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ブログ 今日のいもたつ

銀幕倶楽部の落ちこぼれ

ダーティハリー 1971米 ドン・シーゲル

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爽快感はない物語です。
表面的には勧善懲悪で、事件が解決してヨシヨシですが。

病んでいる社会を憂うばかりの進行です。
俺のルールで裁くようにも見えますが違います。
主人公は守れない場面にぶつかってしまうのです。
やりすぎかもしれませんが、譲れないものがあるからです。

上手く世渡りできないから格好良く見えますが、
主人公は危険な男なのです。
でもその度を越えることに共感します。
そのヒーロー像にあこがれます。

でもこの映画の根底はやっぱり病んだ社会を映しています。
いつの世も病んでない時などないのかもしれませんが、
あまりにも自己都合が勝る社会になったものです。

それを変わりに憂う主人公に自分を重ねるのです。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年03月01日 07:34

招かれざる客 1967米 スタンリー・クレイマー

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二度目の鑑賞です。
アメリカは自国の影も映画として堂々と表現する土壌があり、
これは素晴らしいと思っています。

成功した白人夫妻と一人娘の裕福な家族で黒人の家政婦がいます。
裕福でない黒人夫妻には優秀な一人息子がいます。
そして、新婦と数人のちょい役という登場人物で、
近い過去のアメリカでの差別の状況をとても上手く表現しています。

無駄がない良くできた脚本と今回改めて感心しました。
例えば白人の父親(スペンサートレイシー)が、
アイスを食べている時の台詞などでも、彼の気持ちを窺えます。
細かいシーンと台詞で無駄なくスムーズに話が流れます。

また、父親と母親の思考の違いも面白いです。
母親が子供を信頼し、可能性を見るのに対して、
父親は、この結婚は苦労することがわかることで、
自分が反対したいという感情の正当化を計ります。
理性的を装う感情的な態度です。
自分を投影しているのかもしれませんが。

父親達がこの若夫婦、白人と黒人の結婚、出産を心配していた頃から約40年後、
この若夫婦の子供世代であるオバマ大統領が現れます。
今観ると予言的です。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年02月28日 07:32

みえない雲 2006独 グレゴー・シュニッツラー

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原発事故を予言していたような内容です。
福島原発はこの映画と紙一重です。

あれ以来、誰もが原発に対して、
自分なりのスタンスを持ったはずです。
脱原発への力は働いているのでしょうけれど、
その動力源は、自己利益でしかないとしか思えないと
とらえているのは私だけではないと感じています。

原発事故の要は『起きたら終り』というところです。


映画も起きたらどうなるか、を映します。

人はすぐに忘れます。
そして、楽に流れます。
そして、思考停止になりがちです。

だから、自らそうならないことを心がけるしかありません。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年02月16日 07:15

HUNTERXHUNTER 緋色の幻影 2012日 佐藤雄三

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昔、怪獣映画を見て、オールキャスト程面白くなくなる体験を、
ちょっと思い出しました。
まあ、この映画もお祭りなんでしょうから、
そういう楽しみ方でした。

テーマのひとつは、
「本当に生きるには」で、
このあたりは、人形と人形遣いが相手キャラクターということから
つながります。
それと、キルアを重ねて、
「らしく生きる」「自分て何?」
迷いながらも進もう。
という展開でとても健康的でした。

まっすぐに生きるゴンでさえ、
操られている(操作系に操作されているという意味ではありません)
かもしれませんし、
ヒソカのキャラクターも、
クラピカの正義も、
「本当に生きている」かと問われれば、怪しいし、
解らないものです。

生きていくことは、
何か起こるといつもの反応でしかない自分に気づいて、
違うことをやってみるという、
自分の確認をしていく。
これが難しいのですが、それをしていく、
キルア達の姿に私自身を重ねたいと想う映画でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年02月11日 08:02

東京暮色 1957日 小津安二郎

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悲しい悲しい物語ですが、
明るい小津映画と同じ位、私達の日常を感じます。

傷ついた家族の物語です。
妻に逃げられた夫、
夫と子供を捨てた妻、
長女は結婚して一児を設けますが、夫婦関係は上手くいっていません、
男に弄ばれて堕胎しなければならない次女。

父は娘を想いますが、母親になれるはずはありません。
突然現れた母(妻)を娘は許せません。
母も許されるとは思っていませんでしたが、
淡い期待がありました。
娘も母を許すきっかけが欲しかったのかもしれません。
しかし、望む路線とは逆になってしまいます。

次女に不幸が訪れて、母は長女から引導を渡されます。
父は何もできません。怒りすら封印していたいようです。

4人の登場人物は、皆受身です。
流されているように見えます。
小津映画特有の変わらない風景で、
いつのまにか変わっている、
時は流れていて無常であることを訴えます。

翻弄されているのは4人だけではありません。
次女を弄んだ男も、その仲間も、
妻の今の夫も、そして父も、次女も長女も、その夫も。

唯一父の妹だけが、流されていません。
だからこの物語は真実に迫ります。
流されていない人間なんて、ほんの一握りで、
流されている人たちは優しい普通の人たちです。
ラスト、長女は自分から選択をします。
後ろ向きっぽい選択ですが、選択した自覚がある選択です。
妻も後ろ向きの選択をします。
ここは切ない希望です。
それと相対するのは父の姿でした。

非情に真実を映す良い映画でした。


最後に、シーンに反する音楽が多用されています。
これもこの映画を深く深くする演出でした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2013年01月03日 09:55

狐の呉れた赤ん坊 1945日 丸根賛太郎

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戦後すぐ、11月の公開の活気あふれる映画です。

展開が読める人情話ですが、中身が濃いです。

暴れん坊の主人公を取り巻く連中、
ライバル、
相談役の大家さん的な人、
その娘とのちょっぴりのロマンス、
ドタバタの中で人とのつながりを示唆します。

主人公は、我が儘な部分と、父親の部分と、
決して出来が良くはないのですが、
人として魅力あることが見逃せません。


何でもありでない、
人のために生きるのが自分のためのような、
当たり前のことを楽しく盛り込んでいる映画で、
造り手の気概を感じます。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年12月23日 07:55

赤い家 1947米 デルマー・デイヴィス

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愛するが故に誤ちを犯した男が、
罪にさいなまれていた、それを封印していたのに、
あるきっかけで、思い起こされることになります。

謎が徐々に解かれていき、男の苦悩が『愛する故』となっていくのがわかるのですが、
愛する者を過失で殺し、憎む者を憎んで殺しています。
愛するの裏側に嫉妬や、見返したい心が潜むのが見えます。
ただし、男は平凡ですから、罪が頭から離れません。
その償いのように、愛するが故に過失で殺した者の娘を可愛がります。

娘が成長すると、愛した女性に重なるのですが、
そこまでの幻覚をみるに至る経緯がこの映画で一番恐ろしい姿でした。

強烈な愛が成就できない、自己の中で完結していないことが、
精神を蝕むのですが、娘を代理にしてまでも己の愛を完結させないと、
死を迎えることも出来ない姿です。

映画では、様々な恋人関係が登場します。
高校生の青い恋と三角関係、
(純愛とよこしまな関係)
大人になりようやく成就する恋、
大人になっても両想いでありながら結ばれない恋、
その中でも主になったのはとても強烈な執念の想いでした。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年12月13日 07:56

殺られる 1959仏 エドゥアール・モリナロ

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映画全体がフィルム・ノアールの雰囲気に覆われています。

圧倒的に不利な状況が少しずつ打開されるのですが、
成す術が無い男が恋人のために歯を食いしばります。
それと、美女達が食い物にされる設定なので、
男を応援したくなります。

ラストの銃撃戦以外は、クールな演出なので、
早い展開のリズム感との相乗効果でかなり楽しめました。
ラスト男が格好良くなりすぎたのが
ひっかかりますが、(嫉妬してしまう程)
健気な健闘だったので良しとします。

フィルム・ノアールとしては、この作品も古典の部類でしょうか?
見応えもあるし、ツボを抑えていると思いました。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年12月12日 07:08

カミハテ商店 2012日 山本起也

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自殺の名所のお膝元にある商店がカミハテ商店です。

小学校の近くにある文房具屋で、文房具以外に、
コッペパンと牛乳を売ってます。
自殺志願者が最後の食事でこのコッペパンと牛乳を食して、
おもいを遂げるというのが映画全体の背景です。

カミハテ商店の店主は黙々とコッペパンを焼きます。
そして、自殺した者たちの靴を持ち帰るのも日課です。

彼女(店主)がどういう気持ちでコッペパンを焼き、渡し、
消えた人の靴を持ち帰ったかなんて、知る由はありません。
でも、そういう営みの中で彼女は何十年も暮らしていました。

ただ無力なことを彼女とともに感じることはできました。

通りすがりで合った人に対して、
その人がどんな人生を歩んだのか、全く知ることも感じることもできないのに、
正論や常識、正義論や道徳を交わしても死を決意した前提のなにも解らない
そんな者には交わす資格さえないのです。

彼女が粛々とパンを焼く、靴を拾う。
それは営みとして私は生きることを決めているという
観客への投げかけのように感じました。

追伸
本日12/7は「大雪」でした。二十四節気更新しました。
ご興味がある方は、干し芋のタツマのトップページからどうぞ。
干し芋のタツマ
二十四節気「大雪」の直接ページはこちら
大雪

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年12月07日 21:54

ヴァンパイア 2011日 岩井俊二

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気が弱く、でも罪を犯している、そのくせ醜悪なものを拒む、
そんな主人公のヴァンパイアは自分の分身のようです。

主人公は、自殺志願の女性を幇助して、血を抜き、
血を飲むという欲望を満たします。
その欲望は満足することもなく、果てることもない、
虚しさが同居しているものです。
主人公は、血を飲む度に吐いてしまうからです。
けれど、主人公の前に天使が現れました。
彼を包み込む彼に血を与えるという無償の愛を与えるという女性です。
(主人公は彼女の首から血を飲むという、
自殺幇助なしに血を得るという、欲望を満たせてくれる女性です)

けれど、その女性とは引き離されます。
その理由は、この映画がヴァンパイア映画だからです。

血を飲まずにいられない。(生につきまとう欲望)
ヴァンパイアは救われない。
世の中の日の当たらない場所で生きる。
そういうヴァンパイア像を借りた
ごくごく普通人が生きている様を描いた映画です。
少なくても主人公と私は、
生きている根源と、日常の行動の動機は、
変わらないと思わずにいられませんでした。


この映画には他にも象徴的な人が出てきます。
彼に対して無償の愛を持つ天使の母、
日常の彼は、天使から物理的に施されることはありません。

自殺志願の女性達、この女性達は、
主人公をはじめとする弱き普通人とつながりたいけれど、
それが怖い、めんどくさい、
これも主人公や私と同類の人達です。
「死」というジョーカーを使う所が私には出来ませんが。

主人公の中にズカズカと土足で入り踏み荒らす女、
この女は一見何も罪を犯していません。
自分にその自負があるから尚の事厄介です。
そして、社会も女を正当としますし、
けっして暴力としません。

もう一人、似非ヴァンパイアです。
この映画のヴァンパイアが、
己の欲望を控えめに成就させようとしている、
自分の中だけでしかない儚いものだけど、ルールを持っているのに対して、
似非ヴァンパイアは、何でもありです。
主人公にとっては醜い存在です。
でも似非ヴァンパイアは、社会の目をかいくぐる限り破滅しません。

実際にこの映画ではヴァンパイアだけが破滅しました。


ヴァンパイアと死にゆく女性達・社会から消えて行く者達と、
正当を公私共に自負する女と似非ヴァンパイアは、
あまりにも対象的です。

これらの登場人物が織りなす世界を、俯瞰して観せてくれる、
そこのどこに自己を重ねるか、
それを観て自分の存在を確認する映画でした。
映画の中に自分を置いた時、
改めて身近に佇んでいる天使を想うことができます。

【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】

日時:2012年12月06日 01:00