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最初の人間 2011仏/伊/アルジェリア ジャンニ・アメリオ
不合理、理不尽、
生きている上で直面します。
世の中には、
支配、略奪、悪意、がまかり通ります。
この映画はアルベール・カミュが想うことを、
問題提起としてこちらに提示します。
1924年のアルジェリアの主人公(カミュの分身)の回想と、
1957年に作家としてかなり成功した主人公がアルジェリアを訪れての想いが、
紡がれていくように映画は進みます。
そこにはみせる物語はありません。
主人公の過去と現在(1957年)の状況説明だけです。
主人公が育った状況と環境、
その後、世界的な作家になった立場と持てた力をこちらに説明し、
でも、
世の中に対しての個の無力をただただ映します。
それは、人ができること、したいことへの非情な現実と
そこに身をおく、それを受け入れる心の尊さと、
生きること自体のむなしさと、
むなしいだけでないことを意味づけする行為(淡々と生活する人達)
も映します。
主人公の故郷はアルジェリアです。
そして祖国はフランスです。
当時のアルジェリアはフランスからの独立を望んでいました。
主人公の父親はフランス兵として第一次大戦で国に尽し、戦死しました。
主人公の家族は貧しく、でもアルジェリアの人達とは違うフランス人です。
そんな生い立ちから世の中とは何かを深く追求し、
そのエッセンスをこちらに提示し、
こちらに世の心理を問う問題として投げかけたカミュの遺作の映画です。
詩の朗読のような映画です。
観客は頭に彼の問題提起を受け止めて、
これから答え探しを、いえ違います。
答えがない答えを求める旅に送り出されるのです。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
俺の拳銃は素早い 1954日 野口博志
日活のアクション映画というと、
石原裕次郎や小林旭ものを連想します。
それとは趣向が異なる映画です。
主演も共演も、どちらか言えば地味、
アクション見てよ!的な演出もなく、
良質のフィルム・ノワール感覚です。
話は単純ですが、ハード。
事件を究明して行く姿を熱くは語りません。
ロマンスもありますが、クールです。
子供との触れ合い等のエピソードも入りますが、
これらも一歩引いた醒めた描写です。
見せ場の銃撃戦が以後の日活アクション映画に近い感じです。
こんな雰囲気の映画があったとは知りませんでした。
中々の掘り出しもんです。
追伸
4/5に、4月の「毎月お届け干し芋」出荷しました。今月のお宝ほしいもは、“有機安納芋の丸ほしいも”です。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
毎月お届けの「今月のお宝ほしいも」の直接ページはこちら
今月のお宝ほしいも
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
果しなき欲望 1958日 今村昌平
戦後10年経った関西のある街、
戦時中の防空壕に隠してあった時価6000万円(当時)
のモルヒネを掘り出すために、4人の男と1人の女が集まった。
皆、癖がある輩達で、独り占めを企みながら協力して行きます。
欲にかられた5人グループが織りなす群像劇です。
サスペンスとコメディの中に、欲望をむきだしにする人を描きます。
むきだしにしているのは、もちろん5人組、
力技で大金を得ることを試みます。
行き着いた街には、彼等とは違うアプローチで欲望を満たそうとする
小悪人がいます。弱い者、無知な者から小金をくすねます。
罰せられないけれど、見ていて良い気分ではありません。
大きなリスクを背負って無理やりの5人組が可愛く、また、滑稽に見えます。
そして、ハツラツとした若者達もこの物語には登場します。
若者達は一見能天気です。
でも純粋です。欲望をコントロールできます。
それに対して、
5人組も小悪人も欲望をコントロール出来ません。
やっている結果はかなり違います。
5人組は、殺人もいとわない何でもありですから。
でも、小悪人も動機はほとんど同じです。
何処かでたかが外れてしまえば…。
しかしやっぱり違います。
ただ繰り返しますが思うところは五十歩百歩です。
若者達とは全く異なります。
最終的に欲望を抑えることが出来ないのが人かもしれません。
5人組を演じているのは、
殿山泰司、加藤武、西村晃、小沢昭一、渡辺美佐子です。
普段は脇役にまわりがちですが、
今回は実質主演です。
持ち味が存分に出ていました。
追伸
4/5は「清明」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「清明」の直接ページはこちら
清明
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
“エロ事師たちより” 人間学入門 1966日 今村昌平
男が求める性を満たすのがエロ事師で、
そのために大真面目に、お客の期待に応えます。
性欲と正面から向かい合っている映画です。
当然、ドロドロの部分、誰もが隠していたいような描写もあります。
そして、カメラは性欲のためならなんでもするような奴らを、
遠目から映します。
愚かで閉口してしまう行為の連続ですが、
格好なんて気にしないで本能を満たそうとする姿は、
エネルギッシュです。
性欲と共に、したたかに生きる生き方も映します。
性欲が本能なら、人を騙してでも楽して生きる生き方は、
本能に悪知恵を足したものです。
主人公もエロそのものですが、
ただひたすらにエロを追求します。
『人助け』とまで言い放ちます。
その姿は滑稽ですが、
所詮愚かな煩悩あふれる人そのものを肯定しています。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
君の名は 第三部 1954日 大庭秀雄
第三部は、
悪役としての位置づけの者達も、徐々に収斂されます。
それはイコール真知子と春樹がいよいよ結ばれるということですが、
一筋縄ではいきません。
真知子が病に蝕まれます。
最後まで引っ張ります。ハラハラさせます。
『悪い人なんていない、みんな良い人なのにみんな幸せに何故かなれない』
と真知子が憂います。
それに気づく悪役とそれに賛同する物語を動かす人達、
で事態は好転するのですが。
最後二人は念願がかないますが、その後は想像に任されます。
全編を通しての感想ですが、
二人の未来はどうでも良いのです。
二人が結びつく過程が全てですから。
『美意識を共感する』
それが、この物語です。
淡路千景が途中で言います。
『私にはできないことを二人はやり遂げようとする』
だから自分ごととしていると。
そして、最後の最後に数寄屋橋で忘却の定義を口ずさみます。
彼女が一番、当の二人よりも二人の物語をわかっていたようです。
二人は純愛ですが、美意識の中で生きていました。
どちらもかけが得ない崇高な生き様です。
二人はかなわぬ恋に、
触れることができないことに、
困難と直面し、それと対峙することに、
魂の消費を賭けていたのです。
当然その行為は他の登場人物を巻き込みます。
観客をも巻き込みます。
この物語は、物語と同化する者を、
同化するものが勿論持つ美しさの魂を肯定する物語だったのです。
(その定義に反発するアウトローがいることは置いておいて)
それは今では通じません。
あの時だからです。
日本が戦争から解放されるのに必要な自信を得るための、
日本人が持つ美意識をどこまでも追求する物語を、
次へ次へと引っ張る演出で魅せてくれた物語です。
だから歴史の一ページとして刻まれている物語であり、
その映画化です。
そして、映画化にあたって豪華キャストでつくられたことで、
今尚それを確認したいと思わせる映画として成り立っています。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
君の名は 第二部 1953日 大庭秀雄
愛し合う二人以外の進展はあるのですが、
各駅停車のような二人の関係です。
そんなメロドラマですが、
この物語は戦後間もない社会が反映されています。
主役の二人も含めて、登場人物達は失ったものがあり、
終戦後に遭遇した影を持っています。
この映画の公開はこの背景よりも十年程経っていますが、
まだまだ戦後の翳りを多くの人が抱えていたことでしょう。
物語には同じような体験の人物がいて、
でも二人は純愛を貫き、まわりはそれを見つめる。
登場人物と同じ目線で近い過去を振り返るということ。
(あくまで推測ですが)
人々は戦争との決着を、このドラマで体現していたのかもと思いました。
第三部へ続く。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
君の名は 第一部 1953日 大庭秀雄
くっつきそうで、くっつくのを心から望みながら
どこまで行っても堂々巡りメロドラマの、
もうこれは古典と言っても良いのでしょうか。
でも、上手い心理描写です。
大ヒットも頷けます。
東京大空襲の夜に命を共にした春樹と真知子、
一目惚れであり、命懸けの一夜の戦友であり、
惹かれ合いますが別れを余儀なく、そこからはじまるのですが、
いつ決着がつくのか。
真知子は浜口を亭主に選びます。
春樹を忘れることを誓って、浜口もそれを承諾します。
真知子は十字架を背負いました。
真知子の唯一最大の誤ちであり、
そこには同情の余地がなさそうなのですが、
段々風向きが変わります。
仏様の様な浜口でしたが、徐々に醜さ(本性でしょうか)が現れます。
母親がそれを後押しする、後押しする、です。
観ている方は、真知子の十字架を取ってやりたくなります。
真知子は尽くしましたが、心ここにあらずは浜口も感じとります。
でも頑張りました。
浜口もそれを承知の結婚でしたから、
もう一つ辛抱があれば展開は違ったのですが。
それと、育ちの問題、母離れできない男・子離れできない母
で問題はこじれて行きます。
そしてとうとう真知子は切り札を切りました。
実家に帰る行為です。
これは浜口にとっては、何よりも大事な面子の問題です。
でもこの切り札も、
妊娠という新たな出来事で。
ここまでが第一部です。
真知子の状況はいつのまにか仕方なく不幸になるという
王道なのでしょう。
そして、耐え忍ぶ春樹の姿がメロドラマ好きには
たまらないのでしょう。
この物語はやっぱり一度抑えておきたかったので。
劇場で鑑賞できて良かったです。
最後に、
キャストが豪華です。
また、
終始暗いシーンの連続の中、
夫婦のやりとりも、愛し合う同士のやりとりも。
その中で、淡路千景の役は明るく、
この映画では欠かせない、
息抜きできる、息継ぎできるという感じでした。
第二部へ続く。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
手錠のままの脱獄 1958米 スタンリー・クレイマー
『招かれざる客』同様二度目の鑑賞。
監督、主演、テーマも同じです。
時代はこっちの方が古い分、人種差別に対する嫌らしさがかなり強いです。
かなり先進的な映画だったことがうかがえます。
細部にそれを感じます。それだけに嫌らしいですね。
ただ、人種差別のことだけが細部に現れているわけではありません。
話の展開につながる部分で
細部に現れる登場人物の仕草やカメラワークは上手いと感じました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
野のユリ 1963米 ラルフ・ネルソン
東欧から流れてきた修道女達が、アメリカの砂漠で教会を立てようとしています。
人もカネもコネもなしに。
そこに黒人の青年が通りかかり、
彼の活躍と、街の人々の協力で教会が立つ。という物語です。
幸運なことに、
キリスト教にも、映画にも詳しい方と鑑賞できました。
題名『野のユリ』の聖書からの出典の部分も聞きましたし、
カトリックの修道女達とプロテスタントの黒人青年との宗教観の違いも
解説してもらえました。
有名な感動作ですが、
キリスト教の機微がわかると、シーンの深みがよりわかります。
これを鑑賞する方は、それを念頭におくことをお勧めします。
追伸
今日(3/20)は「春分」です。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「春分」の直接ページはこちら
春分
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
アナザー・ハッピー・デイ ふぞろいな家族たち 2011米 サム・レヴィンソン
複雑な家庭(一族)の結婚式の前後劇です。
まず、家族像を掴むのが大変といいますか、
家族関係も複雑なら、それぞれが皆病に罹っているので、
ハチャメチャな、傷つけ合いが終始続きます。
主人公リンは情緒不安定です。現在の夫との子供が二人、
エリオット17歳ドラッグ中毒で毒舌・支離滅裂な攻撃的な会話に突然なります。
弟のベンは軽い自閉症。
リンには離婚した夫がいて、その夫との子供が二人、長男の結婚式というのが舞台設定です。
長男の下に長女アリスがいてこの娘が自傷してしまう精神不安定な大学生です。
前夫も再婚していて、その妻がど派手で、操作主義者、リンとは全く馬が合わない。
この夫婦にも子供が二人います。
そして、リンの父は病気と認知症で救急車を呼ぶ常連、
母は介護に疲れて、この人も情緒不安定。
結婚式に集まる親戚達も口が悪いのがそろっています(まあこの程度はよくあるかな)。
そんな人たちが一同に会しての結婚式という状況設定なので、
そこで繰り広げられるやりとりが凄まじいという映画です。
サンダンス映画祭の脚本賞ということですが、確かによくまとめてあったと思います。
人には悪魔部分があって、『弱いものをみつけ、余計になじる』誰しもそんな経験はあるし、
逆もあるでしょうけれど、その応酬なんですね。
だから観ていて疲れます。
人の負の部分を、自己中心的で自己主張したがる図を描いています。
劇中エリオットが
「9.11で家族の絆(存在)を確認できた」
「結婚式ではなくて葬式なら絆が実感できる」
(だいぶ台詞とは違いますが、こういう主旨の発言でした)
とい言いますが、これがこの映画の核心でしょう。
精神的に付加がかかるのが現社会です。
リンも50年以上、一生懸命生きてきて、家族のために尽くしたのでしょう。
その結果が、自分を含め、子供達も精神を病んでいる現実です。
この家族は先進諸国の一歩先を行った家族像かもしれません。
こういう状況と折り合いを付けて生きる、
家族が存在するのが常識になるかもしれないことを示唆しています。
大変な時代の一側面をみるおもいでした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】