ここから草取りです
ビニールハウスに四方にビニールをかけ
苗場が出来上がりました。
水もたっぷりで温度も上がっていますから、
草も生えてきます。
【芋日記】
ビニールハウスに四方にビニールをかけ
苗場が出来上がりました。
水もたっぷりで温度も上がっていますから、
草も生えてきます。
【芋日記】
今を憂うメッセージが込められた、大人のファンタジーで、世の中から疎まれがちになってしまう女性と、人間ではない存在が結ばれる愛の物語です。
1962年のアメリカ、政府の機密を扱う研究所が舞台です。
口が聞けない(耳は大丈夫)イライザ(サリー・ホーキンス)はその研究所に清掃員として勤めています。
そこへ、アマゾンの奥地では神と崇められているという半魚人が研究材料として運ばれてきます。イライザはその半魚人に何故か惹かれていきます。
1962年ですから、冷戦の背景が強調されていたり、当時の映画が上映されています。そして、二人の敵となる男ストリックランド(マイケル・シャノン)は当時の勝組みの価値観を持った典型的な男で、もちろん憎まれ役です。
大人のファンタジーなので、暴力と性描写があります。それがあるので、ファンタジーなのですがリアルに愛の話として響きます。
また、イライザが口が聞けない、手話で会話をするのですが、他人はもちろん半魚人ともで、ここは憎い演出で、言葉は当然通じないし、手話でも通じないのでしょうけれど、手話は表情も仕草も伴うし、だから半魚人とも通じるし、実は普段の普通の会話も言葉なんてどうでも良いともとれますし、実際そうです。
ストリックランドは、当時も今も同じ危うい社会情勢が発動した暴力で、二人の純愛を引き裂く、それは世の中の一方的な道理からでもあり、世間の強い妬みからでもあります。
そして、いよいよ押しつぶされるというところで、半魚人は神の力を発します。
二人は海で結ばれます。
世間から押しつぶされてしまう、少し尖った二人が、愛を成就できるという所が味噌のダークな部分に真実が反映された良作でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ほしいも作りではビニールハウスを囲うのは苗作りの時だけです。
干し場の時は風通しが良いように、
その時以外は、ビニールも剥がしておきます。
【芋日記】
ミステリーかと思いきや、重厚な人間ドラマでした。
主要人物は直情的で短絡、自分の思うがままにしていないと気が済まない奴らなので、ハチャメチャなことが起こりますが、そんな嫌な人物を通しての人間賛歌です。
7ヶ月前に娘を惨殺された母ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、不甲斐ない警察への警鐘を込めて、どでかい看板に警察と署長に対しての抗議の広告を掲載することから物語ははじまります。
この殺人事件を掘り下げるのではなく(事件も展開にもちろん絡みますが)、当事者達を追うドラマです。
主要登場人物がとにかく濃い。ミルドレッドは怖いもの知らずの肝っ玉かあさんで、警察を敵に回しても自己主張を曲げません。
この警察署自体もミルドレッド曰く殺人事件よりも黒人差別に躍起になっていると揶揄されるのですがまさにその通りです。
その署長のウィロビー(ウディ・ハレルソン)も、それらを束ね手綱を引いているのですから相当強かです。また末期がんに冒されていてそれをも世論の味方にし、結局自殺するのですが、それも計算づくプラス自分の心情に従ってのことです(勇気があっても自殺は出来ないかもしれませんが)。
濃い部下ディクソン(サム・ロックウェル)がもう一人のキーパーソンで、とにかく酷い。警察権力を自分の感情処理に利用している、すぐにキレル男です。
この3人が自分の主張を決して曲げないのですから事は収まるどころか、収集がつかなくなっていきます。
そしてそれぞれの思い違いとすれ違いで事件が解決するどころか、怒りの連鎖が起こります。
そんな展開なのですが、ちょっとしたきっかけで(自殺した署長のミルドレッドとディクソンに宛てた手紙)、二人の視点が変わります。
やっていることは相変わらずの短絡で直情的なのですが、ふっと我に帰るそんな雰囲気を醸すようになります。自分の視点だけで観ていたミルドレッドとディクソンがそれだけではなくなるのです。
ラストシークエンスは事件の解決にはならないけれど、少し変ったミルドレッドとディクソンにとってはけじめとなる行為で、避けて通れないことです。
ここに人間の不可思議さと愛らしさが込められていると感じました。
隣に居たらうざくて付き合いたくない連中ですが、人本来の姿のようにも見えました。
追伸
4/5は「清明」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「清明」の直接ページはこちら
清明
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
ソフィー・マルソーのプロモーションビデオでした。
ソフィー・マルソー綺麗ですね。
観ていて、「イザベル・アジャーニの惑い」が思い浮かびましたが、
あれよりも、ある意味純粋に、ソフィー・マルソーのための彼女をフィルムに納めるためのプロモーションビデオになっているように感じました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】