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森の中の淑女たち 1990加 シンシア・スコット
かなり深い森の中、ほとんど人が足を踏み入れない湖畔に、
老女7人と40歳位の女性ドライバーが乗ったバスが立ち往生します。
近くの廃屋に緊急避難して、サバイバル生活が始まります。
本来なら厳しいサバイバルの様相になるところ、
この映画はそこには踏み込みません。
そこそこのゆるいサバイバルがありますが、
狙いは、老女達のこれまでの人生が何だったのか?
老いた今をどう感じているか?
老いて行く不安は何か?
そして、ゆるいサバイバル生活で出るそれぞれの個性を観る映画です。
女性ドライバー以外は、素人の(本物の)老女達とのこと。
仕草も台詞も今までの人生が乗っかっているので、
脚本があるのでしょうけれど、語る内容は生きてきた一人ひとりの物語です。
ゆるいサバイバルの中で、違う境遇ですが、同じく老いた女性同士だから醸される
人生観のドキュメンタリーのようです。
私はまだ彼女達の年齢には達していませんが、
ふりかえきれない過去がもうたくさんあります。
もちろん後悔が多いし、老いていく不安もあります。
彼女達は特殊な状況に置かれました。それは自己を見つける絶好の環境です。
人だけが、人が持つものを引きよせるのでしょう。
老女達の中には、敬虔なクリスチャン、レズビアン、一人息子を若くして失った方、
優雅に暮らしてきた方、苦労を重ねた方、内向的な方、意志が強い方、
でも皆長い年月を生きて、残り少ない時間だということを自覚しています。
だからこれまでの長い時がなんだったかを自然に感じるようになります。
それを森と湖と都会生活から離れた、結構不便なサバイバル生活が後押しします。
だれもたぶん、幸せの絶頂を感じて最期を迎えることは至難です。
でも、こんな素敵な体験が出来ているとそれに近づけそうな気がします。
身近な大切な人達とこんなキャンプがしたいですね。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
早池峰の賦 1982日 羽田澄子
1982年当時でも、奇跡的に受け継がれている、北上山地の二つの山村、
大償と岳の神楽を中心に、両村の姿それはすなわち日本の農村の歴史とそこでの暮らしぶりを映し記録したドキュメンタリーです。
神楽が中心ですが、それが連綿と700年もの間受け継がれていく背景は、この村が置かれている厳しい気象と田畑に期待できない状況があります。故に神楽が中心の生活になるのですが、それを続けるのは山村の農業、山ならではの農産加工が本来の村人達の営みですが、それがすべて神楽にも通じていることも描かれます。
自前ですべてを調達します。神楽に必要なもの一式の原料からそれを元に加工してそろえます。楽器も舞いに使う道具も。
そして、当然村人が囃子も舞いも行いますが、それも仕事とは違う場面で親から子へ伝えられます。そして、個々人の家と、それを束ねる村社会のふたつから機能されています。
ではどうして両村で忠実に神楽が受け継がれたのか。
私の推測でしかありませんが、やはり経済的に恵まれてない環境でしょう。
つい最近まで田んぼが開拓されていない状況や、クルマと電気がないほんの昔、馬や牛と供に一次産業に従事していたこと(たぶん自給の農産物と農産加工品を生産し、現金収入の特産品はほとんどなかった、けれどそもそも現金収入はかつては今ほど必要としない生活だったこと窺えます)、その中で、長い冬の活用でした。準備期間が設けることと、近隣からの出張の要望で長い興行(つらいことのようでした)が行えるからです。
そして、近隣農村もそれほど経済的に余力があるわけでなく、それに加え、神楽は貴重な娯楽であり、神への畏敬の想いは現代とは全然違う感覚だったわけで、両村の神楽は歓迎されたのでしょう。
そしてもっと推測の域になりますが、近隣も神楽のような伝統芸能がないことはなかったはずですが、ここにも経済の力が働き、近隣農村は伝統芸能よりも収入源になることが主になり、その埋め合わせで両村の神楽を迎えたのでしょう。
この仮説は、岳の村人の南部葉という葉巻タバコの生産の描写から強く感じました。
約1年がかりの農産加工品は、多大な村人の労力で成立ちます。その見返りとなる現金収入は微々たるものということは容易に推測できましたが、作品の最後にその金額まで明示されましたが、その金額は私の予測以上に少ないものでした。
それが当時まだ続けられていることが仮説の確信です。
それはおいて置いてこのドキュメンタリーは、そんなけっして裕福でない山村の長い生活を、今の姿から想像させてくれる画をたくさんみせてくれました。
そこには、ほんの50年で様変わりした経済を追った日本の姿の前の、普遍に続けられてきた生き方を頭に描くことができるものでした。
茅葺の家が(第三者の私がみれば)残念にも壊される画、しかし、村の人達にとっては、もう機能できないほど、生活が変わったのでしょう。
けれど、普遍な生き様の精神はかろうじて残っていること、それを遺す努力も図られていることに感動でした。
でも、1982年当時でもあまりに日本は変わっていました。良い悪いを通り越して、そして現在、あの二つの村があれから、この30年間手を緩めることなく変化した日本の中でどうなっているのか、もちろん神楽も含めて、気になってしまいます。
中世から続く神楽が機能していた村だから、その暮らしぶりは普遍であるということを、冒頭とラストのナレーションでは語っています。
もっともっと長い時間軸で振り返らないとその答えはでません。
だからその意味でもこの映画の意義を感じます。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
国境の町 1933ウクライナ ポリス・パルネット
1914年から1917年までのロシアの西の国境に近い田舎町が舞台です。
市民革命を印象付ける靴工場のストライキからはじまり、
すぐに第一次世界大戦が勃発、内輪もめどころでなくなり、
ドイツ戦の最前線に町の若者は送られます。
前線の戦争描写とドイツ軍捕虜のエピソードが挟まれ、
ロシア革命の始まりまでが語られる映画です。
ストライキ、最前線での戦闘シーン、
ドイツ捕虜と街の娘とのロマンスと捕虜の扱い、
革命描写と矢継ぎ早に、しかも唐突に話が展開され進みます。
時折ユーモラスなシーンも挟まれますが、
町の人々が生きる上での受け身な現実を写します。
20世紀初頭のヨーロッパの複雑さを垣間見るようでした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
幸運の星 1929 フランク・ボーゼジ
『おとぎ話』です。
物語そのものもそうですが、
映画の中の世界もそうなのです。
冒頭の貧しい主人公が住む家のセットと照明のショットで、
その雰囲気があります。
そして、主演の少女もその衣装もそれを感じます。
話はメロドラマ、
貧しい故に悪さをしてしまう少女と、それを諭す彼、
彼は第一次大戦で足を負傷します。
気立ても男前も良いので少女は惹かれ、彼も少女をあいするのですが、
彼の足を案じて少女母は彼を拒みます。
その変わり少女のために愛のないけれど、
良い縁談に乗っかるのですが、それは詐欺師で、観客はハラハラドキドキです。
ラストに向けて感動の展開になります。
そのセットと雪の演出が素晴らしい、
『おとぎ話』を完結させます。
少女と彼の純愛に心が和む作品です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
昼下がりの情事 1957米 ビリー・ワイルダー
ビリー・ワイルダー監督、
オードリー・ヘプバーンとゲーリー・クーパー主演の有名なロマンチックコメディで、
一度は抑えておきたい映画です。
プレイボーイ役のゲーリー・クーパーはファン期待の役柄、
オードリー・ヘプバーンとの年の差がありますが、
彼女が恋する相手としては不足なしでしょう。
オードリー・ヘプバーンは、音楽院生役で実年齢よりも幼い役ですが、
十分年相応です。
そして、純真な乙女で、大人のゲーリー・クーパーに見栄を張って、
悪ぶる所は本当に可愛らしいし、全く嫌味がない。
彼女の資質であり、魅力で、それが引き出されています。
対するゲーリー・クーパーも、天真爛漫な彼女に首ったけ、
初老なんですが、無邪気さも粋にみえるところは流石です。
楽団とのやり取りや、犬のエピソードなど、
冗長になりそうな中で、クスッとさせてくれる演出も良かったです。
一度は抑えておきたい、という期待通りの映画でした。
追伸
10/8は「寒露」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「寒露」の直接ページはこちら
寒露
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
華麗なる賭け 1968米 ノーマン・ジュイソン
ラブロマンスタッチのサスペンスです。
主人公はスティーブ・マックイーン、大金持ちで何不自由ない生活、
それが飽き足らないことから、銀行強盗を企みます。
そして完全犯罪を成し遂げます。彼にとっては命を震わせるゲームで、
それに勝つために、知力を使い、強靭な精神で挑みます。
それが生き甲斐だから。
相手役はフェイ・ダナウェイ、保険調査員として、警察と連んで犯人を追います。
スティーブ・マックイーン同様にクールで切れ者で、彼を追い詰めます。
そしてハニートラップを仕掛けます。
彼女は正体を確信しながら、仕事として(証拠を挙げるために)
彼をしょっぴこうと画策します。
それをゲームとして受ける主人公。
彼にとっては魂が求める駆け引きの相手として不足なく、
彼女との対峙は自分を賭けることです。
いつしか愛し合うようになるのは、お決まりですが、
描写がクールです。
一見二人とも心が揺れ動いているような感じをさせますが、
彼は自分を賭けたゲームとして、
彼女はあくまで仕事として、
そこには一線があります。
この映画はその描写が全てと言えます。
台詞は少なく、仕草と表情と二人の間で、
愛は匂わすだけで、自己が持つ譲れないものをどちらが暴くかという緊張感が、
ラストまでゾクゾクして続きます。
冒頭ものの見事に上手く行った犯行を、
ラストで、もう上手くは行かないところまで追い込まれながら、
主人公は繰り返します。
それは破滅に向かう行為で、何故そんなことを?というところで緊張感はピークに。
そしてドンデン返しです。
その時のフェイ・ダナウェイの演技(演出)がこの映画を象徴していました。
愛した彼が破滅しなかった安堵感。
クールな駆け引きの結末は、してやられてしまった悔しさ。
けれど主人公が犯罪者としてはもう生きられないことを、
決めさせるまで追い詰めた自負。
その全ての感情が込められていました。
主演二人に魅せられた映画でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
市民ケーン 1941米 オーソン・ウェルズ
二度目の鑑賞です。
ローアングルカメラでの長回し、光と影のコントラストでの暗示、
パンによる観客へ不安の掻き立てなど、凝った技法が随所に行われていることが、
今回とても感じました。
それが、主人公ケーンの豪勢なのに、空虚な人生と絡むところも見事です。
結末を知らせて、そこから主人公の人生を追うのですが、
冒頭にこの物語を理解するのに必要な情報をダイジェストで伝える脚本も斬新です。
そして新聞王の人生ですからとても自然です。
その後ドキュメンタリーのように進むところも、
キーワードとしての“薔薇の蕾”を観客に意識させるところも上手い進め方です。
世界的に大絶賛の映画だけに、
まだまだ奥が深そうですが、まだまだ私が感じることはこれくらいです。
数年後にまた鑑賞しようかなと思っています。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
許されざる者 2013日 李相日
北海道の自然の映像が、そこに馬と人が進む画が、
時に悲惨で、時に和み、でもこの映画の底辺にはいつも人のイライラと怯えがあり、
美しい自然にどっぷりつからせない緊張感があります。
勝った者が負けた者達を支配する構図がこの物語の根底にあります。
官軍に負けた幕府軍、官軍に駆逐されたアイヌの人々、
大手を振る勝者は暴力で得た権力を暴力で守りきろうとします。
そして争いがあると常に苦しめられる弱者(女、子供)はこの物語でもやはり
虐げられています。
負けた者は生き延びようと必死です。
そしてようやく居場所を確保して安心と安全に、このままで良いという暮らしをしていました。
けれど、そうは問屋が卸しません。
官軍は、無理やり暴力で支配する構図の中に起こる不安を払拭するために、
過剰な暴力、弱者を根こそぎにしようとします。(屯田兵のアイヌに対する態度)
また、ようやく生きる場を見つけても自然がそれを許しません。(主人公が農家では食べられない)
追い詰められた者達が決起します。
主人公達は明日の糧のため、女達は許すことができないため、アイヌの人達も過去の清算のために。(アイヌは決起していません、アイヌと和人の間の青年が主人公に加わります)
主人公はかつて非情な男でした。人を殺めることを非情に徹して出来る男でした。
もちろん自分や自分達の身を守るためですが。
しかし安定を求めることで、時を経ることで非情さを封印していました。
封印していただけで、無くすことはできません。
それが目覚めていくというのが、この映画の骨子です。
禁忌を犯すごとく主人公は非情に戻ります。
主人公を庇う理由がたくさんあります。
官軍の無慈悲な支配、
身に迫る脅威、
弱者の救済、
義のため、
でも主人公は戻ってしまった自分を許せませんでした。
この映画は悲劇を生み出す社会を憂いています。
そしていつの世も多かれ少なかれそれが社会です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
嘆きのピエタ 2012韓 キム・ギドク
主人公ガントは天涯孤独の30歳、借金の取立屋です。
法外な利息が課されて返済できない債務者から、障害保険で返済させます。
そう、そのやり方は無理やり障害者にすることで取立てる、悪魔です。
彼が取立てる債務者には必ず家族がいます。そして、家族が悲しみます。
けれど容赦なく実行します。家族の涙にも無関心です。
無関心というよりも、感情が動かないのです。
ロボットのように職務を遂行するガントはなぜ血も涙もないのか?
それは、母と名乗る女ミソンが登場し彼の内面がわかってきます。
そして、ミソンが何者かがあらわになるに連れ、物語が終焉に向かいます。
ガントの変化で、
彼が家族と触れたことがないこと、愛を交わす術すら体験がないこと、
そして、体だけはロボットのように強靭に成長したが、
心は愛という交流がない、人に成り切っていない、
まるでオオカミに育てられた少女が人間味がないのと同じように、
愛の体験がない未熟な人格だとわかります。
それはミソンに母を感じはじめてミソンと楽しいひと時を過ごすシーンで確認できます。
彼は幼児そのものです。
その後ミソンに良いように操られることからも、彼は人ではなかったことがわかります。
ミソンはもちろん彼の母ではありません。復讐者です。
けれど恨み晴らさとはいえ、なぜあそこまで食いつくのか。
ガントに母を認めさせるまでには儀式がありました。
ガント自身の肉片を食らわなければならないこと。
ガントに犯されることです。
それに耐えてまでの復讐心は恨みだけでは納得できません。
ミソンの目的は自らの死と、ガントに家族喪失を体現させることでした。
そのために耐えたのですが、なぜそこまで。
キム・ギドク監督は、登場人物達に慈悲を与えたかったからという仮説が成り立ちます。
悪魔に育ったガントにも当然ですが、
債務者達はみなカネに支配された人達でした。
カネがないことで不幸を背負います。
不幸というのは、生活苦とそれに伴う嫉妬、嫌悪、自らへのダメの烙印を背負うことです。
そして、ガントに死に追いやられた息子を持っていたミソンは、
母としての失格を背負う心の開放を望み、それへの慈悲です。
(ミソンは多分、ガントに死に追いやられたとはいえ、息子が自殺を考えていることすらわからない位にしか関わっていなかったことを後悔しているのだと思います)
(また、すべての債務者達は、苦悩します。カネがないか、障害者になるか、です。そんな韓国の街の現実社会を問うてもいます)
ガントは人として愛を体験し、愛する者を守る勇気と失う不安と怖さも体験しました。
そして別れとは何かもです。
ミソンは愛せないはずのガントを愛する衝動を体験しました。
自分にとって禁忌の感情なのに復讐を遂行することで最も許せない者を許す心を得ました。
ガントもミソンも体を意思に任せて天に捧げます。
ミソンはガントへの復讐のためにお膳立てした絶望を体験させることが、
ガントが人として完成させることだと悟りました。
そしてガントは贖罪の道を選びました。
この物語は救われない者が救われないまま逝く物語ですが、
赦しを得た二人を見届けることができる物語です。
そして、ミソンもガントも真の愛を得たことで愛と慈悲の深さを諭しています。
このテーマは一連のキム・ギドク作品で語られていて、
今回もこのテーマを心に刻むことになりました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
東ベルリンから来た女 2012独 クリスティアン・ベッツォルト
1980年の東ドイツの田舎町で当時の東ドイツを描写します。
ベルリンから左遷された美しい女医が主人公です。
彼女には西ドイツの恋人がいます。
最終的には亡命が目的ですが、彼女には監視がついています。
病院には、やはり左遷された優秀な男の医者がいます。
彼との恋物語でもあり、揺れる心をほぼ無表情で演じます。
共産主義の病んだ社会を垣間見せる映画です。
資本主義が素晴らしいとは思っていませんが、
機能不全に陥りどうにもならない共産主義は、
人の負の部分ばかりが抉りだされてしまったことを表現しています。
人らしさをいうものが失われています。
どんな社会でも状態でも、
嫉妬や支配欲等の悪魔の心は持ってしまうのが人間です。
けれどそればかりが強調されることは、普通ならありません。
人を憎むこともあれば、それを想う自分を悲しむこともあり、
喜びを見出して隣人を認めようとするのも人です。
けれど、疑心暗鬼で保身に走り、それを繰り消して悶々としながらも、
金縛りにあったごとく、そこから一歩を踏み出させなくしたのが、
機能不全の共産主義です。
冷戦後20年以上が経ったから、
それをさりげない日常と結びつけて語ることができるようになったから、
この映画ができたとすると、あの社会体制の下には、
私の想像以上に語れない多くの負があったことを痛感するばかりです。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】