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ぎんさんのいずみと紅はるか
今年流行りの紅はるかを、ぎんさんも栽培しました。
いずみよりも紅はるかは明るい黄色ですが、
乾いてくると、色合いが似てきます。
微妙に色が違うのと、形で見分けます。
解らない時は味見です。
忠八さんの原料芋
毎年タツマのために玉乙女を作ってくれる忠八さんですが、
今シーズンは春に玉乙女の種芋が傷んでいたので、
不足分は、紅はるかの苗を作り作付けしました。
ですから、紅はるかと玉乙女を交互に加工しています。
ホーリー・モーターズ 2012仏/独 レオス・カラックス
レオス・カラックスの人生観と、映画に対する想いが詰まった映画です。
冒頭、レオス・カラックスに映画の中の映画に誘われます。
レオス・カラックスの分身のドニ・ラヴァン(役名はオスカー)がリムジンの中で、
次々と異なる人に成りきって、(それぞれに依頼者がいて望まれた人物に成りきる)
クルマから降りるとその日その人が起こすドラマを演じます。
様々な人々の人生の一ページで、それはレオス・カラックスの人生観でしょう。
ラスト近くでオスカーが演じていたのは一人の人物が望んだ姿だけではなく、
そのシーンにいた重要な人物もオスカーのように依頼されて導かれたのだということがわかってきます。
ラストでそれが明らかになり、その日の演目が終わったことも明らかになります。
レオス・カラックスの人生観と彼の家族に対する愛と映画へのオマージュが、
入れ子構造になっていて、意味深さを消化しきれないことも多かったのですが、
意図(私が解釈した)はひしひしと感じます。
そして、神への畏敬も秘めていることも。
真摯な生き方を説いているとも感じました。
【SPAC演劇】忠臣蔵 作 平田オリザ 演出 宮城聰
太平の時代に『武士道』を貫いた赤穂浪士、忠義を尽くし主君の仇を討つその舞台裏を、独特の解釈で描いたこの忠臣蔵は、牙を失った武士でも大儀を成していけることを示唆しています。
それは同時に、平和ボケ、飢えも知らず、国に頼ることを恥じない風潮、都合が良い生き方が許される社会、そんな現代人でも大事を成せることへの希望が込められていました。
ただ、劇全体を包む喜劇性は大事にたどり着くことは容易ではないことも感じさせています。
劇は家老の大石内蔵助と6名の宮仕えの侍達による、藩と自分達の今後の身の振り方を決める場面が主です。浅野内匠頭が吉良上野介を江戸城内で切り付けたことで即日切腹、吉良はお咎めなしの報を受けた直後です。
篭城か、開城か、おとなしく他への仕官を求めるか、忠義を尽くして切腹か、はたまた吉良を討ち取るか、喧々諤々です。
喧々諤々の中身が洒落ています。保身と打算に感情論、日和見に、思いつき、そんな卑しくも正直な気持ちの大前提を踏まえての議論は、「幕府の理不尽な裁定と、それに対する抑えがたい武士道精神」という構図は微塵もありません。
そして主君の死さえもひとつの出来事として相対的に捉えて、淡々とクールに自分達の今後を面白おかしく憂う姿は、傍からの印象であって、当事者達は真剣そのものの本音です。
主君の無念を晴らす仇討ちは確かに大事で、もちろんやり遂げたい、でもその大儀で自分はどうなる、家族はどうなる、そもそもそんなことが現実的か。
ならば無慈悲な幕府の言いなりになるのか。篭城で自らの身を守りつつ憂さを晴らすのか。それも嫌だし、それを認める自分を許せない。
そんな本音が無自覚でも確固たる意志として議論されます。それを現代的な演出にして上質な喜劇に仕上げています。
「関が原から100年経った今、我々は武士道はなんなのか見失っている」という台詞があります。『武士道』を背負っているのが武士だという幻影が、武士とはこうでなければならないという価値観を無視できない状況を作り、それに縛られた姿を見せています。
巷の忠臣蔵ではこういった気概の浪士達を賞賛しています。それも人が持つ普遍性であるから、忠臣蔵が今も皆が求める物語足りえるのですが、赤穂浪士全員が足並みそろえて討ち入りに向かっていったということはありえません。この仇討ちが美化されているとまでは言いませんが、案外この忠臣蔵の侍達のやりとりのようなことから討ち入りが出発していたとしても不思議ではありません。
赤穂浪士の行為の聡明さや一途な精神はこの事件後の後付の評価です。事件から300年、多くの見解があります。平田オリザさんや宮城聰さんも自分の思惑として(強調しているとしても)、こんな顛末があっても良いと考えての演出には私も共感します。
ただ「こんな顛末があっても良い」の奥には、侍達が真摯に藩に向き合っていることが絶対条件です。それは真面目な仕事ぶりと、結果的には可笑しくなるけれど真面目な会話で表現されていました。そして、飄々とした内蔵助の中に実は武士道精神が潜んでいるからこそ忠義が実現したということも、この劇で触れているというのが私の解釈です。(これは劇中の内蔵助の遊びの衣装での振舞いと最後の釣りのシーンからです)
この忠臣蔵は、討ち入りを決めるまでの議論を見せています。
吉良を討ち取ることが侍達の総意であり、固い意志であり、だから成しえたという物語とは全く違った、そんな想いとはかけ離れた遠いところで討ち入りが決まっていったという喜劇です。
だから、この劇の後日談として吉良が討ち取れたと仮定すると、侍達は最初は出来るかどうかは半信半疑で、仕方なしに内蔵助について行ったら事を成しえたということになります。
しかもその時の四十七士はエリートばかりではありません。なにしろ劇中の議論で決まったことは、「他の大名に仕官したら無理に討ち入りに参加しなくても良いよ」という内容で、これだと優秀な者ほど抜けていきます。でも行き場がなくなった必死の者が残るというのがメリットともいえます。(劇中に仇討ちを成功させて、助命を受ければ士官の先は引く手数多というシーンがあります)それにしても現実的ではありません。
でも大儀が適います。
その、“結果成しえてしまった”という所が、この忠臣蔵が、牙を抜かれた闘争心に欠けてしまった現代人にも、大儀を成すことができるという賛歌だと思うのです。
もちろん相応の努力が前提になりますが、揺るぎない決意がなければ出来ないのではなく、外堀を埋めるかのように粛々と環境を整えることで、いつのまにか出来ていたというのが私達が事を成せる本来なのです。
でも繰り返しますが、勤勉であること、力を蓄えていることが前提です。
この忠臣蔵においても結果大儀を成し遂げたとしたら、偶然に任せたとはいえ、容易ではない事です。
ここには、喜劇仕立てにして敢えてそれを匂わせないけれど、どんな世でも「自らが欲することは、自らが備えていた分だけが適う」ということと捉えました。
そう捉えるのは私の心の癖かもしれませんが、この演劇も真実を語っていたと強く感じますからあながち外れてはいないと信じています。
炎628 1985ソ連 エレム・クリモフ
1943年白ロシア(現ベラルーシ)は、ドイツ軍に侵攻されます。
それを迎え撃つパルチザンに15歳位の少年が兵として志願します。
映画はこの少年兵の目線で進みます。
あくまでソ連目線ですが、戦争がもたらす真実を映像で再現しています。
少年は自軍が壊滅すると、村に戻ります。
家族は少年が志願したことを理由に惨殺されていました。
この時少年の目には、殺されている双子の妹は、倒れた人形として写ります。
この映画では少年が見たくないものを見た(聞いた)時に脳が勝手に映像と音を、すり替えてしまう表現を使っています。これにより観客は少年の体験に寄り添うことになります。
狂いそうで狂えない少年の第一の試練ですが、
ここで留まることがないのがこの映画です。
その後、村人のために食料を奪いに行く途中に仲間だけ殺されること、
そしてクライマックスでは、少年を匿ってくれた村そのものが、
村人とともに焼かれる体験もします。
少年は奇跡的に生還しますが、終始幾度も生死の境目に漂うしかなかった少年は、
老人のような皴ができていました。
ソ連映画ですからナチスドイツが祖国にやった仕打ちを描きます。
第三者から見てもその行為は目を覆うばかりです。
怖くなったのは反戦映画ではあるのですが、
ロシア(ソ連)の人達がこの映画を観たらドイツ人を許せなくなりそうなほどの映像だったことです。
欧州はそれを乗り越えてEUを進めていますから杞憂でしょうけれど。
この映画は人の狂気を赤裸々にしています。
平気でどころか、狂喜しながら村人を焼き討ちにするドイツ兵達、
略奪、強姦、暴力、弱いものをいたぶります。
狂喜に逃げるかのようです。
しかし、それを受ける側は正気ではいられません。
少年の精神が病んでいくのが、
姿からと、少年の気持ちになるような演出から体感してしまうことで想像できるのですが、
“実はこんなもんじゃない”ということも同時に大きく心に訴えてきます。
戦争は一瞬にしてこれまでの人生を無意味にするかのように、人々を絶望に落とします。
根も葉もない子供(幼児)は生まれたことに意味などなかったかのごとく無残に残酷な仕打ちを受けます。
オセロの白と黒が変わるように、一瞬です。
そしてそれはドイツ兵も同じです。
ラスト村を焼き払ったドイツ軍は、パルチザンの逆襲に遭います。
将校達は捉えられます。
一番の親玉の大佐は命乞いをします。
それを潔しとしない青年将校は、銃を向けられながらも、主張します。
「共産主義は下等だ。だから根絶やしにされるのだ」
「子供から全てがはじまりになる。生かしておけない」
「貴様らの民族には未来はない」
戦争の始まりは積もり積もった多くの要因ですが、
それを遂行するために論理があとから付け足されます。
そして正当化されてしまいます。
戦争により、人の悪が育ってしまうことをこの映画でも痛いほど確認できてしまいます。
追伸
12/22は「冬至」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「冬至」の直接ページはこちら
冬至
女優と詩人 1935 日 成瀬巳喜男
ベタな展開の喜劇ですが、上質に仕上がっている
初期の成瀬巳喜男作品です。
冒頭からサイレントを思わせる演出で、
見事に登場人物の人となりを匂わせておいて、
入れ子構造の喜劇に繋がります。
わかっているけど可笑しい展開で、人の心をくすぐります。
時は軍事政権前夜ですが、ほのぼのとした舞台劇です。
物語は、稼げない詩人の主夫と、家計を支えている女優の、夫婦の愛が深まる話です。
「めし」をとっても可愛らしく演出した感じです。
電車が通り過ぎるたびに、時の流れと夫婦の生活を伝えて、
最後により仲睦まじくなるという洒落た落としどころも準備されていました。
個人的に大好きな三代目の三遊亭金馬師匠が観れたのも大きな収穫です。
師匠をはじめ、師匠の奥さんは目茶おしゃべりで図々しいおばちゃん、
おっとり主夫とその友達の一癖あるやはり売れない小説家、
その4人がとても良い味です。
小品ですが、とても魅力があり、成瀬巳喜男ファン必見でしょう。
追伸
『年賀ギフト干し芋』販売開始しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
『年賀ギフト干し芋』の直接ページはこちら
年賀ギフト干し芋
紅はるかの丸ほしいも、四切り芋
今年もてはやされている注目の品種が、“紅はるか”です。
昨年何軒かの農家で作ったところ高品質と評判になり、
今年ブレイク!という感じです。
定着するかは味も大事ですが、
収穫量、保存性、作業性等の総合的な要素で決まります。
紅はるかの大きな特徴は、
糖化が早いことと、形状がかなり細長いことです。
丸ほしいも位の太さが多いのですが、
丸ほしいもには太くて長いというのが多く収穫になります。
そこで作ったのが、四切りほしいもです。
細長いので、綺麗な四切りほしいもに仕上がります。
安曇野の農家訪問
常念岳の麓の安曇野市の農家を訪問しました。
ほしいも作りをしている農家です。
茨城のほしいも産地よりもさらに寒いところでした。
原料芋を洗う水が凍ってしまうので、
早い段階で洗っておかないとならないそうです。
ただでさえサツマイモにとって気温が低いうえに、
洗った原料芋の保管なので、
相当保管が大変です。
とにかく冷やさないようにというお話をしました。
熱波 2012葡/独/伯/仏 ミゲル・ゴメス
主人公は80代の老女、現在ポルトガル在住。
主人公の現在が第一部、50年前のアフリカでの彼女が第二部です。
第一部では第二部以降の長い人生の集大成を示します。
偏屈になってしまった主人公、でも今際の際で一人の男と会うことを懇願します。
その姿は現代の隣人にはみせたことがない、
彼女の人生の終焉に決着をつける彼女の意志の生きた証の確認です。
それが何なのかが第二部で語られます。
アフリカ、ポルトガルの植民地でなに不自由なく暮らしていた若からし頃の主人公の、
禁断の恋物語です。
舞台アフリカの暑い大地で、熱い恋がありました。
なに不自由なく暮らす生活なのに、愛する夫を失うのも厭わない、
より燃えるような恋がありました。
そんな恋(愛)が続くことがないことは、彼らの周辺も、鑑賞している私達も、
心の底では本人達も承知です。
そしてその通りになります。
けれどこのアフリカでの一時は、主人公にも相手の男にもその後の人生の指針を決める大きな要素でした。
第二部ではその根源が綴られています。
切ない恋物語と言えば簡単ですが、その演出が魅力的で、根源に言及しています。
第二部は、亡くなった主人公を偲ぶかたちで、
主人公と同じように人生の終わりを迎えようとしているアフリカでの熱い恋の相手の語りです。
50年前の主人公とその頃の輝いていた数々の映像は映りますが、
彼の回想以外の声は聞こえてきません。
ただし、アフリカの自然の音と、彼らが精魂こめた音楽だけは観客に届きます。
この演出がこの映画の語りたいことを表現していました。
あくまで主人公ではない目線で語る主人公の姿が映ります。
その主人公を想う語り手の愛がかぶります。
音はアフリカの音、それは二人がいつも感じていた音でしょう。
二人で会う蜜のような時間でも、それが背徳で胸を苦しめる時間でも流れていた音です。
アフリカ時代の主人公達の仲間のバンドが放つ音楽は、
映画に、二人の不徳に対して意を唱えるかのように流れます。
このように(観ていなければわからないでしょう)、
二人には祝福はなく、アフリカでのロマンスは終わりを告げます。
その後、長い長い時が流れました。
たかが不倫の物語かもしれません。
だからそれを肯定しているわけではありません。
でも、熱い姿を映したいように思えてなりません。
日本を含めて現代の成熟社会はそれを許さない、
熱い想いを生むことの胎動もない世界だと、
それがない時代を語っているのでないかと、
この映画を観て想わずにいられませんでした。
ローラ 1981西独 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
マリア・ブラウンの結婚の後を受け継ぐ、その後の西ドイツの姿の映画でした。
復興が軌道に乗った後に起こる、賄賂、癒着、権力の腐敗、私利私欲化、それらを背景に、
中年男と美しい娼婦の愛の物語ですが、皮肉たっぷりの内容です。
表面的には純愛物語です。
州の役人、建設局長として赴任した堅物男が、街で会ったローラに恋します。
娼婦とは知りません。
どうしてもローラに会いたい局長を見ていた部下は、
局長をローラが要るクラブ(売春バー)に連れて行きます。
唖然とした局長、なにしろまじめ一筋でしたから。
でも局長は気を取り直して、ローラをモノにする、というお話です。
純愛は表面だけ、一皮むけば欲望だらけの物語です。
ローラは、街一番の建設会社の社長の愛人です。
その社長は賄賂で会社を大きくしました。
新しい局長ももちろんもてなします。
局長はローラが娼婦を知るまでは、局長として穏やかでした。
公共事業はこれまで通りで構わないというスタンスです。
それが、ローラが建設会社の社長の愛人と知るや、手のひらを返します。
これまでの不正を暴く、全うな役人に、鬼のようになります。(正義です)
困ったのは社長をはじめ、市長達、みんな恩恵に預かってましたから、
そして局長がやっていることは、グーの音もでない正義です。
そこにローラが一役買って、局長と彼らの橋渡しです。
もちろん、局長はローラに丸めこめられますが、ローラと結婚という、
純情男いとってこれ以上ない果実です。
彼らも安泰、そして一番貰いが大きかったのがローラです。
一介の娼婦が大金持ちの仲間入り、しかも一目置かれる存在に、
しかもかねてから欲していた自分が属するクラブも、愛人だった社長に買ってもらい、
しかも、まだ愛人関係を続けるというしたたかさです。
正義が完全に駆逐されるという、根も葉もない解決です。
でも表面的には純愛です。
ローラは局長に正体が知られた時には、心から嘆いていましたし、
彼と居る時はかれと同じく純情でしたから。
でもそれとこれとは違うのが現実だったということです。
映画中他にも人に嫌な部分を映しています。
金持ちが貧乏を嫌うところ、東から来た(東ドイツ?)からきた女性を馬鹿にするところ、
いかにも役所の人々を映すところ、金持ちの社長を取り締まらない警察官、
街の建設計画が無事に遂行されることになった時のシーンも見たくない映像です。
この映画も監督にとって、自国を憂い愛するものだったことが伝わってきます。