2014年05月
アメイジング・スパイダーマン2 2014米 マーク・ウェブ
3Dの吹き替え版で鑑賞しました。
強い意志と正義感で必死に社会に尽くすスパイダーマンに対して、
嫉妬し、嫌悪を感じる人びとが出てきます。
社会に生じてしまうルサンチマンがテーマかなと、最初は考えながら観ていましたが、
そうもそうではないようで、
次には、恋人の亡き父親との約束(愛している恋人を一緒にはいない約束)と、
自分との葛藤を主にしているかな、と思ったのですが、それもスルーで、
ストレートな恋愛物語なんだと見ているとそうでもなく、
主人公は両親と不可解な別れを経験しているようなので、
両親からの自律が主題かなとも感じていましたが、
それが掘り下げられるようでもない。
そこであまりそんなことを考えずに鑑賞しましたが、
それが正解だったようです。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
たい肥場のトマト
自家製たい肥を苗床に入れます。
そのたい肥場に自生していたトマトが苗場で伸びていました。
折角ですから、農園の自家製野菜の畑に移植します。
【芋日記】
ブルージャスミン 2013米 ウディ・アレン
「欲望という名の電車」のプロットを使ったウディ・アレン監督のブラックコメディです。
個人の人格が、個人の欲や見栄や怠惰と、社会構造の影響で壊れていく様は、
主人公のジャスミンも、欲望の名の電車のブランチも同じですが、
ジャスミンにより悪意を感じます。
そのあたりがウディ・アレンなりの解釈でしょうか。
大詐欺師の夫のお陰で贅沢三昧の暮らしをしていたジャスミンですが、夫が逮捕され一文無しに。
そこで優しい妹(親は違う)を頼ってニューヨークからサンフランシスコへやってきます。
一文無しなのにファーストクラスに乗り、身なりは全てブランドで固められています。
そうです。ジャスミンは贅沢な暮らし以外を知らない、できない、洗脳された女です。
今日食べるものもないのに、妹の庶民暮らしや、粗野な恋人としか付き合わない妹のことをなじります。その癖、自分は何もできないのに、インテリアデザイナー気取りです。終始こういう汗を流すことの価値を感じない女とその状況をコメディとして上手く監督は演出して、主演のケイト・ブランシェットはそれに応えています。
セレブの生活から追われ、健気な妹のところへ身を寄せる、そこには粗野な恋人がいる。主人公はそれでも自分は優れた、妹達とは違う人間だと息巻いて、セレブの自分を見つけてくれる王子様が必ず現れると信じている。
ジャスミンとブランチはそっくりです。
そして、実際に王子様が現れますが、自業自得で夢はかなわないところも、自己が崩壊していくところも同じです。
しかし、決定的な違いは、ジャスミンはいつも確信犯というところです。
湯水のごとく金がある生活は、夫の詐欺師であることを見ないようにします(現実を見ないのはブランチも同じですが)。そしてその生活へのケリの付け方からもそれが匂います。
ジャスミンは自分の領域を侵す者に対して容赦がないのです。
これは現代社会の先進国の人々が陥っている心の仕組みをウディ・アレンがあざ笑っているようです。
他人のミスに対して容赦ない気持ちを持ってしまう風潮があるように感じます。もちろん、人によりけりですが、風潮があることへの警鐘だと思うのです。
結局ジャスミンもブランチ同様に堕ちていく悲劇ですが、「欲望という名の電車」ではブランチの個へのアプローチが主なのに対して、この映画の場合にはブランチを通して個と社会の関連が主に語られているととらえました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
江戸紫
紫クレマチスの色は江戸紫だと、育てている農園スタッフが教えてくれました。
クレマチスはつるで伸びていくのですが、
この花は、塀の管の中を通って花を付けました。
日が差す方、日が差す方へと伸びてきて花が咲いています。
【芋日記】
苗切りが盛んに
全体的に苗が伸びてきた中で、背が高い苗を一度切ってだいたいそろえます。
それから数日すると全体が同じ位の伸び方になるので、
本格的に苗切りです。
穏やかな日、そして数日後に雨がありそうな日を狙って植えていきます。
【芋日記】
【SPAC演劇】隊長退屈男 演出 ジャン・ランベール=ヴィルド 翻訳・翻案 平野暁人
人は期待されるとそれに応えようとします。それは素晴らしいことですが、それによって悲惨な想いをしてしまうこともあります。
太平洋戦争では自国でも他国でも理不尽で非人道的に多くの犠牲者が出て、今もって苦悩する人もいますし、様々な切り口で反戦が唱えられています。この作品も優れたその一つとして数えられるほど、大胆で綿密に作られています。
この演劇では、人が壊れていく様があまりにもリアルでした。
今の日本に居られることが幸せであることはわかりきっていたことで、
当たり前になっていく認識もありました。
でもそれは時が経つのだから仕方ないことだという気持ちでしたが、今回それが吹き飛びました。
以前、知覧の特攻平和会館で当時の若き特攻隊員の遺書を読んだ時に、死を覚悟した後に自分の心を清く昇華させる若者に畏敬の念を抱きましたが、その域に到達するにはどんな葛藤があるかは想像し難いものでした。
特攻に志願するまでのいきさつは、戦前の教育が仕向けたからだとか、集団であることが特攻への合意を拒めなかったとか、自国、ひいては親兄弟のためであったからだとか、要因はたくさんあったでしょう。また特攻以前の問題で、召集されたところから、死は拒めないという状況もあったでしょう。
そして、本でも演劇でも映画でも、当時の事実や人々の生き様も多く語られてきました。
もちろんそれを知ることは大事だという気持ちも持っていましたし、汲み取ることもしてきたつもりです。
「隊長退屈男」では、死しか待っていない緊迫化の中で、いつ死を迎えるかもわからない状況下で心を清く保とうとすることやそこへ行き着こうとする葛藤の凄まじさを目の前に見せられました。そこにあるのは、私が知覧以来感じた想像し難いものの描写でした。
演劇は狭い櫓の上での一人芝居です。櫓はたった一人生き残った日本軍兵、磐谷和泉隊長の砦で、武器はもちろん水や食料や酒も備わっています。外界と唯一通信できる電話がひとつ置かれています。
磐谷隊長が軍歌と共に参戦するところから、徐々に戦況が悪化していって、通信も途絶え孤独になり、恐怖に耐えながら戦い抜きますが、死を迎えてしまいます。
台詞は詩が基本になっています。詩に例えた台詞で磐谷隊長が気持ちを吐露します。時に激しく言葉を発し勇ましい態度を取ったり、時に悲しく、また嘆いたり、怒ったり、怯えたり、また己を鼓舞させるために勇壮な自分を演じたりもします。
国や家族の期待を背負って今、ここで戦っていることを誇りに思うことで、切れかけた精神の線を繋いでいるかのようです。
悲劇なのは、日本の軍人としての威厳を保とうとする方向にしか思考も態度も向かないことです。
「人生は素晴らしい」という言葉を何度も発します。嘘偽りではありませんが、いつでもどこでもどんな時でも「人生は素晴らしくなければならない」と決めています。
この演劇で当初、磐谷隊長は一糸乱れずに纏った、本人も送り出す側も誇りとしていた軍服姿だったのですが、一枚一枚剥ぎ取るように脱いでいきます。
軍人の磐谷隊長は彼自身の一面であり、恐怖に怯えたり、家族を思ったり、欲望を持っている素の磐谷が当然します。そこには人としての弱さがあることを、軍服を脱いだ磐谷も磐谷だと観客に伝えているようです。けれど軍人以外の自分を認めることを頭が拒むのです。最後は褌一丁になるのですが、そこまできても拒みます。
もうひとつ「俺を揺さぶるのはやめろ」という言葉も何度も出てきました。たった一人なのに、誰かに、何かに磐谷は心をかき乱されています。とても悲しいことです。
軍人として果てることができない自分自身を許せない、またそれを望まれて戦地に来ているという周りの期待に応えることができない自分自身に心を揺さぶられています。
今まで信じてきた生き様に抗うことはなんと難しいことなのでしょう。
戦争の原因は行き過ぎたナショナリズムだと言ってしまうのは簡単です。でも個々人にとっては大事なものを守り抜くことに通じていたり、家族の期待を一身に背負い、それに応えた必死な生き方だったこともしっかりと認識しなければなりません。
良い悪いという一般論は抜きにして、戦時中、国のために戦った方達はやはり、親兄弟、妻、息子、娘のためだから死を覚悟できたのではないでしょうか。
だからボロボロになっても生きている限り人間は、自分のためだけでは生きられない、人との繋がりが生命線なのです。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】真夜中の弥次さん喜多さん 演出 天野天街
こんなに笑ったのはいつだったか思い出せませんが、次に同じくらい笑ったら、その時は「真夜中の弥次さん喜多さん」を観て以来だと思い出すことができるほどの演劇でした。
上映時間100分余り、次に何が起こるかワクワクしながら舞台に釘付けになりました。
まず設定が奇抜です。
時は江戸時代、弥次さんと喜多さんはホモセクシャルで愛し合っています。そして喜多さんは重度の薬物中毒(弥次さんは軽度の薬物中毒のようです)、だから二人とも自分が何者か見失っていて、また何が本当かがわからなくなって幻覚も見てしまいます。
そして、二人にとって江戸は「薄っぺらな街」でしかなく、どうやって生計を立てているかは解りませんが、それは置いておいて、誰もが持つ自分がおかれている今の閉塞感を打破したいと漠然と感じているところに、「お伊勢参り」の広告が出てきます。
薬物中毒から立ち直ることも含めて、全てを解決するのにはこれしかない!ということで旅に出ることを決めます。
一部屋の中だけの二人芝居です。
舞台は「お伊勢参り」に出る前の喜多さんの部屋なのか、旅の途中の宿屋なのか、時間も空間も意図的に明らかにされません。そして、観客にも時間と空間の区別がつかない感覚へと誘う演劇です。それを極上の笑いで巻き込むところがこの演劇の味噌です。
とにかく掛け合いもアクションもリズムが良いから乗ってしまいます。手品のように色々なところから小道具が出てきますし、照明と映像を駆使してもいます。
そして内容ですが、時間が戻ってしまう繰り返しのパートがいくつかあります。
短いパートは、部屋の畳にスイッチがあり、それを踏むと数分前に戻る現象が起きることを二人は発見します。そこで喜多さんは死の世界を見に行くことを思いつき、何度も自殺をします。シュールでブラックユーモアな題材ですが、あまりに辻褄が合わないことを合わせようとする姿とテンポ良く進む台詞で明るい笑いになります。この短いギャグをこれでもかと繰り返すのですが、ギリギリ面白さを外さない回数です。
また、大掛かりな繰り返しもあります。
弥次さんには見えて、喜多さんには見えないものがあるという設定で、アイフォンでうどんの出前を注文する所から始まるのですが、これが長いパートで、時間が戻る時点では見ている方はどこがこのパートの最初のシーンだったかがわからない位です。それで最初のパートで、本当の出来事なのか、喜多さんの幻覚か、または弥次さんの夢か、と注目していると、繰り返しが起きて、再度演じているパートは、ではそっちが本当なのか、それとも二人の幻覚なのか、と複雑な入れ子構造になっています。
でもそれがまた面白いから、次はどんな展開になるのかと身を乗り出します。
終始笑いが絶えないのですが、終わってみると二人が、馬鹿げた繰り返しをしてしまうことも、自分が何者がわからなくなっていたことも、薬物中毒だから二人がこんな男達なんだではなく、二人は何も特別ではないということにふっと気づきます。
空から下界を見ることができたら、多分我々の日常は弥次さん喜多さんとなんら変わりないでしょう。
そもそも自分が何者なんてわかっているつもりになっているのが私達です。そして自動反応のように毎日ほぼ同じような暮らしをしています。朝起きたら着替えて歯を磨き朝食を取る。たまの休みは演劇を観るかもしれませんが、日常はだいたい起きる時間も寝る時間も含めてやっている事は大体同じ繰り返しです。
弥次さんも喜多さんもちょっと前のことは覚えていないコミカルな人物ですが、これだって自分を振り返れば同じようなもので、昨日何を食べたかなんて思い出せるか疑問です。
そしてお互いに見えるものと見えないものが違うということだって、私達の物の見方と同じです。自分の主観で物事を見たり聞いたりします。認知的不協和もその好例です。
考えて見れば時間軸もあった方が便利だから人が作った観念で、生物は子孫を残すことが目的で死ぬまで日々繰り返しな生き方が当たり前です。
この演劇では、人間て面白可笑しく、そして愚かな存在だと鑑賞中感じていましたが、それが自分自身だということにちょっとショックではありましたが、でも人は日々の繰り返しに疑問を呈することができる進化できる存在であることに誇らしくも成りました。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】マハーバーラタ~ナラ王の冒険~ 演出 宮城聰
この演劇の大団円は、力強いリズムに乗せて、演者全員が揃っての観客を心強くさせてくれる圧巻の声明があり、体中の血が騒ぎました。ありきたりな言葉になってしまいますが、この大団円で感動しました。自然に瞼にも涙が浮かびました。
世界中の人が仲良くなることなんてできない現実がありますが、せめてこの演劇を観た人達は家族や友人にもっと優しくできるでしょうし、少なくとも私個人は「もっと仲良くしよう」と心の中で叫んでいました。
物語は東西南北の4つの国のひとつ、西の国のナラ王と、ダマヤンティー姫の婚礼から始まります。ダマヤンティーは人間界だけでなく、神様達も后に迎えたいほどの身も心も美しい女性です。けれど姫の心を射止めたのはナラ王で、失恋した神々までもが、この婚礼を祝福しています。
けれど嫉妬する者はいるもので、悪魔のカリはナラ王を許せません。
二人は二人の子宝に恵まれます。また、ナラ王の手腕で国も栄えている幸せの絶頂でした。カリはこの時点でナラ王を地獄に落とします。
ここからナラ王の冒険が始まるのですが、冒険はダマヤンティーも同じです。ナラ王は賭け事に狂って堕ちた自らを責め姫を実家に戻すために身を引きます。ナラ王はいつか姫を迎え入れることができるようにと泣く泣く姫と別れます。
森に残された姫も、体一つのナラ王も苦難の旅が始まります。
演劇はスピーカーという台詞を語る演者がいて、それに合わせてムーバーという演者が動きます。サイレント映画を立体にしたような感じを受けます。
そこにリズミカルな演奏が加わり野外劇場に木霊します。
衣装は全員がアイボリー一色の衣装を纏っています。劇場の背景は山ですから、自然の木々が目に入ります。薄暮になるに連れて衣装は照明に照らされて浮き出てくるように見えます。
この演劇は、ムーバーとスピーカーもしかり、衣装も本物とは遠くしています。また、衣装以外に白いトラや白い蛇、そして象徴としての鼻だけですが白い象が登場し、活躍します。それらを含めて自然の中に白い衣装が映えている様を見ていると異空間にいるような感覚になります。だから見えていない情景が見えてきて心を撃ちます。
ナラ王が森で姫と別れる時、姫の片袖だけを持ち去ります。姫といつも一緒にいられるようにです。目覚めた姫は王がいないことを悲しみます。
二人の演者はムーバーですから動きだけで表現します。スピーカーからの補助はありますが、あくまで観客は動きに注視します。
また、姫は森で蛇に食べられるという危機に合いますが、旅人に助けられます。けれどその旅人に今度は付け狙われます。王も裸一貫で流浪の旅です。
それらを簡単に見せるのですが異空間にいることで、二人の心中を探るのです。
またかなりユーモアを含めた展開なのも特徴です。日本語での言葉遊びもありますし、観客を巻き込むサービスもありますし、時事ネタも巧妙に入れています。
そんな楽しい演出とリズムに乗ってクライマックスへと進みます。
ナラ王は自分の一番の得意技の馬術を駆使して姫を迎えるチャンスを得ます。それは同時に国を失った賭け事はカリの策略であり、カリに憑かれていたことが原因であり、カリに憑かれることを拒むことにもなります。
この物語は、あきらめないこと、準備しておくことのメッセージが込められています。そして最も発信したいことは、信じることです。
王はいつか姫を迎えようと心に決めていました。それと同じく姫も王が迎えに来ることを信じていました。王は醜い姿に変えられていましたが、姫はその姿でも王を見極めることができます。王の迎えを信じて疑わなかったからです。不安な日々を過ごしていたはずですが、不安と信じないは別です。
不安だけれど信じていられるということは、王を想う気持ちの強さです。当然同じほどに王も姫を愛していました。
だからこの演劇は、純愛物語でもありますし、大団円で感じた印象は、二人の純愛物語を下敷きにした世の中を愛する気持ちを持ちたいという愛の演劇であったと私は想っています。
【いもたつLife】
【SPAC演劇】ファウスト第一部 演出 ニコラス・シュテーマン
すごい演劇を観た。というのが鑑賞後に浮かんだ言葉です。
主要登場人物は、ファウスト博士、悪魔のメフィスト、ファウストが一目ぼれするグレートヒェンですが、役者3名がこの3名の人物を固定しているわけではなく、3名が時にファウストを、時にメフィストを、時にグレートヒェンを演じます。主な受け持ちがありますが、固定されていません。
ファウストという人物は、またグレートヒェンの苦悩の内は、ということを、縦横無尽に役が入れ替わることで観客は固定された人物からの受け入れを拒まれます。
人は置かれた立場や状況や、誰と対峙しているか、またその時の本能を含めた欲求で、様々な気持ちになり態度を変えます。それを現しているようです。
多くの方々がファウストを世に出しています。その数だけの解釈があります。この演劇ではファウスト博士が直情な人物として描かれます。学問を修めた達観な人とは少し趣が違います。嫌らしいメフィストに近いとも言えます。
だからファウストは欲望ゆえに堕ちていくのではなく、自分と戦っている人物像に映ります。これは投げ掛けで、個人的には自己の内を見せられている気分です。
それは理屈を優先させている前半の台詞にも大きく現れています。
また冒頭にドイツの演劇は何でもありと宣言して始まり、徐々にそれが露になりますが、ここも私が心の内を観るということを感じたことに繋がってきます。
だから、鑑賞は心を抉られるような体感になります。
しかしそれとは間逆な美しいソプラノが奏でられます。
この演劇は人間性の否定ではないとも感じる瞬間でした。
またメフィストはグレートヒェンに絡まるように体を接します。悪魔ですからメフィストはグレートヒェンの目に見えることもあり、姿を見せないこともあると解釈しました。体を絡める時は見えないときでしょう。でもそれでもグレートヒェンはメフィストを嫌悪します。
ファウストを愛しながら友人のメフィストを嫌うのは、姿を現さない時の嫌らしさを感じ取っているからですが、ここも人への言及で、人が人を観るのはその人の存在そのものであり、言葉や行動ではないことを強調しているかのようです。
3者が3役に別れる演出と素晴らしいソプラノだけでなく、補完のための映像が時折挟まれるのも特徴的でした。
役者の演技も含めてかなり高度なことが盛り込まれていることを強く感じます。一度では捉えきれないことが多くあったことが残念なほどです。
だから鑑賞後に浮かんだ言葉が“すごい演劇”だったのだと思います。
【いもたつLife】
出荷用の苗
毎年苗を作って欲しいと頼まれています。
そのお取引先用に、かぼちゃ芋の苗を育てています。
今週が第一回目の出荷で、何とか間に合いそうなまで育ちました。
【芋日記】