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FAKE 2016日 森達也
この映画は、私は何者かを問うてきます。
人は自分が可愛いし、守りたいし、人からも愛されたい存在です。
世の中は安直です。そして人はすぐに思考停止して、面白おかしくその日暮らしをしようとします。少なくても私はこの映画でそんな自分像を振り返るばかりでした。
佐村河内氏のゴーストライター問題を題材にしていますが、その真偽を追う体裁ですが、真実を明かすことに価値をおいてはいません。真実なんて人それぞれだから。
それよりも人の性と人が陥りやすい習性をみせつけられます。
面白おかしければ良いとするテレビ局やマスコミの姿も当事者としては部分最適なのです。良い悪い、白黒付けたい気持ちは弱さの現われです。
人はもっと複雑で繊細なのに、自分はそうである自覚はあるのに、他人はそうでないとしてしまいます。
怖ろしい話です。
そしてこの映画は“信頼の映画”でした。
ほぼ佐村河内氏と氏の奥様(と飼いネコ)そして時折、作者の森監督が登場するだけの映画です。他には取材に来るマスコミ関係者と、この騒動のキーになる新村氏と神山氏が少し映される程度です。(神山氏の映像はなかった、触れられはしますが)
そこに映されるのは、佐村河内氏と奥様のつながりです。そこには真偽なんてどうでも良いことがわかります。氏が傷ついているかが問題で、生きていかなければならないのだから、どうするかに注視してしまいます。
浮かび上がるのは二人の愛と信頼です。そして、その二人と(仕事ではありますが)真摯に時間と労力を惜しまない森監督との間に信頼が生まれます。
あまりにも希薄な人間関係でいることでも、生きることが可能になった現代は、他人を愛おしく想う機会がなくなってきているということも強く感じました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
シン・ゴジラ 2016日 庵野秀明 樋口真嗣
初作の「ゴジラ」に敬意を表してその精神を受け継いだまさにシン=新しい、真実の“ゴジラ映画”です。
まず造り手のやりきった感を感じる、ディテールまで丁寧に造りあげた内容と映像です。
前半のゴジラ登場、それに対応する政府をジェットコースターのように映しますが、本当にリアル、良くも悪くも日本の実態を映します。
そして日本はチームで運営されていることを堂々と語ります。
「アメリカは大統領が決める、日本は誰が決める」この台詞はアメリカから派遣された美貌で超優秀な政治家、日本をアメリカの思惑通りに動かす使命を受けたエージェントのカヨコ(石原さとみ)の言葉です。
その後、かなり多くの登場人物が出る映画、しかも前述したとおり、日本は個ではなくチーム=団体(官僚達)が主役の中、主人公のエリート官僚の矢口(長谷川博己)が、総理が亡くなった後に、「次のリーダーがすぐに決まるのが日本の強みだな」と言います。
この物語は有事の際の日本を綿密にシュミレーションしています。
そして東京(日本)が苦境に立たされていくのですが、随所に反戦メッセージがあります。またゴジラは生長していき、破壊があり、その破壊と生長に反核が織り込まれています。
日本単独、自衛隊だけではゴジラを倒せません。すると安保条約からアメリカが参戦(正確には正体不明物体の駆除)します。けれどやはりゴジラには歯が立ちません。どうにもこうにもいかなくなると、今度は多国籍軍が結成されて、なんと東京に核を落とすという展開に。
とてもスリリングで、しかも今の日本ではあり得ることで、これも初作の精神です。
ゴジラの体駆と放射能を放つ能力は初作以上ですが、ゴジラデザインは従来のゴジラの格好良さを既習していて、ゴジラを葬る方法も初作をのっとり、現代に沿ったアレンジで、このあたりはゴジラファンをくすぐります。
そして最初の「ゴジラ」の文字、最後の「終」の文字、また音楽、これらは初作をそのままです。ゴジラファンを泣かせます。
大満足の映画「シン・ゴジラ」でした。
追伸
9/7は「白露」です。二十四節気更新しました。
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白露
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
レベッカ 1940米 アルフレッド・ヒッチコック
二転三転するどんでん返しも見事ですが、そこへの持って行き方が上手いです。
前半と後半の雰囲気の違い、そしてジワジワと主人公二人が追い込まれる感じ、面白いです。
やもめの大富豪マキシム(ローレンス・オリヴィエ)に見初められた庶民の無邪気な「わたし」(ジョーン・フォンティン)。旅先で知り合い結婚、そしてマンダレーというお城のような邸宅にマキシムに連れられて行った「わたし」はビックリ。そこは自分とはかけ離れた世界、そして前妻レベッカが亡霊のように棲みついていたから。
レベッカは完璧な上流階級の美女、「家柄、知性、美貌」を備えていたという。そのレベッカを慕う侍女のダンヴァース夫人(ジュディス・アンダーソン)にあからさまに精神的に追い詰められる「わたし」です。
ここから話は急転回。
レベッカは確かに「家柄、知性、美貌」を備えていたけれど、マミシムの良い妻ではなかったことが、マキシムの「わたし」への告白で解ります。しかもレベッカの最期にはマキシムが関わって、秘密がありそれを聞いた「わたし」、でもここから「わたし」が変化します。
精神的に自立していなかった「わたし」は、マキシムからの愛を確信したからです。
そして物語は二転三転します。
それが文句無く面白いし、説得力があります。
レベッカが完璧な存在であったこと、でも大きな闇もあったことを、ダンヴァース夫人や、屋敷の小道具や、邸宅の周りの海の霧の描写でひしひしと感じさせる演出。
貴族らしいマキシムですが、レベッカに関わりがあることに関しては、男の大人ではなくなるところ、ここも謎めいていながら、話が進むと明らかになります。
ことほど左様に、些細なことの積み重ねが張り巡らされた画面から、一筋縄ではいかないミステリーの雰囲気が伝わり、それが徐々に盛り上がるところがこの映画の良さです。
また、「わたし」が追い込まれる、それをジョーン・フォンティインが好演で、シンデレラストーリーなのですが、ラスト近くから必死に現状を乗り越えようとする様は、これまでの自分とは違うということを自分自身に言い聞かせているようで、美しかったです。
他のヒッチコック作品とは一風違う感じですが、見応えは変わらないですね。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
裸足の伯爵夫人 1954米 ジョセフ・L・マンキウィッツ
若くして亡くなった世界的な女優マリア(エヴァ・ガードナー)の葬儀で、彼女の親友であり、パートナーの映画監督ハリー(ハンフリー・ボガード)の回想で始まります。
その3年の回想でマリアが大女優に、伯爵夫人にまで登りつめ、でも彼女の貧しい生い立ちも語られます。
彼女が手にしたものは何だったのか?
とても脚本が良い、ジョセフ・L・マンキウィッツは流石です。
回想はハリーだけでなく、複数の登場人物です。
多面的な視点で、マリアの人となりが語られるのですが、それは複数の男からみたマリア
であり、マリアの本心は彼らも観客も想像するしかありません。
このあたりがとても上手いです。
マリアは伯爵と結婚することで幸せを掴むはずだったのが、結局悲劇に巻き込まれるのですが、もちろん悲劇で終わることは解っていて、ではどんな秘密があるのか、それはマリア自身がどんな人物だったか、なぜ死ななければならなかったのか、ずっと観客をひっぱります。面白かったです。
ハンフリー・ボガードはマリアに慕われ、でも恋には落ちないという、そして、かつては名監督で落ちぶれているところからスタートし、マリアと共に再生していきマリアの父親代理の役どころです。はまり役で、やっぱり渋い良い演技と存在感があります。
それを超えてしまうほど、エヴァ・ガードナーの美しさも見どころです。
追伸
7/7は「小暑」です。二十四節気更新しました。
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小暑
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
暗殺の森 1970伊/仏/西独 ベルナルド・ベルトルッチ
自分の本性に怖れる男は、違う自分を目指したのだけれども、それが脆くも崩れさってしまった。
第二次大戦の渦中に普通に生きたいと願った男の生き様を通して、人が抱く普通とはを語っています。
マルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は精神を病んでいる父と情夫を持つ退廃的な母の血を受け継いでいることと、少年の頃にファシストのリノ(ピエール・クレマンティ)という男に性的な虐待を受けそれから逃れるためにリノを殺害したトラウマを持っています。それが自分は普通ではないという怖れになり奥深く根付いています。
それから逃れるために普通を目指すのですが、その道はファシストとして生きることです。
およそ知的に釣り合わない美しい妻ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)との新婚旅行を装い、ファシストとしての使命を遂行するマルチェロ、その使命はかつての恩師カドリ(エンツォ・タラシオ)の暗殺の準備でした。
カドリには妖艶な妻アンナ(ドミニク・サンダ)がいます。マルチェロを疑いながらも二人は惹かれあいます。
そして遂に暗殺へと、そこにはカドリ一人に段取りをしたはずだったのに、アンナもいます。当然のごとく二人は暗殺されます。
物語はそれから5年後の1943年7月25日、ムッソリーニ退陣の日に飛びます。
マルチェロが盲目のファシスト仲間と街を彷徨っている時、なんとリノに出会います。彼を殺害した記憶は、マルチェロが、虐待から逃れるため、リノを憎むあまりの作った記憶だったのです。
普通を望んでファシストとして生きたこと自体が否定されます。それ以上にもうマルチェロは自分は正常なのか異常なのかが解らないのです。さらに自分が生きた証ももう虚であることに絶望します。
自分は正常か異常か、自分は主体的なのか、人はそれに対して確固たるものを持ちえない存在だとした映画です。
ヒロイン二人の別タイプの美しさも堪能できる作品です。妖艶で退廃的で高貴なドミニク・サンダ(当時19歳にはとてもみえません)、綺麗な目鼻立ちで美しいのにコケティッシュなステファニア・サンドレッリ(新婚の彼女と数年後の彼女の雰囲気が別ものなのも良い演技でした)、二人のダンスジーンは出色です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
地下鉄のザジ 1960仏 ルイ・マル
田舎からパリに出てきた子供のザジ、叔父さんに預けられます。
その叔父さんはじめ怪しげな大人達とザジがパリ中を鬼ごっこするお話、
ドタバタコメディです。
表面上はハチャメチャ、これでもかっていう位、大人達がザジに振り回されます。
けれど、その奥は結構辛辣なメッセージが込められています。
まず、地下鉄に乗りたかったザジですが、地下鉄はスト中、最後の最後にザジは地下鉄にのるのですが、疲れ果てて眠っています。
戦争や大人の色恋や禁忌や外国批判や警察が正義でない等々、結構表沙汰にしにくい事をオブラートに包んでいます。
ザジが大人を振り回しているのですが、大きな視点では大人の都合が優先されて、ザジはパリをぐるぐると走り回っているように見えます。
ちょっと理屈っぽくなりましたが、そんなことはおいて置いて、楽しい映画です。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
さらば冬のかもめ 1973米 ハル・アシュビュー
ベトナム戦争の苦悩を描いているとしか思えない映画でした。
たった40ドルを募金箱から盗もうとしただけで、海軍を懲戒解雇と8年の服役に処される未成年のメドウズ(ランディ・クエイド)を、護送する先輩海兵バダスキー(ジャック・ニコルソン)とマルホール(オーティス・ヤング)の二人は、メドウズに同情的です。
護送時間5日間にメドウズにせめて楽しい想いで作りをという話です。
ビールをたらふく飲ませたり、母親に合わせようとしたり、最後の夜は童貞のメドウズを男にさせてやります。
でも結局やれることはそれだけ。理不尽な軍には全く逆らえないという構図です。
メドウズには、万引き癖があります。窃盗未遂もその癖がでたのです。そして、言いたいことを言えない性格でもあります。
これはベトナム戦争で病んだ若者の姿です。
それをバダスキーとマルホールが成長させようとします。
例えば、メドウズはチーズバーガーのチーズは溶かしてと注文しますが、溶けてないものが出てきても店員に言えません。それがラスト近くでは、柔らかい目玉焼きを注文して、固いと突き返すことができるようになります。
確かにメドウズはそれなりに、言いたいことが言えるようになったり、どんちゃん騒ぎができるようになったりと、押し殺していた感情を表出できるようになります。そして最後は二人に恩を感じていたため逃げ出すことができなかったことも覆し、逃げようともします。
でも、結局は逃亡もできず刑務所へ。
バダスキーとマルホールも自己満足の域を出ることができないとしか見えません。
3人とも、そして軍も病んだままなのです。
もうひとつ、メドウズを母に合わせるエピソードも印象的でした。
曖昧に会いたがらないメドウズを無視して合わせようとするバダスキーとマルホール、母は居なかったので、家で待とうとすると家の中は、酒ビンが倒れているという情景です。
その後諦めて駅でのメドウズの言葉は「合っても話すことが思い浮かばない」
メドウズは愛が解らない可能性があります。それが万引き癖にもつながっているのかと。(父親も既に他の女と再婚している)静かに壊れているのです。
それを迎えるバダスキーは結構壊れていて、マルホールはまともなのですが、周りに振り回される性格です。
一見呑気なロードムービーですが、苦笑いしかでない、歯車がいつも合っていないそんな雰囲気です。
だからこの映画は、ベトナム戦争が及ぼしたアメリカの苦悩に映りました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
野火 2014日 塚本晋也
塚本晋也監督の執念を感じます。
現実にあった地獄絵図が再現されています。
フィリピンの美しい風景、自然と、その森の中で飢えと恐怖で狂気一歩手前の主人公が見た、体験した狂気の沙汰がフィルムに収められています。
太平洋戦争末期の、かろうじて軍として機能していた頃から、完全に軍のていをなさなくなり、ゾンビのように森を彷徨う日本兵達、一秒後に死んでもおかしくない、今発狂しても何も不思議ではない、生きていることが地獄、いや生きているのかいないのかさえも自覚できていない、そんなもう人らしくなんてことが全くない中で息をしているしかない、日本兵達の姿です。
正直、この時代に生まれていなくて良かったと、映像を見て安堵する自分がいます。
これが私達の親世代が体験したことであることだとか、だから、先人に感謝するだとか、
戦争に対しての怒りだとか、そんな感情よりも、この世界に投げ出されたら、唯一持っている手りゅう弾で自決する権利を私は行使できるだろうか?
その方が絶対に楽という現実をしっかりと映像化しています。
映像は時々、息をのむほどの美しい風景を写します。
最後まで見てもらう配慮のように感じます。
それほどまでに、あまりにも凄惨な映像なのです。
でもそれが真実であったのだから見ていて苦しいのです。
主人公の目線で描かれる映像、でもとてもではないけれど、多分主人公が感じたことのほんの一端しか私は汲めていません。
あたりまえです。安全で温かいところから見ているだけですから。
でも見なければなりません。こんな間違いがまた起こることを防ぐためにです。
追伸
4/4は「清明」でした。二十四節気更新しました。
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干し芋のタツマ
二十四節気「清明」の直接ページはこちら
清明
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
キャロル 2015英/米/仏 トッド・ヘインズ
1950年代のアメリカの良い面も悪い面も十分に表現されています。主演女優二人の目線、表情でそれを感じ取る、そうまさに映画の世界観を受け取る映画でした。
上流階級のマダムのキャロル(ケイト・ブランシェット)と、百貨店の売り子のテレーズ(ルーニー・マーラ)が出会います。互いに惹かれ合いなくてはならない存在になりますが、時代はそんな同性愛を断固として受け入れません。
同性愛者は、夫と離婚調停で娘の親権をもらえないそんな時代、キャロルの境遇です。
テレーズは、自分では物事を決められない性格、そして恋人に結婚を迫られています。そんな時にキャロルと合います。
そんなテレーズは当時のどこにでもいる女性で、でも、自分ができること、やりたいことを本当は貫きたい、キャロルと出合い変わっていきます。
物語は、二人が旅行に出て愛を確かめ合うと、それが仇となってキャロルの離婚調停が不利になることで、一転していきます。
二人は別れることになりますが、でもお互いを慕っていて、そして、自らを成長させます。二人の女性、特に若いテレーズの成長物語でもありました。
テレーズが可愛い女性からの美しく垢抜けていく女性になっていく様は、ルーニーマーラが上手く表現していました。
それと対峙するキャロルのケイト・ブランシェットも素晴らしい演技です。
上流階級の上品な落ち着きがある女性で、テレーズを憧れさせる強さがありながらも、翳りがある女性、時折弱さも垣間見せます。
秀逸なのは、二人がその表情と雰囲気と目線と仕草で、お互いを想う気持ちや、現状の立ち居地での気持ちを表現しているところです。それがまた魅力的に描かれているのは、二人の演技力プラス演出の力です。
味わい尽くしたいと想わせる魅力があります。
そして、再現された1950年代のアメリカの世界観も見所です。
行間を観る映画でした。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】
はなちゃんのみそ汁 2015日 阿久根智昭
人生に制約があると、苦しいけれど、その分濃くなるということを示してくれています。
若くして亡くなった千恵さんはもちろん無念でしたでしょうし、遺された夫の信吾さんも娘のはなちゃんも残念きわまりないでしょうけれど、とても濃密な時間を過ごしたことがこの映画で伝わってきました。
この家族の実話を丁寧に映画化された作品でした。
もちろん涙なくしては観られませんでしたが、生きる上で起きていることは一方ではない、辛いことも辛いだけではないことがわかります。
夫婦二人はどれだけ相手に想いを掛けたのでしょうか?あれだけ娘が健やかに成長することを願った母は稀有ですし、娘にもそれは伝わったでしょう。
逃れることができない制約を受け入れた時、人は本当に素晴らしい存在となることと思えました。
【銀幕倶楽部の落ちこぼれ】