糖化しています
有機安納芋も糖化して甘くなっています。
その分やわらかいし、スライスした後も一枚一枚はがし辛いです。
丁寧に慎重に干し芋作りをしています。
【芋日記】
有機安納芋も糖化して甘くなっています。
その分やわらかいし、スライスした後も一枚一枚はがし辛いです。
丁寧に慎重に干し芋作りをしています。
【芋日記】
今年も頑張って薪ふかしで干し芋作りをしている、
信義さんの釜です。
他の2軒のぎんさんも伸男さんも、
元気で薪ふかしで干し芋作りしています。
【芋日記】
生前認められることなく貧しい生活のまま亡くなった画家の半生です。
ピロスマニの時々の精神的や経済的な苦悩とともに、彼の絵画が写されます。
観客は彼がどんな心境で数々の絵を仕上げていったのかを探ることになります。
絵を描くこと以外は不器用な主人公は、絵が認められなければ、困窮するしかありません。
認められない中で描く絵は、
自分を信じるから描き続けられるのか、食い扶持の方法が絵だったのかは解りません。
確かなのは真剣だったことで、紛れもないことです。
映画は一切の説明は排除しています。
台詞やシーンも彼の人となりを知らせるのにとどめます。
救われるべき英雄だったとすることもなく、
ことさら悲劇的に撮ることも控えていて、
報われなくても絵を描くしかないピロスマニの日常を伝えます。
多分、推測できる現実を再現したかったからでしょう。
それは一人の芸術家の儚い一生です。
でも賭けるものがある男の生きる美しさが伝わります。
一芸に取り憑かれた者の濃厚な人生の満足も感じます。
人は今生きている生き方しかできない、それは天才も秀才も凡人も同じかもしれません。
追伸
12/7は「大雪」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「大雪」の直接ページはこちら
大雪
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
人は感情で結論を出しておいて、理屈を付けてもっともらしくします。
最初から答えを準備しているのだから議論の余地なんてありません。
それが意識的ではないことがほとんどだから、話は厄介です。
そして、一度魔女狩りが起こると、それに加担することで正義の味方気分を味わいます。
この映画を含めて『完全な冤罪』の映画を観ると、
被害者になってしまう可能性はいつでもあり、その不安と、社会の脆弱さを感じ、
この映画では、実際に駆られてしまう恐怖に追い詰められてしまう錯覚まで起こります。
デンマークの田舎町、街の人々は皆が協力して生きています。
主人公のルーカスも幼稚園に勤めながら、街の同年代の男達とは家族ぐるみの付き合いを何十年も続けています。
仲間と一緒に飲み、遊び、仲間の子供達の父親・兄貴代わりとして、街に尽くす男、必要な男で、その中で生きがいも感じていました。
もしあの事件が起きなければ、離婚はしているものの、不幸な人生なんて他人事だったでしょう。
その事件とは、幼稚園の幼女クララ(ルーカスの親友テオの娘)の些細な嘘ではじまりました。
「ルーカスのおちんちんが立っていた」
ルーカスが大好きなクララの、ルーカスの気を引きたいがために出た言葉でした。この直前にクララの兄(中学生か高校生)からIpadの卑猥な映像を見せられて、「立っている」という言葉を植えつけられていただけでした。悪いシチュエーションは重なります。園長先生がそれを聞きつけたのです。
園長はこの時点で保身からか、ルーカスを変質者(犯罪者)に決め付けます。それを裏付けるために、教育委員のような男に相談します。男は園長と同じです。最初から決めています。だから、クララを誘導尋問にします。
(人は自分が安全地帯にいることができれば、日常でないことが起こって欲しいと望んでいる悪魔の顔があるのでしょう)
もちろん、犯罪を未然に防ぐことは大事です。可能性は極力排除する努力は必要ですが、自分の行為により何が起きていくのかを何も考えなさすぎです。
本当に、感性がないというか、安易なことをするのが人です。
実際に園長と男の安直な行為は、ルーカスの人生と家族を滅茶苦茶にし、クララの心に深い傷を負わせ、幼児を持つ家族に不安を与え、街中の人々に魔女狩りさせる怒りを植え付けました。
ひどい仕打ちが続き、ルーカスはぼろぼろになりますが、それでも心を折ることなく、街で暮らします。
街の人達(特にテオ)はその姿に、嘘をついているのはクララではないかと思い始めます。
そこから物語りは好転します。
そして1年の空白がありラストのシークエンスです。
その1年後は、ルーカスの息子の猟解禁日です。(成人式みたいな感じ)
ルーカスの疑惑も晴れて和やかに式典が進みます。そして明朝ルーカスは息子と初の狩りに出かけます。他の友人達も参加すています。
その狩りをしている最中に突然、
至近距離から“ルーカスが撃たれます”未遂ですみましたが。
(この前振りがあります。ルーカスの飼い犬が殺されるシークエンスがあります)
これで映画は終わりです。
一度魔女のレッテルを貼られた男は、その十字架を一生背負うのです。
この物語には悪人はでてきません。(強いて上げれば園長と男です。彼らは権力を持っていることに無自覚で、それは大罪です)
気が良い街の住民は魔女がいると魔女に対して鬼になるのです。
戦慄の映画でした。
(魔女にされてもルーカスを信じ、支援する者達もいました。冷静な判断ができる人達でした。これも現実です)
追伸
12/6に、12月の「毎月お届け干し芋」出荷しました。
今月のお宝ほしいもは、“有機安納芋のほしいも”です。
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干し芋のタツマ
毎月お届けの「今月のお宝ほしいも」の直接ページはこちら
今月のお宝ほしいも
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
加工しづらいのが安納芋です。
皮むきしていると、実が崩れてしまうのですが、
今年の安納芋は、意外とそれがありません。
他のほしいもよりはやり辛いですが。
【芋日記】
ほしいも名人のひとり市雄さんが、
玉豊と紅はるかを作っていました。
どちらも糖化熟成していて、
乾くまでもなく甘いのがわかります。
【芋日記】
今年度の有機ほしいも作りをはじめました。
お取引先が待っている有機安納芋の干し芋からです。
年末の納品に間に合いそうです。
【芋日記】
ミヒャエル・ハネケ作品の中でも、一番観客に委ねています。
高齢社会での嗜みを踏まえたうえで、
『愛』と『尊厳』と『命』に対しての考察を真剣に促していて、
答えではなく、向き合うことを提示しています。
物語の主人公はフランスの中産階級、音楽家として成功した人生を送った老夫婦です。
少ない余生を二人で充実した時間を共有していましたが、
ある時、妻が病気になり、夫が看護する生活に変わります。
妻は気丈な女性であることがエピソードで語られます。
体や精神が病んで生きながらえることは、彼女にとって死よりも辛いことです。
病院には行かない約束を夫と取り付けます。
夫は妻のことを“わかっている”のですが、死を引き伸ばしたい想いと、
妻が生きたい生かし方で死を早めることの、狭間に最後まで苦悩します。
妻は壊れていく姿を誰にも見せたくはありません。
近隣の住民はもちろん、介護士も医者にも、そして娘すらにも。
そして夫にも見せたくないことを夫は知り尽くしています。
けれど妻はすでに一人では生きることも死ぬことも出来なくなります。
そして、夫は二人の最期を決めます。
ラストシーンは老夫婦の娘ががらんどうになった両親の住まいにひとり佇むシーンです。
彼女は子供の頃両親の愛のささやきが漏れる声で幸せを感じていたというシーンがありますが、
その余韻を感じているかのようです。
娘役は、イザベル・ユペールです。彼女だけは結末を誰よりも心で受け入れているように見えます。(個人的には、イザベル・ユペールだからそれを感じさせて、これも意図的でしょう。「ピアニスト」をかぶるからですが)
夫の行為に対して、倫理的に、法と照らし合わせて、ということを持ち出すのは野暮です。
それを超えた考察の提示をしている作品だからです。
だいたいが人が決めたものなんて最大公約数でしかありません。
豊かで長生き、でも世知辛い、皆忙しい、現代の社会で夫婦が寄り添う時間は体の自由が利かなくなる直前に訪れるものかもしれません。
(昔は寄り添う時間が稀だったかもしれません)
その時点で、二人の心が惹きあえるとしたら、それほど崇高なことはありません。
そして、外野はとやかくいう権利はないのです。
物語中も、娘が意見するシーンがありますが、それに対して夫(父)は毅然な態度をとります。
老夫婦は二人で二人の最期を決めたのです。
後悔が『ゼロ』の行動ではなく、後悔よりも優先するものがあったからです。
それは最後の鳩のシーンと、二人が二人の城から出て行くシーンの私の解釈ですが。
だから、この映画は『愛』の物語であし、『希望』を提示していると確信しています。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
人が持つ罪を時に穏やかに、時に激しく描いている作品です。
舞台は中世のスウェーデンの豪農一家です。厳しい自然の中で食べるのがやっとというのが大勢の頃です。そしてキリスト教、神を信じることが生きる術の時代ですし、重要なテーマでもあります。
豪農の夫婦(テーレとメレータ)は敬虔なクリスチャンです。特に父テーレは自らの財産を教会のため、世のため人のために尽くすことを厭わない人格的にも立派な男です。
もちろん一族皆信心深いのですが、召使のインゲリ(父なし子を宿している女)は反発しています。
夫婦には一人娘カーリンがいます。金持ちの一人娘ですから甘やかされています。また、純真無垢の穢れなき存在です。(インゲリとは対象的な)
他にも女の召使がもう一人と、テーレの仕事を担う下僕達が3人います。皆、食べるのも大変な時代(社会)の中でも、暖をとれること、飢える不安がないことはテーレのお陰だという気持ちを持っています。
ある日、カーリンが遠く離れたところにある教会に、おめかししてローソクの寄進に行くことになりました。インゲリを連れて。途中インゲリはカーリンを一人で行かせます。(オーディンという神にカーリンを葬ることをインゲリが依頼するという暗喩が含まれています)
その後事件が起こります。ヤギ飼いの男3人(子供が一人)がカーリンを襲います。凌辱し、撲殺します。(子供は見ているだけ)そして、後を追いかけたインゲリも見ているだけです。
3人はカーリンの身包みを剥いで立ち去ります。そして夜、テーレの家にたどり着き一宿一飯の世話になります。そしてあろうことかメレータにカーリンの服を売ろうとしたのです。
血のついたドレスはすべてを物語っていました。
テーレは復讐します。3人を葬ったのです。
キリスト教の七つの大罪「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」を登場人物に背負わせている物語です。
罪深い存在は、カーリンに手を下した3人のうちの2人とテーレですが、他にも罪を持つ者がいます。
オーディンにカーリンを葬ることを頼んだから男たちが手を下した、と後悔するインゲリ、「嫉妬」です。また同じくメレータも「嫉妬」の告白をします。テーレとカーリンの仲があまりにも良いことに対して嫉妬を抱いていたことを。
テーレも3人のうちの罪のない子供まで手を掛けています。「傲慢」と「憤怒」(怒りに任せて罪のない少年まで手をかけました。鬱憤が溜まっていたとしたら何のための信仰でしょうか)です。
しかもラストにカーリンが撲殺された場所に教会を立てることを神に誓います。それで赦しを得ようとします。なんという「傲慢」でしょう。
そしてもちろん3人のうちの2人の男は、「色欲」「強欲」「暴食」「怠惰」です。それも半端無い獣です。
殺されたカーリンと子供はどんな罪があったのかは解りませんが、殺される罪はありません。
インゲリとメレータも救われない罪を犯してはいません。
罪深い男2人は、テーレにかかり身をもって贖罪となったのでしょうか?
テーレも教会建設で贖罪ができることはあり得ません。
しかし泉が湧きました。その聖水で禊をするシーンもありました。
しかしイングマール・ベルイマン監督は、罪が償えるとは言っていません。
深読みかもしれませんが、泉はカーリンに対しての涙、ただそれだけのような気がします。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】