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ブログ 今日のいもたつ

真夜中のピアニスト 2005仏 ジャック・オディアール

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主人公は不動産ブローカー、
取立屋、土地ころがしという感じの、少し危ない仕事をしています。
その父も同じような少しヤクザがかった男、
同僚も平気で浮気するという輩、
あまり好ましいメンバーではありません。

28歳の主人公の母は有名(高名)なピアニストでしたが、
10年前に亡くなっています。主人公もそれまでピアノをやっていました。
ふとしたきっかけで、もう一度ピアノで身を立てようと決心します。
ヤクザな仕事とピアノの特訓がはじまります。

主人公は、父親の呪縛から逃れられない、
母親との別れに決着がついていません。
ピアノをやめたのは、父親の意志。
ピアノを捨てきれないのは、母とのつながりが欲しいからです。

主人公の生活は規則正しいピアノのレッスンと、
空き時間にも指と頭で曲を弾くという日々と、
ヤクザな家業と同僚の妻を寝取る、嫌な取引先の女を寝取る、
時に、ピアノ教師をなじるという、
健全と不安の両面が現れる日々になります。
それがある事件をきっかけに変わります。

結果は悲惨ですが、主人公は手に入れることができました。
父の呪縛から独り立ちと、母との別れです。

ピアノがキーなので、指の動きに意図があります。
ピアノのレッスン以外でも指の動きをカメラは追います。
始終練習する指から、女を抱く指まで、
そして、主人公がラスト引き金を引く指、
その後の演奏会での指、
彼の心境を上手く納めていました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

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【SPAC演劇 「室内」 クロード・レジ 演出】

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落語と真反対の方法で人の生きる根源に迫る『室内』では、観客は異空間でそれを否が応でも突き詰めることになります。

舞台は闇に近く、音さえも遮断されます。観客は衣擦れの音にまで敏感になり、今から始まる演劇に覚悟を決めることになります。
そしてまさしく闇と沈黙になり、目を凝らすことで認識できる幕開けを迎えます。仄かな動きで始まるこの演劇は、観客がこの空間世界のルール、意識を集中することで感じるという嗜みに気づく頃に動きを見せます。その動きも台詞も、私達が居る世界とはかけ離れたスローなもの、それは敢えて日常を重ねさせないことを意図したものです。

落語では、私達にどれだけイメージを膨らませるかに知恵を絞ります。それとは真反対にこの『室内』では演劇自体を、個々人が自然にイメージしてしまう像、己自身の投影を拒みます。まっさらな状態で、この微妙な役者の動きと穏やかな台詞を身に染み付かせることを促します。
そこに置かれることにより、観客は役者陣の一挙手一投足からこの演劇の本質を見極めざるを得なくなります。

『室内』は人の生き様に迫ります。落語と真反対の手法だと私は感じましたが、落語が粗忽者を通して人の業に迫る目的があるので、真反対の『室内』でその狙いが重なるという妙味も感じました。迫る元の地点が、粗忽者と、少女の死を告げる者という、かけ離れた設定であっても、観客はそこから本質へ考えを巡らせるからです。
最も“生きるとは?”を真っ向から感じること、考え抜く空間が『室内』で、そこに居ることができたことに震えるような喜びを感じる自分がいたことを伝えたいのも本音です。

溺死した少女の死を告げる二人の使者の、老人とよそ者は、少女の死を知らぬ家族に事実を告げることを躊躇します。
二人はそれぞれの視点で家族を観ます。娘の死を知らないで幸せな日常を過ごす家族を観たり、不幸な出来事を告げることで奈落の底に堕ちる家族が観えたり、いつ誰がどこでどうやってこの事実を告げるのが正解かと模索したり、娘を失った事実を知ることになる家族の悲しみを同じように背負うことで、自分を納得させようとしたりと、知らせるという使命からそれを飛び越えた価値観を自分達が請け負い、それがまるで自己の人間性を問うことにつながる価値であるかのごとく認識し、伝えることに逡巡します。
独立したそれぞれの個ということが本来であるのに、そこから離れられない(この場では、少女の死を家族や係わった人達とどれだけ共有することができるかを美徳として、個人の感情はそれに従うことを優先されること)のは、社会に生きることで植えつけられた価値観です。
この二人の使者と、溺死した少女を看取った者達は社会的な使命を果たしただけです。それ以上でもそれ以下でもないのですが、そこから悩みや苦しみが生じますし、亡くなった少女とその家族を慈しむ想いは、家族を知れば知るほどに大きくなります。しかしたとえ個を優先しなくてもそれを感じるのが人間です。
だからその姿を純粋に感じればよいのですが、私はこの劇中常に結論を求めていたことがあります。それは“生きるとはどんなことなのか?”です。

生きるための日常の営みの中で、心から感動することが一年の内に数回あります。生きた充実感を堪能する時です。そしてそれは自分自身にはけっして嘘偽りができない、その自分が幸せだと腑に落ちる程の時です。少しその感覚とは違いますが、冠婚葬祭もそのひとつである場合もあります。
けれど、そんなことさえも生きている常の一部なのかも知れないことをこの劇で感じます。

もちろん今の世の中では生存を生きる目的の第一にすることもないですし、子孫を残すことさえも、先進国に限っては生きる第一義に挙げることは意味を成さない気がします。
自殺以外で自分の生きる期限を知ることはできませんが、年を追うごとに残りの時間を強く意識するようになります。そこで死を少しずつ身近に感じるのですが、やっぱり期限を知らされることはありません。そしてやがて迎える死の間際では後悔するのは明らかです。なぜなら、生きてきて“もっとやれたのに”と誰もが思わずにはいられないのが人ですから。
そうするとこの劇で使者二人は何を憂うのでしょう。
亡くなった少女と、遺された家族の娘に対しての哀れみ、家族の落胆と娘に対してこれからはもう何もしてやれないという取り戻せない家族達の現実を感じること、それらを憂うのではないでしょうか。二人は何も特別なことをしていません。

私は、生きる日々の中で輝いている自分がいる一瞬が生きることの意味かと思っていました。また、子を想う気持ちや親を慕う気持ちを持つこと、また、家族や親戚や友人が一同に会する時、それらが生きる意義という気持ちがありました。
それを否定するわけではありませんが、もっと飾り気なく、死ぬまで生きるのが生きる意味なのではないか。それを考えるのが『室内』という劇場、小宇宙にいた時間の中で導いた、生きる根源に迫った結果でした。

【いもたつLife】

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抑草の麦も伸びています

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この時期の雑草の伸びは、
見ていれば伸びているのが解るのではないかという位速いです。
この畑は麦での抑草を狙っている、
麦間栽培です。

麦を伸ばして抑草するのですが、
麦が伸びる前に草が育っているので、
草取りしてから麦を倒すつもりでした。
ところが麦も草に負けずに伸びてきたので、
草取りしながら、麦倒しで抑草します。

【芋日記】

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カラス除けの釣り糸

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種芋とり用の畑です。
来年以降のために希少な苗を植えたのですが、
この畑にはカラスが多く来て、苗を抜くイタズラをします。

少ない苗を抜かれて大問題なので、
カラス除けの釣り糸を張りました。
なんとか効いているようです。

【芋日記】

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【SPAC演劇 黄金の馬車 宮城聰 演出】

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神への畏敬と人への賛歌が込められているのが「黄金の馬車」です。
ラスト、一座と貴族が一体となった劇中最も力強い歌と演奏は、舞台で生きることを決めたカミーラを称えると共に、神へ捧げる行為でもあります。
この演劇は、観客がSPACの黄金の馬車という演劇を見ながら、演者の村人と一緒に、セット内の『古事記』の劇中劇を観ます。劇中劇の古事記で人の営みの大きな流れを表現しながら、本筋では人々の日常を映します。誰もが持つ、仕事、生きるための恋愛、どこにでもあるそれらの常を、大きな営みの流れと対比して観られるという構造です。

食い詰めた田楽一座は京から土佐の田舎に降り立ちます。黄金の馬車とともに。
田舎連中は京から来た劇団に興味津々といった様子、そして今まで観たこともない黄金の馬車に憧れます。村人達は最初は京から来たブランド(一座)をありがたがりますが、だんだんと我儘になります。一座の劇『古事記』が解らないという不満をぶつけます。
一方一座も最初は自らの劇(信念)を貫こうとしますが、劇を重ねるごとに村人達に迎合するようになります。この背景には貴族からのカネも絡みます。本来カネは一座の仕事への報酬ですが、カネが一人歩きしてカネのための芸に変わります。村人への公演も“嫌われたくない”が動機になっていきます。
村人のわがままや、貴族の嫌らしい振舞いを、私達は俯瞰します。それは、私達の中にもある気持ちだということを実感させられます。

カミーラは、役者として確固たる意志と誇りを持ってこの地を治める領主に、本名と役名を告げます。けれど彼女も人です。カネは必要ですし必要以上に欲するし、恋もすれば喧嘩もするし、ないものねだりもします。
カミーラは古事記の相手役でもあるフェリペと相思相愛です。フェリペは潔癖で勇気もありますから、カネや地位に溺れることを嫌悪します。カミーラがそれらを求めると、フェリペは彼女の下を去ります。潔癖であるが故と嫉妬から。
カミーラは弓矢の使い手のラモンにも愛されます。彼は勇敢でこの地の英雄です。村人達はラモンを慕っています。だからラモンが愛するカミーラを受け入れます。カミーラが黄金の馬車を手に入れることも受け入れます。それが彼女の破滅につながるとしても。
そしてもう一人、富も名声も権力も持っている領主にも愛されます。領主は日和見な他の貴族と違い、自らが正々堂々と執政していることに誇りを持っています。そして領主は、それらを象徴する『黄金の馬車』をカミーラに与えます。カミーラが舞台上でも舞台下でも輝いていることへの賞賛です。それと、男の本能としてのカミーラへの力の誇示です。

カミーラは、土佐に希望を持って降り立ち、信念を貫く芸を披露していました。領主もラモンも輝くカミーラの虜になります、しかし俗受けの重力に逆らえず、迎合していきます。しかしそれでもラモンにも村人にも受け入れられ、黄金の馬車を手にできます。そして3人の男から求婚もされます。しかしそこで自らを振り返ることになります。ここから物語は急転します。一座は解散、領主は島流し、フェリペもラモンも厳罰です。

カミーラは悩みます。『舞台ではうまくいくのに、日常ではうまくいかない』ことを。そしてどっちで生きているのが本当の自分なのかを。

カミーラは自信を持っていたのですが、ないものねだりをして自信を失います。潔癖で勇気があるフェリペだけでなく、民衆の英雄ラモンや、富・名声・権力を持つ領主をも求めること、信念ではない演技をすることをしました。全ては気に入られたい迎合の行為からです。そしてその裏側には保身の気持ちがあり、挑戦への逃避です。

カミーラはいつしか神に捧げることができない演技をしていました。彼女には演劇しかないのに。カミーラは全てを舞台に捧げていたこと、自らの人生が演じ手としての中にしかないことが良いか迷ったのです。それは今の自分を信じられなくなっているから起こります。
ある年齢になると、人生が何なのかと悩むことは誰しもあることです。カミーラも自らの今までが正解だったのか悩み、舞台に捧げてきたことが自らが求める人生の障害になっていたのではないかと錯覚してしまったのです。
それは私達にも起こります。ずっと取り組んできたもの、信じてやってきたことを重く受け止めないようにすることがあります。
しかし、ここから抜け出すのは簡単です、今までの良かったことを確認することです。私の場合は仕事です。これまでもこれからも死ぬまで仕事を続ければいいのです。

この演劇でカミーラは舞台が全てで良いという選択をします。彼の地に来て公演を始めたところから、迷いに堕ち、一回りして舞台を選択することには大きな意味があります。何故なら力強い選択になるからです。

カミーラは黄金の馬車を手放すことにしました。一座や領主、フェリペ、ラモンを救う結果になりましたが、それが目的ではありません。もう一度舞台で輝くことを選択しただけです。舞台の上も下もそんなことは彼女の人生で区別を付けることではなかったことに気がついたからです。
舞台に全霊を注ぎ込むことで“神に近づける”それがこの演劇のクライマックスでした。
常に迷い悩み怠惰なのが人間で、その人間への讃歌であり、神を祀るという人の英知が表現されていました。ここを迎えた時に自然に涙が流れました。心に訴えてくる演劇の証です。

それにしても何故劇中劇が古事記なのかという疑問での観劇スタートでしたが、劇が進むごとにその訳がわかりました。
神々と人との対比、人が神を演じることでのほころびが見えるということの効果もありますが、カミーラが若い男神を演じ、求婚を迫る3人の姫をフェリペ、ラモン、領主にすり替えるところは見事です。神への畏敬が込められていることも含めて、だから古事記だったのだと納得の瞬間でした。

最後に触れたいことがあります。
カミーラとラモンとの最初のやりとりで、「牛を見る目で見ている」というカミーラの台詞、ラモンが一座の言葉を理解できないという設定、また、領主がカミーラの前で烏帽子をとることでの他の貴族の驚き、そしてこの藩が銀山で潤っていること、フェリペ・ラモン・領主が姫とすり替わる時にコメディア・デラルテのように仮面を付けていたこと(まだ他にもありそうです)、それらからジャン・ルノワールへの敬意を感じました。ここも宮城聰さんらしいところだと感銘を受けました。

【いもたつLife】

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預言者 2009仏 ジャック・オディアール

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19歳で刑務所に入った男が主人公です。
刑期は6年、その時間に成長していくという物語です。

この刑務所、日本の常識でとらえてはいけません。
酒、タバコはもちろん、携帯電話からテレビ、
刑務所内で成りあがれればの話ですが、
個室でそれらが楽しめます。
それどころか、女に麻薬まで、手に入ります。
そして模範生になれば外出もできます。

繰り返しますが、刑務所内を牛耳っている組織のトップの待遇です。
それと大事なことを付け足します。
所内での殺人もありの世界です。

主人公は入所早々に組織から殺人を強要されます。
殺人を行わなければ、組織から彼が殺されます。
主人公がその任務を決行するのが、冒頭からの一区切りですが、
このシーンが凄惨でリアルです。
彼の6年間の始まりです。

任務に応えた彼はこれをきっかけに地位を築いていきます。
無知な青年に教養と、暴力と、無慈悲な心が育ちます。

組織は一党独裁ですが、拮抗しようとする勢力があります。
彼はそれらを渡り歩き、最終目標は組織のトップを落とすことです。

冒頭からの暴力シーンから目が離せなくなります。
そして主人公の成長、これが真っ当な面と真っ当でない面を含む成長で、
素直に感情移入はできません。
それと腐敗の社会を誇張したようなシーンも多く、
映画にノルという感覚ではなく鑑賞です。

展開は読めますが、演出は骨太です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時: |

雛が3羽孵っていました

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卵でいる時間も、雛でいる時間も短く、
ひと月もしない間に巣立ちます。

追伸
6/21は「夏至」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「夏至」の直接ページはこちら
夏至

【芋日記】

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河内カルメン 1966日 鈴木清順

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貧しい田舎の女子高生が、女を武器に逞しく行き抜きます。
愛憎劇ですが、ドロドロしたシーンはなしです。
気風が良い主人公、テンポ良く進む展開とシリアスな内容ながらコメディタッチで、
鈴木清淳らしさを楽しめる映画です。

彼女は男で苦労するので、ロクでもない男が次々と登場します。
でもそれは彼女の魅力=女としてと、生き抜く力強さ=故のものです。
ひとり、彼女の同士のような男がいますが、彼は彼女と同じ覚悟があるから、
彼女と同士の関係が築けます。

彼女は、男との別れを繰り返します。
別れが彼女を育てます。
彼女は挫折はありますが、立ち止まりません。
どんな立場でも尽くそうとします。
健気で突っ張っています。

そんな魅力ある女性像を、鈴木清淳は描きたかったのでしょう。
そして主演の野川由美子がそれに応えています。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

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脱線!スパニッシュ・フライ ヘルベルト・フリッチュ 演出 【SPAC演劇】

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落語にでてくる登場人物が、暴れまくる喜劇です。
落語では場面をイメージしますから、自分の想像の範囲内です。
この演劇はそのイメージを立体化してくれます。
しかも、こちらの想像をはるかに超えて“ぶっ飛んで”くれます。
そのハチャメチャさに理屈なく楽しめます。

あり得ない けばけばしい衣装や髪型は、ハチャメチャを後押しし、
誇張した振舞いや仕草や顔つきは、まさに落語から飛び出してきた八五郎や熊五郎です。
粗忽な奴らばかりで、当然大ぼけもいるし、早とちりも、大真面目もいます。

あらすじは、
25年前に浮気をして子供が生まれたと言われ、
養育費を払い続けていた主人公の下に、その息子が現れます。
奥さんにだけは知られてはならないと、裏工作を始めます。
すると、養育費を払っていたのは自分だけではないことが発覚、
しかも息子だと思っていたのも勘違いとなり・・・。

自分がこうだと勝手に決め付けると、
周りを全てそのモノサシで見てしまうという人の愚かさを見せ付けられます。
この姿は誇張こそしていますが、本質は誰も同じでそれを笑い飛ばします。

登場人物が、自分で計る周りの景色は、その時々の内面の投影です。
主人公ならば、奥さんへの負い目、バレル不安、息子を追い出す時のあせる気持ち、
一蓮托生だったことがわかった時の妙な安堵感、
次から次へと内面のドキドキ感が爆発される舞台上です。

終わってみれば結局なんだったんだ。
走りまわったのは何のためだったんだ。
お前の人生の一大事なんてそんなものという痛烈なメッセージです。

そして、謎のままになるスパニッシュ・フライ(浮気相手)とその息子と養育費、
それらの謎も愚かさの代償だったことを教えてくれます。

【いもたつLife】

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今年もあやしいメロン

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メロン農家は“つる”のことを“木”と呼びます。
木が太くて伸びていて、葉も大きく育って、
一見順調そうですが、実の付があまりよくない状態です。

メロンは昨年不作でしたが、今年もその傾向が見られます。
ここから挽回して欲しいのですが。

【芋日記】

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