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銀幕倶楽部の落ちこぼれ

白夜 1971仏 ロベール・ブレッソン

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ブレがない映画です。
ロベール・ブレッソン独特の演技がない映画は、引き込まれます。
ワンシーンの意味を深く追ってしまいます。

物語は単純です。
一年前にパリのポンヌフで再会を約束したカップルがいて、
待つ女(マルト)も下に男が現れません。
マルトが自殺を決意した所に、通りがかったのが主人公ジャックです。
当然自殺を思いとどめます。
そこからのジャックの悲恋物語です。

ジャックの日々を語り、マルトの過去を語り、
二人が惹かれていく様を語るのですが、
そのすべてのシーンが思わせぶりです。
説明は最小限、観る者が汲み取るかです。
説明は最小限ですが、設定はわかりやすいので、
ミスリードされるようなことはありません。
それだけに、シーンの意味を探りたくなるのですが。

物語の骨子は、「古今東西、愚かな男が存在する」になり、
男として思い当たることが一杯ですが、
この映画は女心の表現が出色だと感じました。
マルトの仕草と台詞は一見単なる我侭娘ですが、
一線を越える越えないで揺れる彼女の心を映します。

ラスト、主人公は結局良い夢を見た。で終わるのですが、
打たれ強いのか、鈍感なのか、すぐに忘れてしまうのか、
日常に戻ります。
観客を映画から平常に戻すように。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2014年01月02日 09:03

メランコリア 2011丁/瑞/仏/独 ラース・フォン・トリアー

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今年も干し芋(お米)だけでなく、
映画や演劇や落語の自分勝手な感想をつらつらと書かせてもらいました。
大晦日も映画の感想です。
この映画は地球最後の日ですが、精神的には最後ではないという映画だと解釈しています。
皆様良いお年をお迎えください。
今年も干し芋のタツマをごひいきくださり本当にありがとうございました。

最期を迎える覚悟を問われました。

ラース・フォン・トリアー監督が描く地球最期の日ですから、
尋常ではありません。
哲学的な表現と、自己の鬱を表現しています。
このあたりは、観客が持つ造詣により受け止め方はそれぞれです。


映画は二部構成です。
第一部「ジャスティン」は、主人公のジャスティンの披露宴です。
延々と、憂鬱なジャスティンと、異常になっていく宴を描きます。
第二部「クレア」は、ジャスティンと姉のクレアと夫、一人息子が、
滅亡を迎える様ですが、ジャスティンとクレアの精神的な立場が逆転するところが味噌です。

クレアとその夫は社会的に「正常」とされている象徴。
ジャスティンは「異常」とされている象徴です。
その両者の最期の迎え方に焦点を当てていて、
己の死生観を鑑みることになります。

同時に人の価値とは?
ということも否応なく考えさせられてしまいます。
所詮、“狭い視野で自分勝手にああだこうだ言ってるだけ”の自分を観ることになります。
そんなことは頭ではわかっているだけ、
ということをハンマーで殴られて正気にさせられているようでした。

以上が感想です。
以下は、映画的に素晴らしいと思ったところです。

地球最期の日を語ることに対して、贅肉を削ぎ落としたという感じの演出です。
そして、日常では知ろうともしない、「異常」で片付けてしまうジャスティンの内面を、
美しく観念的な映像で誘います。
また、良い意味でラース・フォン・トリアーらしい嫌らしい悪意すら感じる、
第一部の光景と、それを逆転させる第二部で、その嫌らしさを回収して、
(私が解釈した)テーマを突きつけるやり方、
さすがラース・フォン・トリアーと思いました。

この映画ももっと深く読み取れると自負ができてもう一度観たい作品です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月31日 09:37

ペコロスの母に会いに行く 2013日 森崎東

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高齢の認知症の母親と息子とが織り成すほんのり喜劇です。
母の子供の時代の終戦前後、
息子を生んでからの苦労した時代が挟まれていて、
家族の歴史を振り返ります。

原作者は息子さんで、その実話がベースの映画化です。
母の人生で大事な人達が紹介されていて、
息子が母の人生に拍手を贈っています。

誰もが体験している日常が写るだけ、
特別なドラマがあるわけではありませんが、丁寧な描写は、
感動になります。やっぱり人の一生は尊いと思わずにはいられません。

もう母と別れてしまった人達、
お互いが高齢でもう別れが近い人達、
母は人生を振り返りそれらの人達との思い出を空想しますが、
それは自分と関わった人達も肯定しています。

また、認知症が進み、息子は自分が忘れられてしまっていることを嘆きます。
でも、それをも受け入れるのですが、
きっとそれすら人生の一部として腑に落ちたからでしょう。
きっと忘れてしまっていることなんて二人の関係のちっぽけな出来事でしかないと、
それが親子の関係で、美しい姿です。

高齢化、認知症、ごく身近な悲劇になりそうな題材を喜劇として扱うのは、
人の可能性の示唆です。
誰もが老います。それに対して勇気を与えてくれる映画です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月30日 08:02

ホーリー・モーターズ 2012仏/独 レオス・カラックス

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レオス・カラックスの人生観と、映画に対する想いが詰まった映画です。
冒頭、レオス・カラックスに映画の中の映画に誘われます。

レオス・カラックスの分身のドニ・ラヴァン(役名はオスカー)がリムジンの中で、
次々と異なる人に成りきって、(それぞれに依頼者がいて望まれた人物に成りきる)
クルマから降りるとその日その人が起こすドラマを演じます。
様々な人々の人生の一ページで、それはレオス・カラックスの人生観でしょう。

ラスト近くでオスカーが演じていたのは一人の人物が望んだ姿だけではなく、
そのシーンにいた重要な人物もオスカーのように依頼されて導かれたのだということがわかってきます。
ラストでそれが明らかになり、その日の演目が終わったことも明らかになります。

レオス・カラックスの人生観と彼の家族に対する愛と映画へのオマージュが、
入れ子構造になっていて、意味深さを消化しきれないことも多かったのですが、
意図(私が解釈した)はひしひしと感じます。
そして、神への畏敬も秘めていることも。
真摯な生き方を説いているとも感じました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月24日 07:36

炎628 1985ソ連 エレム・クリモフ

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1943年白ロシア(現ベラルーシ)は、ドイツ軍に侵攻されます。
それを迎え撃つパルチザンに15歳位の少年が兵として志願します。
映画はこの少年兵の目線で進みます。
あくまでソ連目線ですが、戦争がもたらす真実を映像で再現しています。

少年は自軍が壊滅すると、村に戻ります。
家族は少年が志願したことを理由に惨殺されていました。
この時少年の目には、殺されている双子の妹は、倒れた人形として写ります。
この映画では少年が見たくないものを見た(聞いた)時に脳が勝手に映像と音を、すり替えてしまう表現を使っています。これにより観客は少年の体験に寄り添うことになります。

狂いそうで狂えない少年の第一の試練ですが、
ここで留まることがないのがこの映画です。
その後、村人のために食料を奪いに行く途中に仲間だけ殺されること、
そしてクライマックスでは、少年を匿ってくれた村そのものが、
村人とともに焼かれる体験もします。
少年は奇跡的に生還しますが、終始幾度も生死の境目に漂うしかなかった少年は、
老人のような皴ができていました。


ソ連映画ですからナチスドイツが祖国にやった仕打ちを描きます。
第三者から見てもその行為は目を覆うばかりです。
怖くなったのは反戦映画ではあるのですが、
ロシア(ソ連)の人達がこの映画を観たらドイツ人を許せなくなりそうなほどの映像だったことです。
欧州はそれを乗り越えてEUを進めていますから杞憂でしょうけれど。


この映画は人の狂気を赤裸々にしています。
平気でどころか、狂喜しながら村人を焼き討ちにするドイツ兵達、
略奪、強姦、暴力、弱いものをいたぶります。
狂喜に逃げるかのようです。

しかし、それを受ける側は正気ではいられません。
少年の精神が病んでいくのが、
姿からと、少年の気持ちになるような演出から体感してしまうことで想像できるのですが、
“実はこんなもんじゃない”ということも同時に大きく心に訴えてきます。

戦争は一瞬にしてこれまでの人生を無意味にするかのように、人々を絶望に落とします。
根も葉もない子供(幼児)は生まれたことに意味などなかったかのごとく無残に残酷な仕打ちを受けます。
オセロの白と黒が変わるように、一瞬です。
そしてそれはドイツ兵も同じです。

ラスト村を焼き払ったドイツ軍は、パルチザンの逆襲に遭います。
将校達は捉えられます。
一番の親玉の大佐は命乞いをします。
それを潔しとしない青年将校は、銃を向けられながらも、主張します。
「共産主義は下等だ。だから根絶やしにされるのだ」
「子供から全てがはじまりになる。生かしておけない」
「貴様らの民族には未来はない」

戦争の始まりは積もり積もった多くの要因ですが、
それを遂行するために論理があとから付け足されます。
そして正当化されてしまいます。
戦争により、人の悪が育ってしまうことをこの映画でも痛いほど確認できてしまいます。





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【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月22日 06:10

女優と詩人 1935 日 成瀬巳喜男

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ベタな展開の喜劇ですが、上質に仕上がっている
初期の成瀬巳喜男作品です。

冒頭からサイレントを思わせる演出で、
見事に登場人物の人となりを匂わせておいて、
入れ子構造の喜劇に繋がります。
わかっているけど可笑しい展開で、人の心をくすぐります。

時は軍事政権前夜ですが、ほのぼのとした舞台劇です。

物語は、稼げない詩人の主夫と、家計を支えている女優の、夫婦の愛が深まる話です。
「めし」をとっても可愛らしく演出した感じです。

電車が通り過ぎるたびに、時の流れと夫婦の生活を伝えて、
最後により仲睦まじくなるという洒落た落としどころも準備されていました。

個人的に大好きな三代目の三遊亭金馬師匠が観れたのも大きな収穫です。
師匠をはじめ、師匠の奥さんは目茶おしゃべりで図々しいおばちゃん、
おっとり主夫とその友達の一癖あるやはり売れない小説家、
その4人がとても良い味です。

小品ですが、とても魅力があり、成瀬巳喜男ファン必見でしょう。





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【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月21日 07:24

熱波 2012葡/独/伯/仏 ミゲル・ゴメス

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主人公は80代の老女、現在ポルトガル在住。
主人公の現在が第一部、50年前のアフリカでの彼女が第二部です。

第一部では第二部以降の長い人生の集大成を示します。
偏屈になってしまった主人公、でも今際の際で一人の男と会うことを懇願します。
その姿は現代の隣人にはみせたことがない、
彼女の人生の終焉に決着をつける彼女の意志の生きた証の確認です。

それが何なのかが第二部で語られます。
アフリカ、ポルトガルの植民地でなに不自由なく暮らしていた若からし頃の主人公の、
禁断の恋物語です。
舞台アフリカの暑い大地で、熱い恋がありました。
なに不自由なく暮らす生活なのに、愛する夫を失うのも厭わない、
より燃えるような恋がありました。

そんな恋(愛)が続くことがないことは、彼らの周辺も、鑑賞している私達も、
心の底では本人達も承知です。
そしてその通りになります。
けれどこのアフリカでの一時は、主人公にも相手の男にもその後の人生の指針を決める大きな要素でした。

第二部ではその根源が綴られています。
切ない恋物語と言えば簡単ですが、その演出が魅力的で、根源に言及しています。

第二部は、亡くなった主人公を偲ぶかたちで、
主人公と同じように人生の終わりを迎えようとしているアフリカでの熱い恋の相手の語りです。
50年前の主人公とその頃の輝いていた数々の映像は映りますが、
彼の回想以外の声は聞こえてきません。
ただし、アフリカの自然の音と、彼らが精魂こめた音楽だけは観客に届きます。

この演出がこの映画の語りたいことを表現していました。
あくまで主人公ではない目線で語る主人公の姿が映ります。
その主人公を想う語り手の愛がかぶります。
音はアフリカの音、それは二人がいつも感じていた音でしょう。
二人で会う蜜のような時間でも、それが背徳で胸を苦しめる時間でも流れていた音です。

アフリカ時代の主人公達の仲間のバンドが放つ音楽は、
映画に、二人の不徳に対して意を唱えるかのように流れます。

このように(観ていなければわからないでしょう)、
二人には祝福はなく、アフリカでのロマンスは終わりを告げます。
その後、長い長い時が流れました。


たかが不倫の物語かもしれません。
だからそれを肯定しているわけではありません。
でも、熱い姿を映したいように思えてなりません。
日本を含めて現代の成熟社会はそれを許さない、
熱い想いを生むことの胎動もない世界だと、
それがない時代を語っているのでないかと、
この映画を観て想わずにいられませんでした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月18日 07:33

ローラ 1981西独 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

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マリア・ブラウンの結婚の後を受け継ぐ、その後の西ドイツの姿の映画でした。

復興が軌道に乗った後に起こる、賄賂、癒着、権力の腐敗、私利私欲化、それらを背景に、
中年男と美しい娼婦の愛の物語ですが、皮肉たっぷりの内容です。

表面的には純愛物語です。
州の役人、建設局長として赴任した堅物男が、街で会ったローラに恋します。
娼婦とは知りません。
どうしてもローラに会いたい局長を見ていた部下は、
局長をローラが要るクラブ(売春バー)に連れて行きます。
唖然とした局長、なにしろまじめ一筋でしたから。
でも局長は気を取り直して、ローラをモノにする、というお話です。

純愛は表面だけ、一皮むけば欲望だらけの物語です。

ローラは、街一番の建設会社の社長の愛人です。
その社長は賄賂で会社を大きくしました。
新しい局長ももちろんもてなします。
局長はローラが娼婦を知るまでは、局長として穏やかでした。
公共事業はこれまで通りで構わないというスタンスです。
それが、ローラが建設会社の社長の愛人と知るや、手のひらを返します。

これまでの不正を暴く、全うな役人に、鬼のようになります。(正義です)
困ったのは社長をはじめ、市長達、みんな恩恵に預かってましたから、
そして局長がやっていることは、グーの音もでない正義です。

そこにローラが一役買って、局長と彼らの橋渡しです。
もちろん、局長はローラに丸めこめられますが、ローラと結婚という、
純情男いとってこれ以上ない果実です。

彼らも安泰、そして一番貰いが大きかったのがローラです。
一介の娼婦が大金持ちの仲間入り、しかも一目置かれる存在に、
しかもかねてから欲していた自分が属するクラブも、愛人だった社長に買ってもらい、
しかも、まだ愛人関係を続けるというしたたかさです。

正義が完全に駆逐されるという、根も葉もない解決です。

でも表面的には純愛です。
ローラは局長に正体が知られた時には、心から嘆いていましたし、
彼と居る時はかれと同じく純情でしたから。
でもそれとこれとは違うのが現実だったということです。

映画中他にも人に嫌な部分を映しています。
金持ちが貧乏を嫌うところ、東から来た(東ドイツ?)からきた女性を馬鹿にするところ、
いかにも役所の人々を映すところ、金持ちの社長を取り締まらない警察官、
街の建設計画が無事に遂行されることになった時のシーンも見たくない映像です。

この映画も監督にとって、自国を憂い愛するものだったことが伝わってきます。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月17日 07:24

マリア・ブラウンの結婚 1979西独 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

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戦後の西ドイツの復興と合わせて、一人の女(一組の夫婦)の半生です。
日本の復興と心情的に重なると個人的には感じるので、
よその国の出来事ではないと、登場人物に感情移入します。

主人公はマリア・ブラウン、わずか半日と一晩の結婚生活だけで、
夫は戦地に行きます。
終戦を迎え戦死したはずの夫が生還しますが、
マリアはその時には米軍兵士の愛人になり、子供まで身籠っていました。
思わず米軍兵士を殺害したマリアですが、夫が罪をかぶり投獄生活に。
その間マリアは経済的に成功し、夫を迎え入れますが、
夫は妻に厄介になることを避けてカナダに。
数年後、夫も経済的に成功しよりを戻しますが、悲劇が訪れます。

マリアは年月とともにしたたかになっていきます。
その様子と西ドイツの経済が豊かになっていく様が織り込まれます。
マリアはアメリカ人にもフランス人にも体は許しますが、
心はドイツ人の夫に捧げています。これも西ドイツの姿を描いています。

マリアが貧困から抜け出す姿が主に語られいるのですが、
彼女の母や親友とその夫が問題を起こしては、
彼女を苦悩させます。
これも戦後の西ドイツ自体の苦悩です。

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは、
祖国のあの苦しい10年間(1945年から1954年)を憂いて、
愛してこの映画を撮っています。
もう一度鑑賞してもっと深くドイツの歴史とその場を汲み取りたくなった作品でした。

ラストシーンは、西ドイツがワールドカップ初優勝のラジオ中継が、
マリアと夫の運命を示唆しながらリンクします。
栄光を手にした瞬間、国民が狂喜乱舞した瞬間に、
マリアの悲劇を重ねます。
監督はとっては真に西ドイツが喜べる瞬間ではなかったのです。

非常に濃いメッセージがある名シーンです。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月16日 06:00

武士の献立 2013日 朝原雄三

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正の循環の物語です。

恵まれた環境、そして、自分を鍛える心がけを身につけた者、
それが主人公の夫です。

主人公は、12歳で天涯孤独になりました。
でも彼女には世の中を渡れるべく、
亡き母から授かった超一流の料理の腕がありました。
彼女(主人公)は、その才能と努力で得た料理の腕を
利己ではなく利他に活かすことが身についていました。
母代わりの愛も受けていたからです。
主人公は12歳までの実母の愛と、
12歳からの母代わりの愛を受けていて、
それを開花させる機会を得ました。
この映画は、その部分を見せる映画です。

主人公の夫は、藩に奉公を信条とする由緒正しい武家の次男坊です。
家は包丁侍といわれる、一見武士の本道からは外れる家系です。
夫はそこに引っかかりを持っていました。
(これにまつわる自己評価の決めつけがあり、それがこの物語を進展させます)

『滅私』が武士に必要不可欠の時代、
若き夫はそれに従うことを良しとしません。
大体が武士は戦う者という幻想を背負っています。
若気の至りであってもそれを続けることは、
妻(主人公)にとっても、家(両親)にとっても、
『人でなし』となる行為です
でもそれには気がつかない、
だから妻が身を捨てて夫に抗します。

その姿は、不幸から転換できた彼女の信条がそのまま現れた姿です。

時は和平と成った江戸時代です。
でも常に水面下では争いはあります。
これも世の常です。

だから若き夫は、
環境に踊らされてしまいます。
派手なモノに本質を見出せなくなっってしまうのです。
家の生業の包丁侍の価値を見出せないのです。

それに目覚めさせたのが主人公です。

不幸に落ちかけた彼女は、
幸運にも出会った母代わりに救われました。
でも彼女にはそれを受け入れる資質もあったのです。
その恩返しのように彼女は夫に尽くしました。
わがままな塊の夫も、ついに妻の想いにしたたか参るかのように、
彼女の無垢の気持ちを受け入れる覚悟を持ちます。

そういう物語でした。

世知辛い世の中でも正の循環は機能する。
それを声高に示していました。


ちょっと違う視点の一言、
江戸を再現したセットもロケも良かったです。
物語の背景であり、物語の影の主役の料理もリアリティあり、
そして、主人公はじめ登場人物(特に女性)の衣装も
とても良かったです。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年12月14日 07:29
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