バリステック 2002米 カオス
女性版のターミネーターかランボーかな?
とにかく物がたくさん壊れました。
ストーリーもなんとなくわかっていれば
それでよし、で見れる映画でした。
とても大事な人を失う、
この物語では、夫、妻、子供ですが、
どういう別れをするかは、人生において重要で、転換点になります。
子供に先立たれる気持ちはわからないし、わかりたくない気持ちです。
妻との別れは、やっぱり覚悟しなければなりません。
そんなことを思わせてくれました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
女性版のターミネーターかランボーかな?
とにかく物がたくさん壊れました。
ストーリーもなんとなくわかっていれば
それでよし、で見れる映画でした。
とても大事な人を失う、
この物語では、夫、妻、子供ですが、
どういう別れをするかは、人生において重要で、転換点になります。
子供に先立たれる気持ちはわからないし、わかりたくない気持ちです。
妻との別れは、やっぱり覚悟しなければなりません。
そんなことを思わせてくれました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ドイツとソ連に蝕まれたポーランドの戦中から戦後、
カティンの森を軸に、軍よりも一般市民の目から描かれます。
主は両国の占領下の戦中ではなく、平和が訪れた戦後です。
平和が訪れていたはずの、自由だと、開放された戦後には、
ポーランドの人々はどうやって生きてゆかなければならなかったかです。
戦中の生存の危機から脱した後は、
もうひとつの生存、
精神・人としての誇りの生存の危機が待ち構えていました。
ワイダ監督が世界にみせたい戦中戦後のポーランドを、
軍人の家族を通しての表現は、登場人物が多種に渡り、
少々わかりづらかったのは正直なところですが、
それぞれの立場からの表情や態度、重い台詞からの問いかけで、
表面の人間関係をわからせることを優先させなくても、
語らなければならない切実感を強く覚えました。
ひとりひとりの日本人が今、自由をどれだけ感じているのかは、
それぞれの感覚ですが、これは過去の莫大な遺産であることを、
改めて知ります。そして、それは守らなければ、
守ろうという自覚がなければ消えてしまうものだということも、
ワイダ監督は示唆しているようでした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
生まれてから、身近に接する環境の中にしかいなければ、
その環境は自分をつくる全てで、良いも悪いもなにも、
他の環境があることすら想像できません。
生存できるのにあえて、そこを飛び出す必要はありません。
隣の芝生が青く見えるのは、
視ることができるようになってからの話です。
この物語の主人公は、
自分が生きて来たことに始めて疑問を持つことができた。
その時点で終了しています。
傍からみれば可笑しな生き様とわかることも、
当人はそんな感覚はありません。
だけど自分に違和感を覚えました。
ただ、それが果たして幸せにつながるかと言えば
別の話です。
なんだ、全く今まで生きてきた自分と同じではないか!
とても根源的なことを描いている作品です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
苦笑いするしかない映画です。
こうも欲望全開なんてことはない。
自分だけは違う、そんなことはないよ。と言われているようです。
金、地位、名誉に群がる輩たち、性を媒介にして自分の欲望を満たそうとする。
設定は公開当時とリンクしている高度成長期です。
高度成長期は引き金でしかない。
だから、欲望の氾濫は古来からあったことでしょう。
(人間の欲望を増幅させてから引き金を引かせたという感じ)
しかし、誰もが大鉈を振るうかのごとくの欲望処理ができてしまうのは、
この頃からのように感じます。
そして、40年たちました。
私たちの精神は大人になっているでしょうか?
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
1966年は高度経済成長の真っ只中でした。
戦前から戦後を経てのゆがみや負を描くこの作品は、
どうとらえられたのでしょうか?
日の丸やリンカーンの肖像画の前で繰り広げられるシーンは、
影が強調されていました。
為政者はみせたくないものを、みえないところに追いやります。
個人もみたくないことを、意識しないようにしてゆきます。
だから、みせるという行為がおこり、
そこで選択する機会が訪れます。
自分の意識の「きれいごとだけで良いよ」
と言う声に向かう力は、こういう映画から貰うことができます。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
豊かになった日本が、崩れようとしている感がある、今を
予言しているような映画です。
金、愛、大人の振る舞い、子の成長と夫婦が重ねた年月、
登場人物たちが自然体で表現してくれます。
男優二人も良いですが、女優4名の役柄としてにじみ出る個性が、
自然で考えさせる内容の物語に誘ってくれます。
川島雄三監督作品は4本目の鑑賞ですが、
喜劇、時代をかけての人間描写、男と女の生き様、
今回のような都会的センスが入った人模様とどれも素晴らしく、
もっともっと観ていきたい監督のひとりです。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
大恐慌がアメリカを台風のように襲う。
その渦中には、今までとは違うアメリカがありました。
この映画でもそれが汲み取れます。
二人は大恐慌が生んだちょっとしたヒーローでした。
踊らされてもいました。
だから被害者なのかもしれません。
やってしまったことは決して許されない事ですが。
二人とその仲間を、フラットな立ち位置で語っています。
心情を伝えます。
何故こんなことをするのかを物語の進行とともに考えます。
だからこの時代が気になります。
大多数の人は貧しくもまじめに働いていました。
この二人はあまりにも短絡に、楽を考えていました。
しかし、その行為が象徴かもしれません。
今もこの頃と同じ大不況を、この映画の新聞社のように
マスコミは伝えています。
誰もがそれらの一因です。
それを痛切に受け止めずに入られない映画でした。
だって、二人を知りながら、二人に心を開く人たちも、
二人を追い込みただただ復讐をする人もいます。
どちらも私自身の分身のようで、震えを覚えるラストでした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
人間の本性を描いているようです。
主人公を通して、周りの人物と絡めて。
本性なんて”これだ”というものは実はない。
けれどそれらしいものはある。
最近自分が多重人格の気があるような気がするのですが、
これってそれが自然なのかもしれません。
主人公が妻と暮らす前、暮らしているとき、
妻が亡くなって子供たちと暮らしているとき、
そして、この映画での変化。
全部ひとりの男そのもので、
多重人格かもしれません。
悔いても悔いても、嫌な自分がいます。
そんな生きる性が描かれていました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
キャサリン・ヘップバーンは大女優です。
若い頃のこの作品でもそれを感じます。
この作品の良いところは、彼女は目立っていますが、
他の3人の女優も主張があるところです。
それは作品のテーマですから、味噌でもありますし、
おもしろいところです。
1949年版でも同じく、四姉妹の個性を楽しめます。
でも表現方法はだいぶ違います。
同じ原作、違う作成時期という対比は、
そこから女優の移り変わりが垣間見ることができます。
33年版と49年版=16年の時は、
世代が違う女優を映し出します。
これも映画の魅力です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
多様なテーマを盛り込みながら、
そのどの主張も伝わってくる、
なかなか他では味わえない作品です。
1932年当時のアメリカの差別を訴える
アメリカの良心とも言える陪審員制度に疑問を投げかける
ひとり父親となった時の教育を考える
子供たちの横のつながりと冒険
子供たちの成長物語
隣人を介したちょっとしたミステリー
先進的で、骨太な思想がラストで現されます。
作品の8割が子供たちの視点です。
ここを介することで、伝わせたいことが、
ぐっとプラス、深く伝わります。
とてもうまい構成だと思います。
裁判シーンでの長まわしも中締めを感じ、
前後の子供中心の展開とは違う独立した主張があります。
ともすればあれもこれもとなりがちなところを、
随所に力が入るほど見入ってしまう様に仕上げています。
役者はもちろん脚本、演出、音楽と総合力で組み立てられた映画でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】