが。

そこで、金儲けに走る目標が妻を失った喪失を埋める物ではないと気が付き、
子供達と本当の再生に向かう。というところでラストです。

イタリアの家族像とイタリア社会の矛盾を描いた映画で、
なにも起こっていない表面の下には、
人が故意に生んでいる格差の実態があることを示します。
前半の家族愛、一族愛との落差の大きさにそこを受け止めずにはいられません。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年11月21日 07:24

気狂いピエロの決闘 2010西 アレックス・デ・ラ・イグレシア

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ピエロを演じることで、狂気な自己を抑えて生きている二人のピエロが、
本物の狂気のピエロになってしまう物語です。
二人はスペイン内戦とその後の独裁政権下のスペインのメタファーで、
彼らの狂気をスペインの近い過去の出来事と重ねます。
二人に翻弄されるヒロインは、スペインの人々として映ります。

全編、裏側に歴史を匂わせます。
それを前提として、目を覆うほどのシーンを繰り返し繰り返します。
だから破綻しているシナリオなのですが、それが狙いです。

狂気のピエロの一人は、笑わせることが出来ないほどの悲しみを背負い、
心優しい男ですが、悲しみと怒りがはちきれないばかりを心に秘めた、
いつか復讐を成すことを刷り込まれています。

もう一人の狂気のピエロは、子供の支持を受けるエリートピエロです。
笑われることで存在を確認しています。その反動は権力と暴力を振りかざすことで、
その二つでバランスを保ちます。

キーを握るのはヒロインです。
暴力のピエロの下にいます。仕方なく。
離れることができえない女です。
もう一人のピエロの登場は、離れる機会となりました。

彼らの態度、行動、考え、衝動的な生き方を、
彼女のいつまでも、悲劇から抜け出せない姿を、
監督は嫌ってほどみせます。
象徴とわかっていても、目を覆いたくなります。

それほどのことが起きていたことは、
直接に非情なものを伝えるよりも、より深く非情を考えます。
とても悲しいけれど、これほどのことが、
近い過去にあったということです。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年11月20日 06:08

ミヒャエル 2011墺 マルクス・シュラインツァー

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冷静で残酷な性犯罪者の日常を淡々と映します。
主人公ミヒャエルは、仕事も私生活も几帳面にこなす、優良サラリーマンです。
少年を軟禁して、性的虐待を加えているとは、誰も到底想像すらできない、
普通よりも有能な男です。

映画は現実にいる男と少年を映しているようです。
男が仕事をしているところから、家族や同僚とのやりとり、
少年との食事の準備、夕食風景、一緒に家事をするところ、
遊ぶところ(屋内と屋外)、性的処理を匂わせるところ等々。

男と少年は傍から見ると円満な親子のようです。
ただ、少し違うのです。
それは軟禁するドアに施錠が付いていたり、
部屋が異常に静かで無機質だったり、
表からは全く窺うことができない(光も漏れない)家だったり、
映画の雰囲気もそんな無機質感でいっぱいです。
けれど、男はフレンドリーに振舞うこともします。
その時の映画はそれなりの雰囲気で、
いっそう不気味な感じになります。

そして、一見普通で少年に情けがある男ですが、
それが全て、己を守ることと、欲望につながっています。
だから男は狡猾かつ冷静で残酷です。

世間体で愛想が良い顔がありながら、いつでも次の準備を進めます。
少年が重い病に倒れると、埋める準備を始めます。
アメとムチを使い分けますし、次の誘拐も試みます。
(代替とアメの保険です)
どこまでも冷静で残酷を淡々と映します。

この映画は、少年の思いがけない抵抗で男が亡くなり、
遺品整理のために家族が家を訪れて、
少年を“みつけるだろう”というシーン直前で終了します。

少年が助かったかはわかりませんが、
解放されたことは間違いありません。
では主人公が健在のままだったら?
少年はどこかで男が掌握できない時点でお払い箱でしょう。
それも用意周到に。

こんな物語は身近にはないと思いたい話です。
でも、この映画は隣で起きていることを想起させます。
現代社会のある一面の精神を浮かび上がらせたと感じました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年11月19日 07:32

ムースの隠遁 2009仏 フランソワ・オゾン

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とても複雑な恋愛感情を目の当たりにする映画です。

主人公ムースは、愛する男を失います。
忘れ形見を宿していました。

男の弟がもう一人の主人公です。
彼は異母兄弟の兄を愛していました。
そして、ムースも愛しました。

ムースは生まれた娘を彼(弟)に預けます。

とっても簡単に書きました。
ムースの気持ちをほとんど解釈できなく表面をなぞっています。

ムースは娘の幸せのために弟を選んだこと、
亡くした愛する男との決着であったこと、
彼女の生き方そのものが娘を育てない決断であったこと、
(劇中の彼女を観て)
それら複合の理由をつなげると、
彼女が娘を弟に委ねる結論がなんとなく理解できてきます。

世の中に起こる様々なことに共感する必要はありません。
事実は、今目の前の出来事は、
それを行動しているそれぞれの人の今までの生きてきた結果です。

それを批判すること自体も一歩止まって、根源は何かを考えたいと思っています。

この映画はそれを私に投げかけてくれます。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年11月17日 07:55

フィッシュ・タンク 2009英/蘭 アンドレア・アーノルド

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世の中に精一杯自分の力だけで抵抗している15歳の少女主人公ミア。
彼女が一回り大きくなって、もう一度突っ張る事を決める物語です。

研ぎ澄まされていないナイフを、研ぎ澄ましながら、
世の中すべてに立ち向かう少女、そんな生き方をしています。

崩壊しているような家庭、母親からは“生まれていないはず”とまで言われる家庭、
そして、誰一人彼女に寄り添うことなく、
互いに、生きていることを突っ張ることで明かす、そんな生活環境下にいます。

でも彼女も15歳の少女の心があります。
ある日現れた男、母親の愛人は、彼女にとって、
もしかしたら、精一杯生きなくても彼女を守ってくれる男として写ります。

それが幻想だと体験するのはすぐでした。
もしかしたら、すぐだから良かったといえるかもしれません。

彼女は決します。
やはり自分の生き方を貫くことを。
清々しいほどの姿です。
この後、何度も同じような挫折を経験することは明らかです。
でも、それを受けても受けて超えることができることを得ることを、
観客はこの映画で観ました。

監督は、ダンスにかける姿の主人公を通して、
音楽で彼女の心境を表現します。
同じく、鎖につながれた馬や、釣った魚でも、主人公の髪型でも。
そこにどんな真意を見つけるか、
そういう部分に表現の巧みさを強く感じる映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年11月16日 07:27

俺の笛を聞け 2010ルーマニア/瑞/独 フロリン・セルバン

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譲れないことは絶対に譲らない。
その叫びが聞こえてくる映画です。

主人公は、18歳の少年院で更生しています。
模範生で、出所まで二週間です。
彼は10歳の時から(多分)当時2歳位の弟を育ててきました。
何故なら(父親は入院・健康ではないのでしょう)母親がいなかったからです。

ここはルーマニア、母親はイタリアに出稼ぎに行ったきりでした。
主人公に言わせれば、(多分)生活苦で男の元にいた。
そのために子供二人を捨てた。そんな母親です。

その母が、突然現れます。出所二週間前に、
そして、一週間後には弟をイタリアに連れていくことを決めます。
彼に譲れないないものが出来た瞬間でした。

模範生を守りながらそれを阻止しはじめます。
しかし塀の中では打つ手が限られます。
というよりもほとんど叶うことをすることが出来ません。
あせります。

時を同じくして、出所準備のためのカウンセリングが始まります。
そこで出会ったカウンセラーの女に恋をします。

時は無常に流れます。
打つ手なしに弟が連れ去られる日になります。
主人公は、本人も予期しないきっかけで、堰を切る行動を起こします。

恋する女を人質にして、少年院内で譲れないことを現実にする行動を起こします。

出所までどんなことがあっても、院内のイケスカナイ奴らから罵倒されても、
出所を成し遂げようとしていました。
でもどうしようもなく主人公を、
母が、仲間が、環境が追い詰めていき、暴発に至ります。

動機・原因は主人公が弟を失うことです。
でも暴発はそれでは起こりません。
引き金を引くきっかけが次々に起こったからです。
取り巻く環境が暴発を誘いました。

怖いことです。暴発したい気持ちが必要条件で、
環境が十分条件です。
人が暴発するこの構図で戦争も起こります。

主人公は滅茶苦茶苦悩します。『出所を目指す』のかを。
でもそれと、弟が連れ去られることの天秤にはかけられません。
弟を失うことは、出所できないことどころの騒ぎではないからです。
18年の人生の否定です。

だから、勝負に出ました。
結論を覚悟しての行動でした。
母と弟を引き離すことは、純粋に弟のためではありません。
これからも生きる自分のためです。

愛する女を人質にしたのは、
暴発の結果の代償を自らの望みにすり寄せるためです。

主人公のこの行為はとても切ないものです。

彼の地ルーマニアは遠くどんな国か、どんな歴史か、
体感できていません。けれどこの映画でわかることがあります。

幼い兄弟が自分達だけで食べていかなければならない世界、
母が息子達を捨てるを選ぶ世界、
まだ18歳なのに叶わぬ恋に遭遇すること、
出所しても希望を見出せないような雰囲気の世界、
それらを積み上げた物語でした。

これらのどれにも触れない、私が生きてきた環境が、
奇跡なのかもしれません。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年11月15日 06:45