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決闘般若坂 1943日 伊藤大輔
伊藤大輔監督、
片岡千恵蔵の武蔵(たけぞう)と月型龍之介の宍戸梅軒という、
往年の名時代劇です。
劇場で鑑賞できたことを素直に喜びます。
75分なので現代映画からすれば短い部類です。
テンポ良く話も絞っているので、尺は過不足なくです。
冒頭の敵討ちと、ラストの梅軒と梅軒の妻との殺陣のシーンも迫力ありました。
切っても地が噴出したり、効果音を効かせていないところは、
かえって健全な時代劇という印象です。
女性二人が武蔵にかかわりますが、
日本女性という感じです。
二人とも(プラス弟子の子供)武蔵を信頼しています。
何年ぶりかrの再会でも、武蔵からのねぎらいもなく、
ほとんど会話もないけれど、またこれで何年も信じて待つことができる。
そんな男と女(同姓同士でも)の信頼関係は、
今は希薄だなと思ってしまいます。
江戸初期の時代というよりも、
この映画が製作された頃はこういう雰囲気だったのでしょう。
今は携帯電話とネットという社会なので、
こういう信頼関係はできないのでしょう。
そして、ラスト武蔵は敵の子供を救い、やっつけた敵を弔います。
この精神も見習いたいものです。
話は前後しますが、ラスト直前に、
強くなっても、沢庵和尚には叱られます。
強くなったら、それ相応の責任を身に纏うということです。
これも耳が痛いエピソードです。
御誂次郎吉格子 1931日 伊藤大輔
【ピアノ伴奏 柳下美恵】【活動写真弁士 片岡一郎】
サイレント映画ですが、ピアノ伴奏と弁士付きで鑑賞です。
ピアノは全く気にならないどころか、
フィルムから聞こえてきているのではないかというくらいフィットしていました。
静の場面は、ささやかな音色、
動の場面の大きく揺れ動くような激しい音色まで、
強弱とリズムがピッタリです。
そして弁士も、言葉が過ぎず足りずです。
この話は、字幕だけではちょっと辛い(わかりにくい)ので、
最初は弁士付きの方が深く理解できました。
多分、当時はほとんど筋は知って観ていたのではないでしょうか。
肝心の映画ですが、なかなか見事な演出です。
スピード感ある映像と、随所の細かい映像にメリハリがあります。
スピード感は、格闘(決闘)シーン、
細かいシーンは、庶民の映像の時です。
髪結い床に集まる人たち、下町で戯れる子供のシーンなどです。
そして圧巻が無数の御用提灯が鼠小僧次郎吉を追い込むところです。
アクション映画と恋愛が合わさった展開と、美男美女の競演、
もう既に映画ならではの魅力をいかんなく楽しめます。
大河内傳次郎のかっこよさは予想通りでしたが、
ヒロイン二人が良いのです。
ちょっと世捨ての女が次郎吉に恋焦がれ、
次郎吉のために身を投げる健気な女ぶりを魅せます。
ゾクッとするアップ映像があります。
その女と対比される、純真無垢な女がもうひとり。
この二人は、伏見直江、伏見信子の姉妹とのこと。
女の魅力が収められています。
伊藤大輔監督作品の現存しているフィルムは、
1980年頃から発見されてきたそうです。
現在だから観ることができるようになった私達はとても恵まれています。
別離 201イラン アスガー・ファルハディ
一組の夫婦が離婚調停している場面からこの映画は始まります。
イラン国外への移住を希望する妻、
11歳になる娘の将来を危惧しての決断です。
当初は夫も賛同していましたが、父がアルツハイマーになり、
介護が必然の状況になることで、妻に対してその約束を反故にするところから
持ち上がった離婚騒動です。
妻は実家へ、介護は夫と娘と、ヘルパーとなります。
ここから夫婦も含めた泥試合が始まります。
イラン社会の現状を上手に現しながら、
緻密な脚本は観客を惹き込みます。
展開上不可欠の二つの嘘の設定も見事なら、
一人ひとりの自己を守る台詞も絶妙です。
日常の延長で起こった出来事が、
悪い方向へ転がり、サスペンスも絡んだ極上の人間劇です。
夫婦は中流家庭です。
介護に雇われたヘルパーは貧困家庭です。
バスを乗り継ぎ幼い娘を連れて、身重の体で働きます。
彼女の夫は短気でヤクザまがい、挙句の果てに失業中です。
日銭が必要な貧困、妊婦とヤクザまがいという背後設定を踏まえた上で、
事件が起こります。
彼女が無断で介護を抜け出し、その隙に父は危うい身になります。
それが夫と娘に発覚、彼女は解雇、それだけにとどまらす、
夫と女がいざこざになり、夫が女を突き飛ばし流産という事件に発展します。
イランでは数ヶ月の胎児が流れると殺人罪になるために、
裁判になります。
争点は、夫が女の妊娠を知っていたか。
ここからサスペンスの色合いが濃くなります。
夫は本当に妊婦であるという認識がなかったのか?
逆に女の流産は、夫の過失が原因なのか、どうもそれ自体も怪しくなります。
この映画の秀逸さは、その表面的な裁判の争いの奥にある、
当事者二人に纏わる人間関係の今までの積み重ねを、
裁判の進行に重ねている所と、
夫が主張する安易に罪を認める行為の生きる尊厳の放棄への警鐘です。
金で解決をしようとする妻と、どこまでも折り合いません。
妻の行為は不安を払拭することだけに囚われています。
けれど、安心とそれを速やかに手に入れられる時間を買う行為を、
否定できません。
ただ、夫は尊厳を捨てられないのです。頑なに。
そこまで頑なになるのは、娘に折れる父親像を示すことが
二人のこれからの一生に埋められない溝を残すことになるからです。
そうなってしまうのは、
既に夫妻が別れの真っ只中にいる、これまでの関係からです。
娘はもうさんざん夫(妻も)が不審なのです。
ふたつの嘘にひとつは、夫です。
妊娠を知っていた事実です。
尊厳を守りたい夫の態度はこの嘘がある限り、娘は不審をぬぐえません。
けれど、裁判の進行を考えると、これの露呈は決定的な不利になります。
それを設けているこの台本はとても残酷です。
もうひとつの嘘は女です。
夫のいざこざの前に既に流産は決定的だったことです。
この嘘ももちろん裁判で決定的に不利です。
この背景にはヤクザな夫が絡んでいます。
イランの格差と社会状況を見ます。
話はそれますが、
女が介護の父を触ることを躊躇するシーンがあります。
それらを含めて、イスラム教を体感させるシーンが多く出てきます。
結局女は、夫の過失をコーランに誓う条件で、金を受け取ることができませんでした。
これらもこの映画の特色です。
イランのありのままを見るようなのです。
この映画では誰も勝ちになりませんでした。
夫婦は、別れを強化しただけです。
娘はラスト、離婚が決まった両親のどちらの元につくかの選択を求められます。
それ自体もだれも勝たない証ですが、
娘は全神経を傾けた日々で、その結果がこころの傷と両親の離婚です。
(私は、娘と両親との別れがこの題名にかかっていると推測しました)
そしてヘルパーの夫婦も勝つことなく終わります。
この夫婦の娘も主人公夫婦の娘同様の傷を負いました。
日常の延長であることがこのシナリオの怖さです。
老人問題、経済格差、宗教を盾にしたエゴの放出、
不安な社会から逃走したいという動機からの妻の行動、
豊かになるごとに大きくなる普遍の問題を語る作品です。
それがたまたまイランであっただけです。
罵り合う印象が強いのですが、
家族が家族でいることを渇望している裏返しのようにも思えました。
桃さんのしあわせ 2011中/香 アン・ホイ
桃(タオ)さんは孤児でした。
13歳から60年間ある家庭の家政婦でした。
その桃さんが脳溢血で倒れました。
その時は勤めていた家庭は、息子ほどの年齢の男だけでした。
男は桃さんを看取りました。
この映画は冒頭、桃さんが60年間どんなことをしてきたかを匂わせます。
そして多分1年ほどで桃さんは亡くなるのですが、
その1年ほどの2時間で、60年間の桃さんの人生を受け止められる構成です。
なにより素晴らしいのは、息子同様に育った男です。
最後の時間、献身を尽くします。
尽くされた桃さんはこのために生まれてきたのでしょう。
もちろん暇な男ではありません。お金持ちのようですが。
現在の社会で人のために時間を使うことは、とても尊いことです。
実の両親でも、どこまで時間を使うことに心するでしょうか。
終わりがわからないから、死という瞬間がいつかわからないから、
だから、後回しにする。それは間違いではないでしょう。
でも後の祭りをいつも体験してきました。
この物語はそんな理屈はありません。
病に倒れたから、献身する。
そんなシンプルな行為です。
心が洗われる映画です。
ある海辺の詩人 2011仏/伊 アンドレア・セグレ
小さなヴェニスと呼ばれる、小さな猟師町(島)キオッジャが主役です。
そこにあるオステリアが中国資本になり、
主人公の中国人女性が店を切り盛りするところから物語は始まります。
元の常連が相変わらず集う店で、主人公はカタコトのイタリア語で頑張ります。
彼女には幼い息子がいて、故郷に仕送りしています。
店には気のあう者同士が集まります。(主に高齢者)
落語の浮世床と重なります。
一人の『詩人』と呼ばれる客と仲が良くなった主人公は、
『詩人』とのやりとりが楽しみになります。
けれど、世間体からそれを続けることもならず、
そして、彼との別れが訪れるというお話です。
物語は大きなドラマなく進み終わります。
庶民が生きていくところを見せるだけです。
ただ、『詩人』も異国の人でした。
遠い中国から来たばかりの主人公、
近いユーゴスラビアから来て何十年も島にいる『詩人』
二人にはほんの少しの接点があり、そこから親しくなります。
愛するには決して進まない、相手を想う気持ちは、
さびしくも気丈にいきることを決めている主人公への声援です。
劇中、屈原の詩の引用か、水辺にロウソクを灯すシーンが出ます。
そしてラストにつながります。
幻想的な炎と大きな火、主人公の心の変遷でしょうか。
素朴な人たちが、純朴ではないこと、
それは民族間の隔たりもあってのこと、
でもキオッジャという小さな街は海とともに
ずっと昔からこれからも島の誰にも優しいこと。
それをカメラが伝えます。
起伏がないところから、
こちらに問いを投げかける映画でした。
木靴の樹 1978伊 エルマンノ・オルミ
19世紀後半の北イタリアの小作農の生活を、
タイムスリップして覗き見たような映画です。
脚本も演出もなく、
貧しい4家族が生活している姿を切り取ったドキュメンタリーのような映像が流されます。
その世界は当時の農業そのものを再現しています。
今ほど収穫が約束されていない農業と、
牛と馬とあとは人手でなにもかも行う重労働、
あまりにもリアルな鳥や豚の解体、
そのどれもが演技でも演出でもなく自然の振る舞いです。
冒頭から一時間あまりは、そんな一年間の生きるための農作業を中心に、
祈りの生活の様子や子供の成長による変化、
新しい命の誕生による変化を挿入します。
家畜と人力による前時代の過酷だった農業の現実は、
家族と隣人とが力を合わせてやっと食いつなぐ糧を手にできるというものです。
そこは封建世界末期で、
生かさず殺さずから逃れられない社会の仕組みに組み込まれた農民の姿です。
働けど働けど2/3の徴税の元では、ろくな貯えなどできません。
でも、そんな苦しい毎日の中でも時折、楽しい出来事=喜びがあります。
後半からはそんな非日常も見せてくれます。
(たぶん)一年に一度のお祭り、そこでは食べ放題、飲み放題です。
それ以外に、時折訪れる商人の姿もあります。
商人も、農民たちには待ちわびた存在です。
パリからのハイカラな衣装を積んだその荷は、彼らにとっては垂涎の的です。
けれど、奢った見方ですが、祭りも商人の登場も、
爪に火を点した貯えすらも奪う行事と見えてしまいます。
たとえそうであっても彼らの精神の拠り所です。信仰と共に。
他にもちょっとしたエピソードを見せます。
金貨を拾い夢心地になる農夫、それを無くしてしまうところが彼らしく、閉塞を見ます。
工夫を重ねた新しい技術の農作業で、他の家族を少しでも出し抜きたい姿、
地主から借りている牛が病気(その家族の死活問題)になり、祈りで復活するシーン、
孝行息子が遠い道のりで学校に通う中で
木靴が壊れるエピソード(これが結末につながります)、
4家族の中の一家族の年頃の娘と村の青年との結婚、
そして新婚夫婦がミラノ(都会)にいくシークエンス、そしてそれは、
生活に糧のために養子を貰い受けるという現実。
後半もゆったりした流れは変わりませんが、
年月が経つことで人が行う慣習を映します。
ミラノのくだりでは、これから崩れていく封建時代の予兆が窺えます。
そして、木靴のための樹を切り落とした農家に罰則を科せられるラストに入り、
この物語は終わります。
絶望を宣告されたこの一家族は、一頭の馬にささやかな家財道具を乗せて、
行くあてなく彷徨いの途につきます。
ほとんどの映画の方程式から離れた、ただただ一時代を再現した映像に、
観客は己に潜む感覚を重ねてこの物語を感じ取ります。
そこには農民たちと一緒になって人が生きる苦を体感します。
苦の中の喜びを重ねようとします。
あまりにも不条理に怒りを持つというよりも
受け入れなければならない現実を受け止めようとします。
絶望に落とされた一家族の姿でこの映画が終わることが告げられます。
そこで改めて、彼らはどうするのかと、映画の世界と離れてそれを気にかけます。
その後、この家族はどうしようもないということを悟ります。
そして、これらがこの時代の未来=現在を造ったのだと感じます。
この映画も、抱えきれない、答えを出し切れない主題を私に投げかけました。
【SPAC演劇 「Hate Radio」 ミロ・ラウ 演出】
“must”で起こった悲劇を伝えるために、“must”の意識と意気込みを持って果敢に演じている作品でした。
1994年にルワンダで起きたフツ族が行ったツチ族の大量虐殺でのラジオの役割を知る術が映画『ホテル・ルワンダ』でありました。
「フツ族よ、ゴキブリ(ツチ族)を根絶やしにしろ」
ルワンダのラジオ放送が、民衆に悪意を植えつけるために延々と流していたキャッチフレーズです。それを観た時に、最初の一言では発動することがない魂に潜む誰しも持つ悪が、餌を与えられて一個人の中で芽生えて育ち、それが隣人とつながり大きく成長し、悲劇の大きな原因になったことを感じました。
そして大衆が共有した悪意は、その場その時の唯一の正義として機能し、悪でつながったフツ族達は、悪魔が宿ったようにいとも簡単に人を殺めることができるようになった。
と強く心に残りました
「Hate Radio」の観劇でも同じことを感じましたが、民衆に届く声をつくりだしていた現場を再現することで、ラジオ局で起きていたことをライブに近い像にして目の当たりにすることで、単なる悪意から発せられたと思っていたあの放送が、実は用意周到に準備された、結果を貪欲に求めた故のつくられた放送だったことと知りました。
ルワンダ紛争を知った時、宗主国の都合だけで区別したフツ族とツチ族が踊らされた結果であることにショックを受け、あの惨劇に対処する責任がある宗主国と、それを含めた先進国(国連)は、紛争を内戦として他人事とした事に怒りを覚え、それを感じている私自身でさえも日本人でよかったと思い、「人の悪の部分の現れだ」と安全なところから批判していました。
そして“一人でも多くの人が、ルワンダを知ることで世が変わる”と信じることで自分を慰めていました。
今でもそれは否定しませんが、この悲劇は、人が洗脳されることが原因で、それを阻止すれば解決できる、なんてレベルではない、もっと大きな力が働いていると感じ、今までの想像以上にルワンダの問題は根が深いことをこの演劇で知らしめられました。
ラジオ局で起きていたことは、いかに普通の人(平和に過ごしていたフツ族の民衆)を、『ツチ族は根絶やしにしなければならない』を実現させる兵士に変えるかを計算されつくして実行されている様でした。
そこは何でもありの世界です。不安を掻き立てる繰り返しの言葉、体が動かざるを得なくなる音楽、理性で抑えていた欲望に火をつけるように囁き続けます。
ラジオは大衆に対して“命令”“許可”“賞賛”で『ねばならない』を植え付け、悪魔に仕立てて“操作”しました。
適時適宜に『ねばならない』に仕向けるプログラムの遂行は、一ラジオ局だけではできません。大きな力の後押しがあってのものです。
そこには目的の達成のために、ツチ族を根絶やしにしなければならないという、大きな悪意があり、それをラジオ局が受けて、フツ族の民衆に伝播させました。
ここで疑問が浮かびます。劇中でも取り上げていたことです。
ルワンダ扮装は、ツチ族殲滅だけが目的とは思えないということです。殲滅を進めるにあたって効率が悪いほどの残虐行為をしているからです。
鉈で切り刻むなどという殺し方(他にも筆舌に現せない非情な行為)は、どう考えても恨みを晴らすことが目的です。
一個人が一個人に対して恨みを持った対象にやるようなことを、フツ族がツチ族にそれを行いました。昨日までの隣人が豹変したのです。
その根源は発展途上国が受けた鬱憤が臨界を超えて、内戦という形で発動したように見えてなりません。
ルワンダ紛争の加害者は今まで起きた大量虐殺とは違います。兵士ではない者が兵士になりました。しかも恐ろしい悪の権化になって。あの加害者達は今あの時のことをどう受け止めて生きているのでしょう。
だから煽動したラジオ局も大いなる力同様に罪はとても深いです。
それ以上に、侵略の歴史はいつどんな形で惨劇になるかもしれない火種だということを証明した事例がルワンダの虐殺です。
行き過ぎた“must”は人を金縛りにします。
ルワンダという国が抱えていた悪意は、『ねばならない』を持った時に強烈に反応する人間の性の悪用を芸術的に昇華させました。
「Hate Radio」はこの惨劇を二度と起こさないために『伝えなければならない』という“must”の気概で演じられています。
今まで積み重ねられた国家間にある恨みや妬みの鬱憤は容易に消すことはできません。しかしルワンダのようにそれを発動させる訳にはいかないために、勇気を持って悪意を表現して訴えている演劇でした。
有機圃場で種を取りたいです
有機農業の根本の考え方のひとつが、循環農業です。
畑(田んぼ)内で全てを完結させるのが理想です。
全てというのは、種であっても苗であっても肥料であっても
外部から入れない、畑で収穫したもので完結させることです。
幸い、サツマイモは自家採取した種芋でやれるので、
種(苗)に関しては自家調達ですが、
地力を上げるために定期的に休耕した畑に輪作で蒔く緑肥作物の種は、
外部のものでした。
今回、種取りを目的に、自社の有機畑でライ麦を育てました。
上手く種が取れれば、自家採取で輪作作物が栽培できます。
足跡を使って
10日程前に、畝(うね)間を除草した時に残した足跡を、
上手く利用してヒバリが巣を作ってありました。
卵は3個です。
カラスには見つからなければ良いですが。
ほめられました
隣の畑で昨秋から麦を育てて、
畝(うね)を立ててすぐに麦ここにも麦を蒔き、
同時に隣の畑の麦藁を敷き詰めていた畑です。
隣の麦藁で苗を植える前後で抑草して、
ここに蒔いた麦が伸びたので、倒して麦藁にして抑草しています。
最初の麦藁は、土に返りはじめていて、
新たな麦藁で抑草という良い循環です。
親しい農家の昭さんに「これは良いサツマができそうだ」
と誉められました。